要領が悪くてもずるはよくない 前編
ーーこんなに勉強しているのにどうしてこんなのなんだろう。
目の前には一枚の紙切れ。そこに並ぶのは五つの並んだE。お前みたいな馬鹿はこの高校には入れないよ、と言われているようだった。
ーーこんなもので俺の努力がわかってたまるか。こんなに努力しているのに。
授業は真面目に聞き、帰ったら、まず勉強。だいたい毎日最低でも三時間は机に向かっている。それなのにこの成績はなんだというのだ。こんなにやっているのにどうしてE判定なんだ。出される問題はいつも自分のやっていないところばかり。こんなもの、どこの教科書に載っているというのだ。
隣のいつも寝てるやつ。こいつの成績よりは良いだろう。自分より下を見ないとやっていけない。そっと覗きこむと、そこにはあり得ない数字が刻まれていた。
ーーなんで……こいつが……。
自分よりも十以上の偏差値。
そして一言。
「うーん、こんなもんかあ。もーちょっと頑張んないとな。ふわぁ」
あくびをして、また寝た。
ーーもーちょっと頑張んないとな、だと。じゃあ俺はこれ以上どうやって勉強すれば良いというんだ!
嘘つきな紙切れを握りしめて、鞄の奥底に入れた。
電車の中、帰る途中にあいつを見かけた。扉の端に寄りかかって何やら参考書を読んでた。
ーーきちんと机に向かって勉強しろよ。
そんなことを思いながら俺は電子端末をいじっていた。
家に帰って一直線に机に向かう。勉強したあと、少し休憩。というのも電車の中で見たあるサイトが気になった。
『なんでも願い叶えます。あなたが悪でないのなら』
相談内容は多岐にわたっていた。騒音トラブルから浮気相手を呪い殺してくれなど。なかには受験の話もあった。
ーーここに相談すれば、成績が上がるのではないか?
そして俺は願いを書き込んだ。
○○○
ーーああ、これがいつもの風景。
教壇に立って眺める風景は子供の時の想像とはまったく異なっていた。
外から見れば普通に授業をしているように見えるだろう。だが、前列は右から数学、数学、数学、英語、化学、数学。その後ろも、何をしているかは見えないが、少なくとも授業を聞いている節はない。ペンをかき鳴らしているか、あるいは寝ている。
ーー誰も俺の言葉を聞いてはくれない。
うちの高校は紛れもなく進学校だ。毎年、この場の半数は国のトップの大学に入る。残りの半分だってやりたいことがあって、そのために好きな大学に入るのだ。
「……好気呼吸というのはミトコンドリアを……」
俺はいったい誰に何を言っているのか。虚空に向かって当たり前のことを何度も復唱していた。
帰っても特にやることがない。趣味と言えばネットサーフィンぐらいだろうか。
暗い部屋の中、見つけたのは蜂蜜色の相談ページ。
ーーなんでも願い叶えます? まっ、書くだけならタダだし、一個書いてみるか。
○○○
ーーくっ、遅刻だ!
昨晩は一日十七時間のノルマを越えるために深夜まで勉強したせいで起きられなかった。
バスの中。貧乏ゆすりが止まらない。家から学校までは二時間弱。時間はかかるが中学受験に失敗したので仕方がない。あれだけおおみえきっておいて、落ちましたなどとは言えなかった。だから今回こそは絶対に受かりたかった。
またしても、模試の結果が出た。
どうしてもわからない。どうしてあいつがA判定で、俺がE判定なのか。
○○○
趣味はなかったけれども、学校からの帰り道、しばしばバーに立ち寄っていた。なぜかと言えば、ここのマスターが良かったのだ。学校ではだれも俺の話を聞いてはくれないが、ここのマスターは話を聞いてくれる……ように感じた。
最近は疑問に感じている。実際、俺は酔っ払っているので、本当に聞いてくれているのかどうかわからない。
扉を潜るとそこには薄暗い空間。客はまだいないようだ。
「こんなものを頼んだつもりはない」
やはり話を聞いていなかったみたいだ。そうかそうかやっぱり。
「いえ、あちらの女性から」
顔を横に向けると、端の席に蜂蜜色が揺れた。
「こんばんわ、お兄さん。お噺ししてもいいかしら」
女性が席を移してきた。
酒の力だろう。愚痴ばっかりになったが隣の女性はうんうんと聞いてくれていた。その甘い容姿とも相まって、この時間がとてもいとおしい。
「僕はただ、“人に話を聞いてほしいだけなんだ”。そのために教師になったのに……」
「ふふ、そうなの? それじゃあ、いい方法があるわよ。大丈夫。運命はあなたに味方してくれるわ……」
そう言ってその女性は扉の外へ出た。
甘ったるい、蜂蜜のような匂いだけが、鼻を通し、頭の中に残った。
○○○
ーーまずいまずいまずいまずいまずい!
試験当日、またしても、ここに来て、遅刻癖が牙を立てた。
バスを降りて駅を目指す。雪の降る通りを走り抜ける。
駅に着いてーー絶望した。
ーー止まっている……。
ここで待っても間に合わない。タクシーは並んでいる。万事休すだ。少し遅刻していることも相まって、試験時間が延びてくれることはだろう。
ーーもう、だめだ。俺はいったいなんのために勉強していたんだ。
雪がしんしんと降っている中、街は忙しなく動いていた。受験票を握りしめる俺を残して。
体を溶かしたのは、生暖かい、蜜のように甘ったるい声。
「君、大丈夫」
「え、」
「そんなところで突っ立ってたら、風邪引いちゃうわ……よ……って、大変じゃない! あなたこれ、遅刻しちゃうでしょ」
蜂蜜色の髪が受験票を覗きこんでいた。
「良かったら乗ってく? というか乗っていきなさい。“本当に努力したんでしょ”。報われなきゃ嘘だわ」
か細い手に引かれ、気づけばバイクの後ろに座っていた。
奇跡的に試験会場に間に合った。
「じゃあね、君、頑張って!」
「はい! 頑張ります!」
ーーなんて優しく、美しい女性なのだろう。これはまるで、女神のようだ。
「あの馬鹿と一緒にするな」
「は、」
ーー今、何か言ったような気がする。気のせいだろうか。
「じゃあ、君。君はこの高校に受かりたいんでしょ。だったらここで気合いをいれなさい」
「気合いってどういう」
「大きな声で今の願いを叫ぶのよ」
ーーそんな恥ずかしい……。だが、目の前の女性は俺の救世主だ。だから期待に応えなければならない。
「この高校に受かりたいです! 頑張ります!」
思いっきり叫んだ。周りの人間がこちらを向いて時間が止まる。それと同時に自らの運命が動き出した。先程の絶望とは逆だった。
一礼したあと、試験会場に向かった。
あーあ、これが最後の一線だったのに。この高校に受かりたいです、だって。
この高校に受かって見せるとかだったら大丈夫だったかもしれないのに。
まあ、他人任せじゃね。末路は見えるわ。あとはゆっくり鑑賞するだけとしましょう。