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「佐保ちゃん、お疲れ様。ありがとね」
顕生や透が帰り、洗い物を終えた佐保に、美久が声をかける。倉庫を片付けて鍵を閉めてきたらしい。両親はとうに寝てしまった。
「お兄ちゃんは部屋?」
「うん、ずっと音楽かけっぱなし、ノン・ストップ・パワー・プレイ。来月に演りたい曲のリストアップでもしてるんでしょ」
スネイルズが集まった後、興奮冷めやらぬ兄は大抵朝まで音楽漬けになる。居間のソファに座った美久も、楽譜をひっぱりだしてとんとんと指先でリズムを刻んでいた。
「曲はみんなお兄ちゃんが決めるの?」
「ううん、いろいろ。60年代から70年代のブリティッシュロックが好きってのは一緒なんだけど、好みのテンポとか、見せ場とかあるでしょ。大悟くんはタイトでストレートな曲が好きで、透ちゃんはやっぱギンギンのギターソロがある曲もってくるよね。顕生くんはこういうメロディアスな曲が多いかな」
美久が差し出す楽譜を覗き込む。今日歌っていた曲だ。
「この、『You take my breath away』って、どういう意味」
彼にじっと見つめられながら歌われる身としては、当然その内容は気になるところで。
「take my breath、あなたは私の息を止める、つまりは『息が止まりそうなくらい君が好き』ってこと」
「あっ、あ、そう」
息が止まりそうなのはこっちだ。慌てて他の部分の歌詞を読むふりをする。
「わりとシンプルな歌詞だし、あとはわかる?」
美久は学生時代に短期留学の経験もあり、英語が堪能だ。結婚前は外資系の会社に勤めていた。
「わかるわけないじゃーん。私、英語、全然ダメ」
「そう? えっとね」
美久は歌詞が書いてある紙を指さし、和訳し始めた。
「『覚悟はいいかい? 今夜こそが、その夜だ。ここには誰もいない、俺たち、たったふたりだけだよ』」
「ぐはっ!」
顕生の容赦ない眼差しを思い出し、悶絶する。
「ぐはって。こんなのまだまだ、軽い軽い。ほら、これとか。『お前を抱くのに理由はいらない。ママに許しを請うほど子供なのかい、ハニー? お前はベッドの中で淫らに咲く……』」
「わああ! やめてえ!」
思わず楽譜を押し返すと、美久はけらけら笑った。楽譜を受け取る手に輝く、プラチナの結婚指輪をつい凝視してしまう。
「美久さんて英語もドラムも出来て、すごい優良物件なのに。どうしてうちのお兄ちゃんなんかにひっかかっちゃったんだろ」
「はい?」
「お兄ちゃんなんて、お調子もんで無責任で、面倒なことすぐ人に押しつけて。イケメンでもなきゃ、大して儲かってない古くさいお茶屋の跡取り。おまけに両親や私との同居までついてくるんだよ? こんだけポイント低いのに、どうして?」
これには美久も吹き出した。
「佐保ちゃんって、大悟くんの悪口、いっくらでも出てくるよねー。かわいそ。大悟くんやさしいし、いいとこ、いっぱいあるのに」
実は兄夫婦の仲はすこぶる良好。ふたりとも佐保が恥ずかしくなるほど惚気てくるので、もう馴れっこになっている。
「えー、いいとこって、どこ、どこ? 美久さん、まんまとダマされて」
「違うってば。そうだなあ、例えば、大悟くんって、こっちが落ち込んでても、平気で馬鹿なこと言ってくるじゃない?」
「ああ、空気読めない、いつものあれ」
「うーん、どう言ったらいいのかなあ」
美久は笑って首を振る。
「あのね、私ってさっぱりした性格だと思われがちだけど、昔っから悩むと結構うじうじしちゃうタイプなのね。男の人って女のそういうとこ面倒くさがって、普通放置じゃない。でも大悟くんは、つまんない冗談言ったり、変なダンス踊ったりしながら、ずっと私から目を離さないでいてくれるの」
「変なダンス……」
それがうっとうしいと思うのだが、美久は違うらしい。
「そのうち悔しいけどつい笑っちゃって、結果オーライになっちゃう。くじけない、いつも前向きな空気をもってる、そこが大悟くんのいいとこじゃないかなあ。がんばってる人のことは絶対に見捨てないし。顕生くんもきっと、そういう大悟くんに救われてるんだと思うんだ」
「お兄ちゃんが顕生さんにつきまとってるだけでしょ?」
「それだけでこんなに長く付き合いは続かないよ。顕生くんもバックボーンがいろいろ大変じゃない? 生まれついてのお寺の息子だけど、跡を継ぐことに関してはかなり葛藤があったみたい。幼稚園の仕事は好きで、教育学科ではよくやってたらしいのに、仏教学科に編入してからは、ずっと暗い顔してたって」
そう言われれば思い当たる節もある。初めて会ったあのとき、剃髪したての彼には気負いと緊張が見てとれた。いよいよ仏門に入る覚悟をしたせいだったのだろうか。それでも、寺の後継者としての責務はしっかり果たしているし、地元からの信頼も厚い。
以前佐保が店の手伝いで叡生寺にお茶を納めに行ったとき、葬式に出くわしたことがある。ちょうど法衣姿の顕生が、遺族や参列者を従えて移動するところだった。紫色の素絹の上から、金欄金紗も鮮やかな袈裟を纏い、静かに歩いてくる。切り袴から覗く足袋の白さ。荘厳な姿に、言葉を失った。佐保とすれ違うとき、ほんの少し目線を下げ目礼する。仏像の半眼を思わせる、伏し目がちの崇高な表情。改めて彼の僧侶という仕事を意識した。亡くなった人を導き、生きている人の苦しみや悲しみに手を差し伸べる、それが彼の職務なのだと。
「同級生の透ちゃんが言うには、顕生くん、高校のころから長髪にしたり、プチ家出してみたり、精一杯反抗してたんだって。それが大悟くんと仲良くなってからは、大分変わったみたい。顕生くん本人が言ってた。『大悟と話してると悩んでるのが馬鹿馬鹿しくなる』って」
佐保だって大悟の血の繋がった妹だ。兄嫁の言うこともわからないでもない。昔から、長男だ跡取りだと言われながら、のらりくらりとしていた兄大悟。彼にもそれなりの葛藤があっただろうに、いつも明るくムードメーカーに徹し、回り道をしたもののきちんと家に戻ってきた。結局は家族や地元、人の和を大事にする男なのだ。だからこそ顕生の立場も痛いほど理解出来るに違いない。
「馬鹿なお兄ちゃんも、結構役に立ってるってことか」
ふふ、っと美久は肩をすくめる。
「そ。だから顕生くんはいつも、自分ちより先にここに寄っちゃうんじゃないかな。勿論、佐保ちゃんにも会いたいんでしょうけど」
「……美久さん、そういうとこ、お兄ちゃんに似てきたよ」
いちいち逆らっても堂々巡りなだけだ。佐保はその話はおしまい、と言うように布巾をハンガーに掛ける。
「佐保ちゃん?」
「おやすみなさい」
困ったような顔をする美久を置いて、佐保は自分の部屋に戻った。
ベッドに横たわり、スマホのスケジュール帳を開く。カレンダーを遡ってみると、毎月のように幼稚園の行事を知らせるマークが現れる。
2月の涅槃会、3月のひな祭り、卒園式。先日は4月の花祭りを手伝ったばかりだ。顕生は副園長にも関わらず、見習いとして訪れる佐保に何かと気を配り、世話を焼いてくれた。
彼の眼差しを思い出し、ふう、と熱い息を吐く。
——とうに、恋をしていた。
進路に迷った高校生の佐保を、手取り足取り導いてくれた顕生。佐保が応えれば、彼は嬉しそうに次のことを教えてくれる。彼がいいと言えばその本を買った。彼の通ったピアノ塾を紹介されば、素直に習いにいく。努力を怠らない顕生の背を追ううち、彼自身を好きになっていった。
兄大悟がホテルに就職してなかなか家に戻ってこないとき、佐保は両親に泣きつかれ、一時は芦原茶舗の跡を継ぐことを決意した。S大の教育学部に合格したばかりのころで、涙ながらにそれを打ち明けたとき、励ましてくれたのも顕生だった。
『大丈夫。大悟は佐保ちゃんの気持ちをきっとわかってる。戻ってくるよ。ここまで頑張ったんだ。諦めちゃだめだ』
彼の言う通り、兄はひょっこり帰ってきた。改めて好きな道を歩める喜びを噛みしめ、佐保はなおさら幼稚園教諭になるために奮起した。顕生もそれをサポートしてくれた。
『どんどん実際に現場を見て体験したほうがいい。園の行事のときは声をかけるから、遠慮なくおいで』
誘われるまま幼稚園の行事に参加したとき、初めて園での彼を見た。
顕生は子供たちに笑顔をふりまき、ひとりひとりの名を呼ぶ。
『琴美ちゃん。先生のお話を聞く姿勢、よかったよ。100点だった』
『陽介くん、大きな声でお返事できたね。先生のところまで、よーく聞こえた』
その長い身体を折り、やさしく話しかける。もじもじと恥ずかしそうにする子、褒められて弾けるように笑顔になる子。にこやかに彼らの頭を撫でて職員室に向かえば、集まっていた教諭たちがざっと彼のほうを見る。
『では、はじめますか』
とたん、顕生の表情が引き締まった。園長である父は、職員会議の進行はすべて息子に任せている。顕生は園の全体を驚くほどよく把握していた。子供たちのために労を惜しまず、職員にはときに厳しく、それでいて公正な采配を振るう。人を率いる才覚があるのだと改めて知った。僧侶とはいえ独身で、背も高く凛々しい彼。職員たちは眩しそうに彼を仰ぎ、特に若い女性職員などは羨望の眼差しを向けて憚らない。その中で紹介されるのは、針のむしろだった。
『最後に、今日からお手伝いに来てくれる、芦原佐保さん。私の母校、S大の教育学科の学生で、将来は先生を目指しているそうです。いろいろ教えてあげてください』
佐保が紹介されると、親しげな様子が職員の目をひいたらしい。顕生がいないところでさっそく質問攻めにあった。
『へえ、顕生先生のお友達の妹さんなんだ』
『顕生先生に憧れて、同じ大学にしたんだ?』
『副園長先生、かっこいいもんね、やさしいし。普段はどんな感じ?』
その言葉は、清水に墨汁を垂らしたように、佐保の心に影を落とした。
確かに彼が好きで彼に憧れているかもしれないが、幼稚園教諭になりたいという気持ちは本当だ。そのための努力はしているつもりで、他ならぬ幼稚園教諭の先輩たちに、資質を疑うようなことを言われるのはつらかった。
(誤解されないようにしなきゃ。自分のためにも、顕生さんのためにも)
以来、佐保は顕生と距離を置くようにした。園の行事は参加するが、顕生とは極力親しく見えないようにする。自宅で会うときでも『顕生先生』と呼んでなるべく接触を避けた。けんもほろろな様子に初めは戸惑っていた顕生だったが、そのうち佐保の意図を察したか、そっと釘を刺した。
『俺はね、大悟たちと遊ぶときまで先生や坊主でいたくないんだ。君に避けられるのは悲しいし、大悟にも気を使わせたくない。プライベートな時は、今までどおりにしてくれるとうれしい。『先生』って呼ぶのは園にいるときだけ、ねっ?」
そう言われれば了承するしかない。それでもオン・オフはなかなか難しく、遊びに来た彼を前に言葉を詰まらせることも。そのうち顕生は、そんな状況を楽しむように佐保に接近し始めた。じっと佐保を見つめては、思わせぶりなことを言う。ここにいる自分は教育者や僧ではない、ただひとりの男だ、と嫌でもわからせるように。
例え戯れでも、好きな男に気があるような素振りをされて、舞い上がらない訳がない。
(からかってるだけなんだから、本気にしない)
何度も自分に言いきかせて踏みとどまる。それを面白がり、俄然調子づいてくるのは兄の大悟で。
『お前、ほんと顕生に冷たいな。男心をわかってやれよ』
『これ叡生寺から注文のお茶。ちゃーんと副住職サマに渡して、サインもらって来るんだぞ』
やたらと佐保をけしかける。
『やめてよ、もう! 顕生さんは、こっちが困ってるのを面白がって、わざとやってるだけだから!』
『またまたー』
『うるさーい!』
家族をも巻き込み、この恋はいつしか、やるせない泥仕合を呈してきたのだった。
梅雨に入った6月の初め、芦原家に遊びに来た顕生が、佐保に1枚のプリントを差し出した。
「これ、七夕会のおしらせ」
佐保の目の前で、長い指がとんとんとその日付を叩く。
「『今年は』、手伝ってもらえるよね?」
念を押されて、言葉に詰まった。
(忘れてないんだ、去年のこと)
実は昨年の七夕会も誘われたが、佐保は行かなかった。顕生には『友達と七夕祭りに行くから』と断りを入れたのだが、実際のところは違う。
——浴衣着用なんて、絶対無理!
つばめ幼稚園の七夕会は、日本古来の文化に親しもうということで、園児、教諭ともに全員浴衣を着ることになっている。さすがに保護者の服装は自由だが、母親も半分以上は浴衣で来るらしい。顕生に写真を見せてもらったが、しっとりと大人の色気を漂わせる浴衣美人や、花やビーズのアクセサリーでふんだんに「盛った」今どきママもいて、なかなかの華やかさだった。
教諭見習いの佐保も当然浴衣を着なければならない。もちろん着用の義務がある以上、浴衣は貸し出してくれるのだが。
(ハードル、高いよ)
好きな男性の前で浴衣を着るとなれば、髪やメイク、履き物や小物だって悩む。しかも教諭見習いとして園児に接するのだから、着飾って取り澄ましてもいられない。
(髪や襟元が乱れたらどうしよう。慌てて裾踏んで、転んじゃうかも。自分では着付けなんか直せっこないし)
考えているうち、ついに頭がパンクしてしまい、参加を見送ることにした。行けません、と深々と頭を下げると、
『そうなんだ。わかった』
顕生は悲しげに顔を曇らせた。
(そんなに手伝ってもらいたかったのか)
ちくり、罪悪感に胸が痛んだのを覚えている。
それを踏まえての、今年、だ。
「七夕までまだ間があるし、今のうちに佐保ちゃんを予約しちゃおうと思って。さすがに今年は友達との約束、まだだろ?」
にっこりと、いつものように目の奥を覗き込まれれば、とっさの嘘もつけない。何だが追いつめられたような気がする。
「準備は来週から少しずつ始めるよ。七夕飾りや短冊作り、仕事はいろいろあるんだ。頼むね?」
「あ……はい」
行きがかり上頷くしかない。こっそり胸の内でため息を漏らす佐保とは対照的に、顕生はやけに満足げに見えた。
さっそく早々に召集がかかった。
「今日は、短冊と紙縒りを作りまーす」
つばめ幼稚園の七夕は、何から何まで手作りだ。
笹竹は寺の裏にある林から切り出してくる。七夕飾りや短冊は言うに及ばず、短冊を笹に結ぶ紙縒りも自分たちで作るのだという。
部屋に入ると大きめのテーブルの上に紙の入った箱などが置かれ、紙縒り班、短冊班に分かれている。顕生がここにおいで、と言うよう隣の椅子を叩くので、大人しく彼の脇に座った。驚いたことに副園長の顕生も作業に参加するらしい。目の前の箱には細く切った美濃紙が入っている。
「えっと、これをどうすれば」
「紙縒り、作ったことない? まずね、こうやって」
顕生の長い指がすっと紙切れの端を摘む。まるで仏像の指で象る印相のような、優雅な手つきだ。左手で紙の反対側を包むようにしながら、右の3本の指で端を擦るように撚っていく。するすると、なめらかな手つきに迷いはない。大きな手の中、一様に細く撚られた紙縒りは、針金が入っているようにぴんとして。瞬く間に1本ができあがった。
「早い! きれい!」
佐保が感嘆の声を上げると、
「子供のころから、先生がたに交じって毎年やらされてたからね。たぶん、この中でも『私』が一番うまいと思うよ」
顕生は園や寺では自分を『私』、佐保を『佐保先生』と呼ぶ。きちんと公私を分けてはいても、紙縒りくらいで得意げに胸を張る、子供っぽい彼がおかしい。
「ほら、『佐保先生』もやってごらん」
「はあ」
見よう見まねでやってみるものの、佐保の作った物はどことなく不格好でふにゃふにゃ。一方顕生の長い指から繰り出される紙縒りは、縒りが一様でまっすぐだ。
「いい紙縒りは立つんだよ」
端を持って垂直にすると、なるほど、顕生の作ったものはぴんと天を向いている。
「顕生先生、器用ですねえ。ピアノも、紙縒りも。指とか手の長さもあるんですかねー」
自分の小さい手を恨めしそうに見ていると、顕生が笑った。
「どっちも年季が入ってるだけだよ。ちっちゃい手のほうが、器用そうだけどな」
そう言うと長い指を反らすようにして、佐保の手に重ねようとする。反射的に大きく身を引いて逃れると、顕生の眉間に深い皺が寄った。たかが手くらいで、失礼だったろうか。彼の機嫌を損ねたのかとひどく慌てる。
「あ、でも、あのっ! 指や腕は長いほうが絶対きれいだし、ピアノにだって有利ですよ。ほら、顕生さんがよく弾くクイーンのあの曲。前奏で、腕を交差してこう、遠い鍵盤同士を弾くでしょう。あれ、すごく優雅ですてきだなあって、いつも」
そこまでまくし立てて、はっとした。まずい、『顕生さん』と言ってしまった。しかも園でプライベートな事をべらべらと。他の職員に聞かれただろうか。青くなって周囲を見回していると、なぜか顕生はにこにこと微笑んでいて。
「結構、よく見てくれてるんだね」
「へっ?」
「あの曲、別に腕を交叉しなくても弾けるんだけど、フレディ・マーキュリーの弾き方、真似してるんだ。ふうん、そっか」
さっきまで不機嫌かと思っていた顕生が、何やら嬉しそうに微笑んでいる。少し身を寄せてきて、小さな声で囁いた。
「いつも俺が歌ってると、下向いて目を合わせないだろ。俺が曲に浸り切ってるから、ナルシストと思われてどん引きしてるのかな、とか、古い曲だから興味ないのかな、とか思ってた……うれしい」
と、こぼれる笑みをかみ殺すようにする。子供みたいに、きらきら目を輝かせて。
(えっと、これは、どうしたらいいのかな)
いたたまれなくなって、佐保は下を向いたきりいたずらに紙を縒る。手の中の紙縒りは益々ぐにゃぐにゃと曲がりくねった。