要領が悪くてもずるはよくない 後編
ーーいいのだろうか、こんなことをして。いや、大丈夫だろう。トリプルチェックなんだ。どうせ後ろで引っ掛かるに決まっている。
蜂蜜色の女性に言われたことは、とても単純なことだった。
『入試のとき採点を任されたら、低い点数の子の採点をかさ増しすれば?』
『いや、そんなことは』
『でも、少しくらい頭の悪い子が入ってくれないとあなたの話は誰も聞いてくれないわよーー一生』
一生。その言葉にゾッとした。
今ここに来て、また恐ろしくなっている。震えが止まらない。誰にも話を聞いてもらえないなんて耐えられない。耐えられるわけがない。
ーーそれに、どうせこの先に二人のチェックが待っているんだ。採点ミスは俺のせいじゃない。俺のせいじゃないんだ。
そう言い聞かせながら、不正解に丸をした。
○○○
「やったあああああああああああああああ!」
目の前には手元の番号と同じ番号が記されていた。やっと努力が報われた。優しい女性に出会い、奇跡的に試験会場に間に合い、受かったのだ。運命が味方していた。
○○○
「はじめまして。これからよろしく!」
一年生だというのに覇気がない。毎年のことだ。彼らの瞳はこんなところには向いていないのだ。もう、大学受験に向けての勉強をしている子までいる。そんな中で、一人、目を輝かせている男の子がいた。
ーーこの子ならきっと、俺の話を聞いてくれるはずだ。
授業が始まった。
いつも通りの光景。ただ並びが数学だったり、英語だったり。生物だったとしてもページが全然違った。けれども昔よりは充実していた。
「先生、こことここが全然わからなくて」
「えっと、これは……」
授業終わりに必ず質問にきていた。
正直言うと、こんなこと? というようなものだがそれでも話を聞いてくれるのは嬉しかった。
何度も何度も同じ話をした。それができるのが嬉しかった。
○○○
最初の定期テスト。
生物を除き、赤点。それが、壁に張り出されていた
ーーあれだけ勉強したのに。何で?
必死に勉強した。授業は必死に食らいついて聞いていた。部活にも入らず、放課後も誰とも話さず速攻で帰った。だから友達もいない。
周囲の人間は噂さえしなかった。それどころかテストのことさえ気にしていない様子。まるでそんなもの無かったかのように、普通に学校生活をしていた。
ーー本当に馬鹿みたいだ。あれだけ努力して高校に入ったというのに。
周囲の人間はまるで俺がいないかのように生きている。ああ、どうしてだろうか。頭の悪い人間とは一緒にいたくないということなのか。
毎日、毎日が辛い。馬鹿にされることすらない。意識されることもない。孤独を抱えながら机に向かう。
だが、ペンは動かない。
ある日、先生に指された。
「じゃあお前はこれな。これくらいならできるだろ」
馬鹿にしているというよりも憐れな目で見つめられた。このままいくと間違いなく留年である。先生もそう思っているのだ。彼らは俺のために再試験などしない。意地悪などではない。そんな生徒は今まで出会ったことないのだろう。俺の点数が悪すぎて、どうしていいのかわからないらしい。
指された問題は数学。全くわからずに黒板の前に立ち尽くした。
「うーん、じゃあ戻っていいぞ」
クスクスという笑い声さえ聞こえない。
ーー生きてるのと死んでるのと何が違うんだ?
○○○
出席簿を忘れたので教室に戻った。
戦慄したといっていいだろう。
何せ目の前の光景は生まれて初めて見るのだから。テレビや映画では見たことがあったが実際にはもっとむごい。目は腫れ上がって飛び出しかかっている。舌は胸まで伸びていた。夕日の逆光のせいなのか、そうでない理由からなのか。肌の色は真っ黒に見える。
ひどい臭いに気がついたのは一瞬あと。吊るされた少年からは糞尿が滴っていた。
「う、あ……」
声が喉に詰まって出てこない。体が氷のように固まって動けなかった。
「だ、え、誰かああああああああああ」
そこから意識が吹っ飛んだ。ショック状態の中、大声を出したのが原因だろう。
気がつくと、病院の中にいた。
「大丈夫ですか」
医者だろうか。女性が声をかけてきた。
「無理もないです。落ち着いたら私と少しお話ししましょう」
少しカウンセリングを受けた。無理もない。あんな惨たらしいものを見せつけられたのだ。
カウンセリングの後、病室には警察の人が来ていた。
「こんにちは。昨日の男の子の件でお話しよろしいでしょうか」
「ええ」
話を聞いてくれるなんて夢みたいだ。
「……ではお大事にどうぞ。何かあったらいつでも相談してくださいね」
病院を出ると大量のフラッシュに襲われた。
「自殺した生徒はどのような学校生活を送っていましたか」
「先生、どうしてこのようなことになったと考えられますか!」
「先生に責任は無かったと考えられますか!」
「いじめとの関連性は? いじめはあったんですか、無かったんですか」
人々が我先にと俺の話を聞きに来ている。
愉悦だった。
今まで、こんなに人に必要とされることなんて無かった。
「こちらに乗ってください」
せっかくの機会だったのに看護士が邪魔をした。
俺の手を引いてタクシーの中に押し込んだ。
家に帰ってから電話があった。
『明日からですが、すこし休んでいてくれても構いませんよ』
という休めの指示。別に構わなかった。やりたいこともあったし。
「ええ、しばらくは休むつもりです。ですが、生徒の担任は私でしたので、会見などは行きたいと思っています」
その晩は楽しみで仕方なかった。
○○○
あれから半年、俺は本を書いた。自分の生徒が死んでしまってから自分がどうなっていったのかを。
結論を言えば、どうなっていってもないが、それでも物好きな人は多いようでそれなりに金を稼いだ。
今日もまた、学校に行く。相変わらず生徒たちは俺の話を聞いてくれない。が、それは授業中のみだ。授業が終われば彼らは決まって聞いてくる。本物の死体はどうだったのかを。それを鮮明に伝えた。目を輝かす生徒を見るだけで心が満たされていく。
うきうきしながら玄関の扉を開けて、駅まで歩く。スキップしたくなる気分。
ーー死んでくれて感謝……かな。
そんなことを思いつつ、角を曲がると。
車に轢かれた。
薄暗くなる意識の中、聞こえてきたのは呪い。
「私の……息子で……遊ぶな」
一命をとり止めた。それなりの事故で因縁があった。だからきっと一大事で、誰かが話を聞きに来てくれているに違いない。違いないのだ。
だから俺は病院のベッドでことのあらましを丁寧に、そして何回も説明した。
○○○
病院の廊下には二人の看護士。
「あの人どうしたんですか?」
女性の看護士が同僚に尋ねた。
「ん? 事故で目と耳が不自由になったあげく、半身不随だって。かわいそうにね」
「それであの人、ああなっちゃったんだ。だっれもいないのに、一人で大きな声だして」
二人で話していると、向こうから蜜蜂色の女性が反対側からやって来た。
すれ違い様に声をかけられた。
「ふふ、そうね。でも仕方ないわ。悪者なんですもの」
すれ違う蜜蜂色の女性。髪をたなびかせて、甘ったるい匂いを振りまく。
「あんな人いたっけ?」
「さあ? 誰だろう」