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梅雨の晴れ間のある日、芦原茶舗の店先に顕生がふらりと訪ねてきた。
「あ、お兄ちゃんなら今奥に」
店に出ていた佐保が引っ込もうとすると引き留められた。
「いや、今日は佐保ちゃんに会いに来たんだ」
大した用事ではないとわかってはいても、思わずどきっとして目を瞬かせる。
「まず、お茶の注文ね。こっちは宅配便で、これはいつものように熨斗付けて寺に届けてもらえる?」
以前店から渡した中元用のカタログが差し出された。商品につけた丸印と名前、数量を確認する。
「あ、はい。承りました。毎度ありがとうございます」
素早く目を走らせて、レジ脇のバインダーに挟む。
(なあんだ、注文か)
拍子抜けして小さく息を漏らしたとき、がさり、と荒い音が耳に飛び込んできた。
「これ。七夕会の浴衣」
目の前に差し出されたのは、大きな紙袋。
「当日は着付けの出来る人を呼んでるから、園で着替えてもらってもいいんだけど。佐保ちゃんはご近所だから、家からきてくるかなってね。お茶の注文のついでに一応、持ってきてみた」
わざわざ何気ない風を装うところが彼らしい。恐縮して、受け取るより先に頭を下げた。
「すみません、顕生さん、忙しいのに」
いつもの憎まれ口はどこへやら、しおらしい様子に顕生が苦笑する。
「いいんだよ。それより浴衣の柄やなんか、俺が勝手に決めちゃって悪かったかな。女の子の着物って、野郎のと違っていろいろあるもんだね」
くすぐったそうに笑う顕生に目を丸くした。
「えっ? 顕生さんが選んだんですか?」
「うん。小物は店員さんに見繕ってもらったけど、浴衣や帯は俺の見立て。選ぶの、結構楽しかったよ。気に入ってくれるといいけど」
いつものようにじっと目を見つめられて、胸の奥が揺すられる。『俺の見立て』。その言葉の、なんと甘いこと。何も言えずぼうっと立ち尽くしていると、紙袋を握らされた。
「じゃあ、確かに渡したよ? 当日、楽しみにしてる。来週は笹の飾り付けだね。短冊に書く願い事も考えておいて」
顕生は軽く手を上げ去って行く。
「あ、ありがとう、ございましたっ!」
慌てて店の外へ出て、深々と礼をして。頭を上げると、もう彼の姿は見えなくなっていた。彼が消えていった先をぼんやり見つめる。
(『当日、楽しみにしてる』って)
まるで彼の大切な女の子になって、デートの約束でもしたみたい。力の抜けた身体がふらり、と揺れて、持っていた紙袋を落としそうになった。
(そうだ、浴衣、見てみないと)
サンダルを脱ぎ座敷に上がると、申し合わせたように兄の大悟と嫁の美久が顔を出した。あからさまににやにやしている。
「見てたわよう。もう、こっちが照れちゃう」
「いやー、顕生のやつ。ほんっとマメだよなあ」
「あ、っえ」
半ばパニックになっている佐保の肩を、美久が掴んで座らせる。
「さあさあ、見せて、見せて」
わくわくと兄と美久が見守る中、紙袋を開けさせられるはめになった。中には浴衣や帯の畳紙の包み、下着や下駄の箱まで入っている。畳紙を恐る恐る開いた。
「わぁ……っ」
紺地に白の蔓が伝い、赤と白の小さな朝顔が交互に咲く、可憐な浴衣。伝統的な柄でありながら、小さめの花が散りばめられているので、西洋のおとぎ話に出てくる薔薇の挿絵のようでもある。
帯は桜色の地に、ところどころ銀糸でレース編みのような刺繍が施されていた。刺繍糸で囲まれた部分が細かく切り抜かれ、裏の空色の地が透けてステンドグラスのようになっている。小さなビーズの水玉が縫い込まれ、洋風のガーリーなイメージだ。佐保もこれには興奮した。
「すごい。レンタル浴衣って、もっと安っぽいのかと思ってた。今っぽいけど品があって、細かいところまで凝ってて。かわいーい!」
うっとりと布地に指を這わせていると、美久が眉間に皺を寄せて唸った。
「……これ、レンタルじゃないよ」
「へ?」
「だって畳紙は皺ひとつないし、浴衣の折り目もこんなにきれい。下駄だって、ほら、まだタグがついてる。これは、これは」
矯めつ眇めつしながらため息を漏らす美久に、大悟が詰め寄った。
「全部新品つーことか?」
「そういうこと」
ふおう、と大悟が変な声を上げた。買えば決して安いものでないことは、誰の目にもわかる。
――俺の見立て。気に入ってくれるといいけど。
顕生の声が頭の中に木霊する。
(まさか)
勘違いして自惚れてしまいそうな自分が怖い。慌てて逃げ道を探した。
「あの、ほら! 浴衣って、園でも貸してくれるって言ってたし。私の分の在庫がなくて、経費で買ったんじゃない? また来年の七夕会で使えるように!」
兄は呆れたように首を振る。
「お前って、とことん男の純情ってものをわかんない奴な。男が女に服を贈るっつーのは、これすなわち脱が」
ばちん、と大悟の頭を叩いた美久が、ずいと乗りだしてくる。
「はい、佐保ちゃん、とぼけてないで現実を見ましょうね。こんなディテールまで凝ったラブリーな浴衣。園で使い回すなら、もっと平凡でリーズナブルなものを選ぶでしょうが」
へたをすれば今回の七夕会に1回着るだけになる浴衣。その愛らしい柄行きを改めて眺める。
(そこまでしてくれるのは、私がお兄ちゃんの妹だから? 七夕の手伝いをするお礼? ううん、全然役になんか立ってない。こっちはむしろ、教えてもらう側で)
これは、つまり。ううん、そんなこと。頭が煮え立つ。パニックになった背中を、美久がばん、と叩いた。
「せっかく選んでもらったんだから、女の子はにっこり笑って着てけばいいの。ああ、わくわくするー」
「夏! 恋! 浴衣! セイシュンだよなあ! 俺たちもバンドの夏合宿でさー」
「ああ、大悟くんとふたりで浴衣着て抜け出してね! 海から花火が見えて」
「うんうん!」
自分たちの世界に入りこむ兄夫婦を横目に見ながら、浮き立つ気持ちを必死で抑える佐保だった。
七月が近づき、笹竹の飾り付け作業の日がやってきた。のっぽの顕生が大きな笹竹を裏の林から切り出してくると、子供たちから歓声が上がる。遊戯ホールに立てた笹に、子供たちの作った七夕飾りを吊していく。不格好な折り紙の作品も、小さな手で懸命に折ったものだと思うと愛おしい。織り姫と彦星、提灯、吹き流し。色鮮やかな飾りがつけられ、笹はどんどん賑やかになっていった。
「じゃあ、今度は願い事を書こうか」
笹の傍らで短冊が配られる。字の書ける園児たちは思い思いの願い事を書く。書けない子には話を聞いて、教諭や佐保が代わりに願いを記す。
『けーきやさんになりたい』
『いちりんしゃにのれるようになりますように』
『ぴーまんがたべられるようになりたい』
『おじいちゃんがはやくよくなりますように』
佐保や教諭が大事に受け取って、手製の紙縒りでしっかりと結びつける。園児に短冊が行き渡ったあとは、教諭や佐保がめいめいの願い事を書く番だ。
「どうしよ。去年は3キロやせたい、とか書いてしっかりリバウンドしたからなあ」
「じゃ、今年はどーんと5キロで!」
「先生はやっぱり『今年こそ結婚』?」
「いえいえ、その前にまずは恋人、でしょう!」
好きなことを言いながら教諭たちが短冊に文字を綴る。ひとり学生である佐保はふざけるのも気が引けて、無難に『ようちえんのせんせいになれますように』と書いた。ちら、と顕生を見ると、何やらうーん、と悩んでいる。覗き込もうとすると、さっと手で隠された。
「だめだめ。見られると願いが叶わないから」
「何のジンクスですか。どうせ笹に吊すのに」
「いいの!」
子供のようなことを言って、顕生はさらさら文字をしたためる。ちら、と見えた言葉はどうやら日本語ではなかった。
「七夕の願い事を、英語で?」
「見るなってば。大丈夫、今日日の神様なら英語くらいぺらぺらだよ。よいしょと」
よほど見られたくないのか、長身のくせにさらに背伸びまでして上の方へと結びつける。これでは笹竹を片付けるまで誰も見ることはできない。
(意外と大人げないんだよなあ)
腕組みをして満足げに頷く顕生に苦笑しながら、自分の短冊を低い位置に吊した。
当日、近くの美容室で着付けてもらった佐保は、慣れない下駄を鳴らして保育園に向かった。
『いいよ、いいよ! これなら、顕生くんもイチコロだな!』
美容室までついて来た美久は、アイドル相手のカメラマンよろしく何枚も写真を撮っては褒めちぎり、にこにこと送り出してくれた。
(うう、今にも転びそう)
美容師に着崩れしにくいコツを聞き、万全の体制で臨んだつもりだったが、所詮は付け焼き刃。いざ動いてみると何ともぎこちない。しかも鼻緒が当たる足指の間はすでに少し痛かった。
それでも園の門を潜ると、すでに来ている教諭たちの華やいだ声が聞こえて、心が沸き立つ。園で着替えている職員たちが、次々と浴衣姿で現れる。
(わ、先生方、みんなすてき)
古典的な鉄扇や撫子柄、今風のシャボン玉やリボン柄、それぞれに工夫を凝らした浴衣姿が行き来する。もう何年もこのイベントに参加しているベテランの教諭は、さすがに着慣れていて所作も美しい。浴衣は子供の頃以来の佐保は、恥ずかしくてこそこそと下駄を脱いで園に入る。それでも隠れられるはずもなく、職員から歓声が上がった。
「わあ、佐保先生、かわいい浴衣!」
「変わった帯だねえ。こんなのあるんだ。自前?」
褒められても恐縮するばかりだ。とても顕生にもらったとは言えない。お茶を濁しながら会場の準備をする。
「いやー、皆さん、おそろいですな」
恰幅のいい身体を扇子で扇ぎながら登場したのは園長だ。象牙色の地に墨色の模様が入った浴衣に同じく墨色の兵児帯を締め、さすがの貫禄だ。その後ろから背の高い顕生が、入り口にぶつからないよう身を屈めて顔を覗かせた。
「ご苦労様です」
静かに礼をする、その姿に目を奪われる。
深い藍色の地に白い掠れ縞の入った浴衣。上等な品なのだろう。涼しげな織りでありながら、袖口や裾の線は芯が通っているようにぴしりとして崩れがない。細身だと思っていたのに、覗く腕や首は思いの外太く、肩も厚く張り出して見える。青磁色の縞の入った光沢のある角帯は、結び目を中央より少し右側に寄せてあり、いかにもこなれて粋だ。
「園長先生も、顕生先生も、着慣れてらして、ずるい! わたしたちなんて引き立て役じゃないですか!」
「ご謙遜を。女性陣の華やかさに勝てるわけがない」
かんらかんらと笑いながら園長が団扇を仰ぐ。顕生も同調するように頷いた。そのとき、彼の視線がちらと佐保の浴衣姿に注がれる。トンボ玉の簪で緩く結い上げた髪、控えめだがチークやグロスで少しだけ艶をだしたメイク。桜色の帯、朝顔の浴衣、花と同じ赤のペディキュアを塗った足元。一瞬にして全身に眼差しが滑り、撫でられるような感覚に身が震える。
見られて、いる。
(どう、かな? だめ? 似合わない?)
緊張してその審判を待っていると、顕生の視線がすっと逸れた。
「そろそろ子供たちが来る時間ですね。皆さん、準備はいいですか?」
さりげなく掛け時計に目をやり、職員に声をかける。
「はーい」
返事をして皆それぞれの場所に散っていく。拍子抜けして、膝がかくっと落ちそうになった。
(自意識過剰だよ。しっかりしなきゃ。今日はお手伝いにきたんだから)
痺れるような余韻を持て余しながら、佐保もすぐさま持ち場に急いだ。
「こんにちはー!」
門を開けると、浴衣を着た園児たちが保護者に連れられて入ってくる。いつも違う雰囲気に興奮したのか大きな声を上げる子、逆にもじもじと母親の影に隠れる子。赤や紺、白地の小さな浴衣が、金魚のようにあちこちを行き来する。女の子は髪飾りでかわいらしく、男の子は凛々しく。母親たちも子供たちの写真を撮るのに余念がない。楽しげな雰囲気に知らず知らず笑みがこぼれる。
佐保はそんな親子を案内して列に並ばせたり、遊戯で使う道具を確認したりした。
「皆さん、そろそろ集合でーす!」
まず遊戯ホールの笹竹の前で、織姫彦星の人形劇や歌、手遊び。園庭で遊戯をして、流し素麺で早めの夕ご飯を食べて終了、という流れだ。泣いてしまう子供をあやしたり、トイレに連れて行ったり、壊れた遊戯の面を直したりと、佐保も忙しく働いた。
人形劇の最中、白髪交じりの男性がふたり遠慮がちに入って来た。八百初の透の父親と、鳥政の店主だ。顕生を見つけると礼をして隅に呼び込み、何やらこそこそと話し出す。話を聞いているうち、顕生のにこやかな表情が真剣なものに変わった。
「どうかしました?」
男性たちが帰ったあと佐保がそっと話しかけると、顕生は「ああ、ごめん」と手をかざすようにした。
「今のは『寺使い』って言って、亡くなった当家の代わりに、寺と葬儀の段取りをつけてくれる役目の人たちでね。檀家さんが亡くなったんだ。入院してた魚勝の」
「ああ、あのおじいちゃん」
同じ商店街だ。子供の頃からからよく知っている。家に来客があると、親から頼まれてよく刺身を取りに行った。
『えらいね、佐保ちゃん、おつかいかい。揺さ振っちゃ刺身が寄っちまうから、そっと、平らに持つんだぞ。ほい、魚肉ソーセージ。お兄ちゃんと食べな』
ねじり鉢巻きを締めた優しい顔を思い出す。
「じゃ、魚勝にお見舞行ってくる。一旦抜けるけど、たぶん会の最後には戻れると思うから」
隣にいた主任教諭に幾つか指示をすると、顕生は足早に去って行った。主任教諭は慣れているらしく、すぐに他の教諭を呼んで顕生に言われたことを伝えている。
「こういうこと、結構あるんですか。イベントとお葬式が重なっちゃうとか」
思わず聞いた佐保に、主任教諭はあっけらかんと笑った。
「今日はまだいいほう。前なんか、運動会の日で、開会の挨拶したその足で、ジャージを袈裟に着替えてお葬式に行って。亡くなるのはいつも突然だもの、予定は立たないし、呼ばれれば行くしかないわよね」
副住職で、副園長。実際にはこんなにばたばたしたものなのか。改めてその両立の大変さを思う。神妙な顔をした佐保を元気づけるように主任教諭が声を掛ける。
「大丈夫よ。園長先生も奥様もお元気だし、少しずつ覚えていけば。結婚すれば徐々にわかってくるわよ。顕生先生もおやさしいから心配ないわ」
「はい?」
どういうことかわからず、聞き返す佐保に主任の方がきょとんとした。
「え? 佐保先生って、顕生先生の婚約者なんでしょう?」
「は?」
「幼稚園の教諭志望で、ご近所さんだから檀家さんにも詳しいし。そんなお嬢さんを選ぶなんて、さすが顕生先生は将来設計も完璧、ってみんなが話してたけど……違うの?」
後ろから頭を殴られたようなショックを受け、返事が出来ない。
初めて園に実習にきたときから顕生との仲を勘ぐられていた。以来距離を置くようにしていたのに、彼自身は頓着する様子もなく、手取り足取り過保護なくらい世話を焼いてくれる。そのうち職員たちは何も言わなくなった。先生になりたいという熱意を認めてもらえたのだとばかり思っていたのに。
「さあ、みんなの願い事は叶うかなあ?」
飾り付けられた笹の前で、教諭が園児に話しかける。それを見上げる子供たちの、きらきらした目。その中に佐保の短冊も揺れている。
『ようちえんのせんせいになれますように』
子供が好き。そんな単純な動機で、教育の道を選んだ。先輩として、顕生を尊敬していた。憧れは恋になり、どんどん好きになって、傍にいたくて。幼稚園の先生になれば彼と将来が重なる、いつしか恋心と将来の夢はふたつでひとつになり、二重螺旋のように佐保を象っていった。
——見たくない部分には目を瞑っていたんだ。
楽しいこと、したいことばかり考えて、後回しにしていた、本当はちゃんと考えなければならなかったことを。
彼と将来を共にするならば、園だけではない、寺も一緒に守らねばならない。美しい袈裟を纏った彼の僧侶姿を思い出す。佐保は仏教のことなど何もわからない。叡生寺がどんな宗派か、ご本尊が何かすら知らない。とても自分に顕生の妻が務まるとは思えなかった。それなのに、世間では婚約者だと思われている。
ばくばくと胸が騒いだ。
(もしかして、顕生さんにも、私だったら結婚したら便利だとか、そんな気持ちがどこかにあった?)
そんなことを考える不純な自分が嫌だ。
いや、自分にだって顕生への想いをエネルギーにしていた、それだって、ある意味不純ではないだろうか。
佐保をおあつらえ向きな結婚相手と考えることと、どう違う?
(もう、何が何だか、わかんない)
今まで描いていた夢が、澱んでたゆたう。
自分の気持ちが、雨雲につつまれた天の川のように煙っていく。
子供たちが大きな声で歌う七夕の歌も、もう耳に入ってこなかった。
七夕会がそろそろ終わる頃、顕生が帰ってきた。魚勝には僧侶として法衣を着ていったのだろうに、またきちんと藍色の浴衣に着替えていて、にこにこと園児の中へ戻る。佐保の脇を通る過ぎるとき、ふわりと線香の匂いがした。
——ああ。この人は。
涙に暮れる家族の前で、故人に手を合わせ経を読む。帰ってきて法衣と一緒に弔いの気持ちも脱ぎ捨てて、子供たちの前に立っているのだ。穏やかに微笑んで。
——私に、そんな顕生さんを支えるなんてできっこない。
絶望的な気持ちになりながら、七夕会の最後までは何とか持ちこたえた。下駄の鼻緒が食い込む足も痛かったが、それより胸がきりきりと絞られるように痛んだ。
教諭たちに礼を言い、帰ろうとしたとき、顕生の姿が目に入る。今は会いたくない。そう思ったが、挨拶をしないわけにもいかなかった。
「今日はありがとうございました」
頭を下げると、顕生はああ、と言って微笑んだ。
「こちらこそありがとう。助かったよ。子供たちも喜んでくれてよかったね」
あたたかい言葉に胸が詰まる。涙が溢れる前に帰ろうとしたとき、顕生の声が降ってきた。
「佐保先生の願いは、叶いそう?」
堪えていたものが決壊した。
はたはた、大粒の涙が頬を伝い始める。
「あのさ、佐保先生、今日これから予定ある……え? どうした?」
顕生の顔色が変わる。まずい。慌てて踵を返した。
「失礼します!」
寺の参道を駆け出して間もなく、下駄で石の段差に躓く。何とか転ばずに済んだが、痛む指の股に鼻緒がぐっと食い込む。
「危ない!」
顕生が追いかけてくる。
(嫌だ、こんな顔見られたくない)
気が動転して、足から邪魔な下駄を引き抜いた。
——からん、からん。
転がる下駄に構わず、裸足で寺の境内を駆け抜ける。
「佐保ちゃん!」
袂や裾が翻る。通りに出れば行き交う人がぎょっとして振り返るが、家まではもうすぐだ。構わず走った。
程なく芦原茶舗の紫の暖簾が見え、中に飛び込む。
「うわっ。佐保?」
店頭で商品を並べ替えていた兄大悟が、ぎょっとして目を見開いた。