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 夏も近づく八十八夜。


『新茶、入荷しました』


 初夏の風に、若草色ののぼりがはためく。

 こじんまりした店先に下がる紫の暖簾には、きりりと白く染め抜かれた『芦原茶舗あしはらちゃほ』の文字。

 店の奥では、大学生の長女、佐保さほが茶箱にせっせと『新茶』のシールを貼り付けていた。

「おーい、佐保」

 スマホ片手に奥から顔を出したのは、兄の大悟だいご。昨年からこの店の後継者として働き始めた芦原家の長男である。

 芦原茶舗の跡取りでありながら、『社会勉強』と称して外資系ホテルに就職してしまった大悟に、家族はずっと気を揉んでいた。もう自分が店を継ぐしかないのでは、と佐保が志望する幼稚園教諭への道を諦めかけた矢先、兄は大学時代からの恋人と結婚、きっぱりとホテルの仕事を辞め、実家に戻ってきた。しかもお相手の美久は、身体が弱った両親を気遣い同居までしてくれるという。両親は彼女を救世主のようにあがめ奉り、『美久さんの気に入るように』と、やれリフォームだ増築だと奔走し、たちまち2世帯住宅ができあがった。美人なのに気さくで、よく気の回る美久は、実際兄にはもったいない女性だと思う。

「暇か? ダイガクセイ」

 6つ歳が離れている大悟は、小柄な佐保をすぐ子供扱いする。

「お兄ちゃん、老眼? 見てわかんないかな、店の手伝い中」

 年寄り扱いをして向かい打てば、兄はにやりと笑ってスマホを指さした。


「あのさあ。これ、『顕生けんしょう』と繋がってるんだけど」


 兄はわざと男の名を強調して、佐保の反応を窺う。

「今日皆で集まろうかって電話したら、なんと今、京都駅にいてさ。総本山の会合が終わって、新幹線で帰るとこなんだと。このままうちに来て夕飯食って行きたいっていうんだけど、いいかなあ?」

「私より、お母さんや美久さんに聞けば?」

「またまたー。お前にも心の準備とか、めかし込む時間とか、いろいろあんだろ?」

「あ、り、ま、せ、ん!」

「照れるな、照れるな」

 したり顔で頷く兄は、『うん、佐保も待ってるって』などと勝手に返事をしている。

「言ってないし!」

 否定しながらも、小走りで台所に向かう。

(京都からって、どのくらいかかる? とにかく、まずお米を研がなきゃ!) 


 谷崎顕生たにざきけんしょうは、同じ町内にある叡生寺えいしょうじという寺の息子だ。

 叡生寺は室町時代から続く名刹めいさつで、寺の敷地内には幼稚園もある。顕生の父は住職である傍ら、幼稚園の園長も務めていた。佐保も兄もその『つばめ幼稚園』出身だ。園長は今でも朗らかに挨拶してくれる。

『佐保ちゃん、大悟くん、おはようございます!』

 禿頭と笑顔をぴかぴかに輝かせて。

 その長男である顕生は、着々と跡取りの道を歩んできた。大学の教育学科で幼稚園教諭の資格を取ると、今度は仏教科に編入。卒業後に得度とくど、つまり仏門に入った。今や寺の副住職となり、同時に幼稚園の副園長にも就任。父親のサポートをしている。

 佐保の兄大悟とは、私立S大の同期という間柄。顕生のほうが歳は上だが、教育学科から仏教科に入り直したため、同じ学年になったのだ。専攻こそちがうものの、サークルで一緒になり意気投合。今でもよくつるんでいた。

 大悟は、そんな顕生を何かにつけ妹の佐保とくっつけたがる、厄介な兄貴なのだ。

 

 

 夕刻、佐保と母、兄嫁の美久がばたばたと夕飯の準備に追われていると、

「佐保ー! 顕生来たみたいだぞー」

 暢気な声を上げながら、大悟がキッチンに顔を覗かせる。

「何で、私? お兄ちゃんのお客でしょ! 今、料理中で手が離せない」

「こう見えて、俺も準備で忙しいのだ、わはは」

 兄は荷物を持ってそそくさと倉庫に行ってしまった。

「わははじゃないよ、もう」

 確かに来客を知らせるセンサーチャイムが鳴っている。母親は醤油を醤油差しに注ぎ足しているところで、美久は揚げ物中。あきらめて手を洗い、エプロンで手を拭きつつ店へと走る。

「はーい」

 店と自宅の境に下がる長暖簾。その下から客の足元を覗くのは、相手を見極めるための習慣だ。きっちり紐が結ばれた大きな革靴は、誰だか一目瞭然ではあるが。

「いらっしゃいませ」

 念のため、商売人の仁義を切って暖簾を割れば、予想通り、背の高い男が立っていた。

 目深まぶかにかぶったダークグレイの中折れ帽、無駄のない躰にぴたりと沿う細身のスーツ。洒脱な出で立ちも、手に提げた古めかしい鞄のせいで、どことなく昭和のサラリーマンのようなレトロな雰囲気がある。但しその鞄の中身は、法衣や念珠、教本や香合こうごうなのだけれど。

「顕生さん、おつかれさま」

 佐保が声をかけると、顕生は帽子を取り、うやうやしく胸元に当てた。淑女を前にした英国紳士のような仕草だが、帽子の下から現れたのは、剃髪した形のいい頭だ。涼やかな目は、端が上がった一重瞼。引き締まっていた口元がみるみる緩む。


「佐保ちゃん、ただいま」


 10も年上の男が、子供みたいに手放しに笑うから。

「おかえりなさい、って、顕生さんのうちはここじゃないでしょ! お仕事帰りなのに、まっすぐうちなんかに遊びに来て。先に叡生寺に帰んなくちゃだめじゃない!」

 ついつい強気の口調で迎え撃つことになる。

「んー、公務はどうも肩が凝ってさ。まっすぐ帰りたくない病なのかな?」

 首を左右に振りながらにこっとする。甘えるような口調は、大役を終えた開放感からだろうか。京都の総本山で父親の代りに寺の総代を務めてきたのだ。気負って臨んだことは想像に難くない。鞄を床に下ろしてジャケットを脱ぐと、ふわりと彼の香りがする。僧侶が身を清めるために塗る、塗香ずこうだ。白檀や丁子が混じった、どこか神秘的で甘い香り。

「家には、外で夕飯食べて帰る、って電話したよ。佐保ちゃんちでごちそうになるのは内緒だけど」

 秘密を共有する仲間、とでもいうように目配せして、差し出したのは和菓子屋の紙袋。

「これ賄賂、もとい、お土産の麩まんじゅう。佐保ちゃん、好きだったよね」

「わー、好き好き! 大好き! ありがとう、顕生さん!」

「どういたしまして」

 顕生のお土産には、はずれがない。自分でも現金だと思うが、顔を輝かせて菓子の紙袋を覗き込んでいると、上から低い呟きが降ってきた。


「いいな。俺も、麩まんじゅうになりたい」


「え?」

 何の冗談かと顔を上げれば、じっと佐保を見つめる視線と出会う。目が合うと、顕生はさらにしっかりと瞳の奥を覗きこんでくる。いつも、そうだ。その眼差しの強さに、目を逸らすことすらできなくて。

(人の目を見るのが癖なんだよ。でなきゃ、極度の近眼とか)

 慌てて理由を探しても、時すでに遅し。ごまかしきれず、体温はじわじわと上がってくる。顔が赤らむ。

「さーほちゃん?」

 こっちの戸惑いをわかっているのか、いないのか。まるで園児に対するような、やさしい口調が腹立たしい。

(副園長サマにしたら、どうせ私なんてお子様なんだから)

 胸の中で何度となく繰り返した言葉を、お経のようにまた唱える。


 初めて彼と会ったとき、佐保はまだ高校生。進路を決める時期で、漠然と子供に携わる仕事をしたいと思っていた。保育士か幼稚園教諭か、学ぶとすれば短大か、大学か。決めかねていたとき、兄の大悟が顕生を家に連れてきた。

「大学の同期でサークルが一緒なんだけど、なんと叡生寺の息子だったのよ。すでにうちの教育学科出て、幼稚園のセンセの資格も持ってる。お前の進路のこと聞くには、うってつけだろ? どうだ、いい兄貴を持って幸せか」

 兄は『ひかえおろう』と言わんばかりに、顕生を佐保の前へと突き出した。

「はじめまして。谷崎、顕生です」

 当時の彼は仏教科の卒業を控え、剃髪したばかり。青々とした坊主頭をぺこり、と下げた。

(この人が、あの園長先生の)

 佐保も頭を下げながら、ちらりとその顔を盗み見る。彼の父である園長は、大らかな笑顔が似合うずんぐりとした好々爺。対して背高のっぼの彼は、繊細で近寄りがたい印象を受ける。すっくと首筋を伸ばした姿は絶滅危惧種の爬虫類のような、孤高な匂いがした。

「芦原、佐保です。すいません、お兄ちゃんが」

 そう言ったきり、気後れして話すきっかけを失った。ふたりとも押し黙っていると、硬い空気を破ったのは兄の大悟だった。

「こいつ、俺の妹にしちゃあんまし出来はよくないんだわ。将来、就職できなかったら、顕生んとこに雇ってやってよ。安月給でこき使っていいから」

 大悟は佐保の方に顎をしゃくって兄貴ぶる。

「っ……えっらそうに」

 いつもの調子で兄に肘鉄を食らわそうとした拍子に、脇に抱えていた大学ノートがばさりと落ちた。身を屈めて拾おうとすると、先に顕生の長い腕がすっと伸びる。

「す、すみません」

 謝りながら受け取ろうとしたとき、顕生の目がノートの表紙、漢字で書かれた佐保の名前で止まった。

「『佐保』ちゃん、か」

 花が咲くように、ゆっくり顔を綻ばせる。


「春の、女神の名前だね。春の佐保姫、秋の竜田姫」


(えっ)

 ぶわっと顔が赤くなる。二十歳を超えた今なら気障だと笑い飛ばすだろうが、高校生の佐保は初心だった。女神だ、姫だ、と初対面の男に言われ、しどろもどろになっていると、顕生は愉快そうに肩を揺らした。

「せっかくだし俺で良ければ何でも聞いて、女神サマ。どのへんで悩んでるのかな?」

 くだけた笑顔になると、どことなく園長と面差しが似る。

(まだ言うか。でも何だ、笑うと結構いい感じ)

 とたんに気持ちが軽くなりいろいろ質問してみれば、事細かに答えてくれる。

「決めかねてるなら、幼稚園教諭の一種免許を取れば? 保育士にだって、幼稚園の経営者にだってなれるよ。母校だから言うわけじゃないけど、S大の教育学科は? 最近はワークショップ形式の授業をしたり、NGO団体代表とか第一線の講師を呼んで福祉や国際関係の授業をしたり、より広く実践的になってるって』

 言われて調べてみると、確かに他の大学と比べてもカリキュラムが充実しているように思える。佐保は勧められたとおり、S大に進学した。

 入学後も気にかけてくれて、こまめに幼稚園の行事にも誘ってくれる。佐保は折に触れてつばめ幼稚園に顔を出すようになった。兄の大悟がふたりをひやかすようになったのもその頃からだ。

 顕生の僧侶としての仕事は、土日も祝日もない。さらに幼稚園の仕事も抱える多忙な彼が、佐保の将来のために時間を割いてくれている。そう思えば兄には癪だが無碍にも出来なかった。顕生自身はどう思っているのか、大悟にからかわれても全く動じず、ただ笑うだけ。距離を置こうと間にいくつもの柵を巡らせても、馬術競技みたいな優雅さで、難なく飛び越えてくる。視線が、からまる。

「さあて、と」

 顕生はふっと息を逃がすように笑った。

「大悟は倉庫かな? お邪魔するね」

 ひらりと身を翻す、姿勢のいい後ろ姿。

(お坊さんのくせに。ほっんと憎らしい)

 僧侶の僧と、憎らしいの憎は似てる、なんてお門違いの言いがかりを飲み込んで、佐保はまた台所へ戻っていった。 




「こんちはーっ。八百初でーす!」

 台所の奥、勝手口のほうから声がする。佐保の母がドアを開けると、キャベツやじゃがいも、レタスやトマトを入れたダンボールを持って、ふわふわ頭の男がぺこり、と礼をした。

「透ちゃん、いらっしゃい。ご苦労様」

 八百初の長男、透もまた今日集まる兄たちの仲間だった。明るく人懐っこい彼は町内の人気者で、この界隈では老いも若きも、皆彼を『透ちゃん』と呼ぶ。

「毎度どうも! ここでいいですかね?」

 ダンボールをそっと床に下ろすと、伝票を差し出した。

「あらあ、安すぎるんじゃないの?」

「いーえ、今日はご邪魔するんですから、このくらいは。それとこれ、うちの奴から。ジャーマンポテトと、牛すじの煮こみなんですけど」

 透の妻、祥子は八百初の隣でお好み焼き屋を営んでおり、今時分は仕事帰りのサラリーマン相手に腕を奮っているはずだ。こうして皆で芦原茶舗に集まるときは、気を使って総菜を持たせてくれるので、佐保たちも半分当てにしているのだった。

「ありがとう、いつも助かるわあ。祥ちゃんによろしくね」

「はいっ」

 透は照れながら腰に巻いたエプロンのポケットからおつりを渡す。ぺこり、と礼をして顔を上げると、

「えっと、それじゃあ」

 そわそわと兄嫁の美久を見る。美久は笑って頷くと、母親のほうに振り返った。

「お義母さん、ごめんなさい、そろそろ行ってもいいですか?」

「どうぞ、どうぞ。あとは佐保のおにぎりで終わりだし」

「すみません。佐保ちゃんも、ありがと。またあとで来てね」

 美久は、八百初の透と食器やおかずを持っていそいそと倉庫に向かう。

「透ちゃんも美久さんも、うれしそう」

「皆で集まるの、久しぶりだものね」

 味噌汁の味を見ながら、母親が微笑んだ。火を止めて、佐保が出した汁椀を数える。

「1,2,3,4……足りないわよ。佐保も皆と食べるんでしょう?」

「え、私がいても邪魔かなあ、と思って」

「何を今さら。いつも一緒に食べてるじゃない」

「あ、たまにはお母さんたちもくれば?」

「それこそ邪魔でしょ。倉庫も狭いし。あんたどうしたの、顕生さんと喧嘩でもした?」

 母まで言うか。盛大なため息が漏れた。

「顕生さんに失礼だ、って! お兄ちゃんの言うこと、本気にしないで」

 ぎゅっぎゅっ。佐保は兄への恨みをこめながらおにぎりを握る。

 

「おじゃましまーす……」 

 佐保が食事を載せたワゴンを押して倉庫を開けると、ちょうど兄嫁の美久がドラムのスティックを握り、頭上にかざしたところだった。慌てて扉を閉める佐保ににっこり微笑みかけると、カウントをとる。

「One, two……One, two, three, Go!」

 茶箱が積み上げられた倉庫の中は、たちまち8ビートで溢れかえった。男性3人を従えて繰り出す美久のドラム・パフォーマンスは、いつみても爽快だ。キレのいいリードギターは八百初の透。学生時代メジャーデビューを狙っていたというのは、満更嘘でもないらしい。兄の大悟はベース担当。そしていつも佐保が使っているアップライトのピアノの前に、顕生が座っている。


 佐保の兄大悟は、大学時代ロック好きが高じて軽音サークルを立ち上げた。そのサークルに入ってきたのが現在の妻、美久だ。普段は女っぽいのにドラムを叩く姿はワイルド、そのギャップでサークルのアイドル的な存在だったらしい。大悟はそんな彼女に惚れ込み、なりふり構わぬアプローチを続けた。結果、自分のバンドのドラムスに彼女を据え、恋人の座も射止めたのである。

 そんな美久を迎え大悟のバンドは絶好調と思われたが、学園祭ライブまであと半月という時期に、運悪くキーボードのメンバーがケガをしてしまう。その代役として抜擢されたのが顕生だった。幼少のころからピアノを習っていた顕生は、たまたま大学で弾いていたところを大悟に見つかったのだという。

『こいつ、すげえぞ! キャット・スティーブンスの“雨に濡れた朝”、完コピしてやんの! あのイエスのリック・ウェイクマンが弾いた、伝説の名曲だぜ?』

 まだ得度前の顕生は、肩を超える長髪をアッシュブロンドに染め、190cm近い長身にレザー・ジャケットという、仏教学科の学生とは思えないロックな外見。大悟は何としても自分たちの仲間に引き入れようと、そのままサークルの部室に引っ張っていった。

『どっかで見たと思ったら、やっぱ叡生寺の息子じゃん! 俺も妹もつばめ幼稚園出身だよ! え? バンド経験がない? 全然おっけ! 任せとけって。八百初の透ちゃんと同級、ってことは俺よりいくつ上だっけ。ま、今は同じ学年なんだし、呼び捨てでいいよな!』

 大悟のずうずうしさが功を奏したか、卒業後も彼らの交流は続いた。顕生が副住職・副園長に就任したとき、その祝いの席で『またバンドやろうぜ』と盛り上がり、大人のサークル活動がスタートした。ついには昨年、大悟の結婚で芦原家をリフォームする際、店の倉庫を防音室に改造してしまったのである。芦原茶舗の大悟と美久、叡生寺の顕生、自らを永遠のギター小僧と言って憚らない八百初の透も加わった。町内の跡取りばかりが集まったバンドの名は、家を背負った「スネイルズ(かたつむり)」。彼らの好みは60年代から70年代のブリティッシュロックだ。


 顕生のピアノ・ソロが始まる。顕生の大きな手の前には鍵盤も小さく見えた。目にも止まらぬ指使い、豊かな音。顕生は幼稚園の教諭の中でも一番ピアノがうまいので、式典の際には副園長自ら演奏するという。その腕前と凛々しい姿に、父兄や幼稚園教諭の女性たちまでもが魅了されると聞いた。

「Oh Girl,You take my breath away」

 しかもバンドではヴォーカルまで披露するのである。

『ずりーよ、顕生は読経でのど鍛えてるんだからな』

 大悟は負け惜しみを言って自分の声量のなさを嘆く。ピアノを弾きながら歌う顕生は、坊主頭だというのにどこか色っぽかった。

「Are you ready for me? Tonight is the night.There ain't nobody here but us,babe」

 囁き混じりの甘い声。ときおり佐保に視線を投げかけて。

(歌詞は何だかわかんないけど、恥ずかしいからこっち見るなー!)

 演奏が終わるまで何とも身の置き所がない。赤くなった顔を兄に気付かれたら、格好の餌食だ。意味もなく食器の位置を変えたり、テーブルを拭いたりしてやり過ごす。練習が終わったときには、ほうっと息が漏れた。

「透ちゃーん、あのリフんとこ、もうちょっと刻みたいんだけど、いいすか?」

「うーん、でもそうすると、いかにもそれっぽすぎじゃね?  すこーし歪ませて響かせるくらいがかっこいいと思うのよ、俺は」

 大悟と透がギター談義に花を咲かせている間、兄嫁の美久が支度を手伝ってくれる。5人で囲むにはテーブルが小さいので、佐保は自分の作ったおにぎりと卵焼きを、脇に重ねられた茶箱の上にそっと置く。母や美久の作ったご馳走の前では、あまりに簡単な料理で恥ずかしいのだ。なのに顕生はいつも、その茶箱の近くに陣取る。

「俺、はらぺこ。大悟や透ちゃんはほっといて、お先にいただきまーす」

 きちんと両手を合わせたあと、ほくほくとおにぎりを手に取る顕生を美久が笑った。

「顕生くん、ほんと好きね、佐保ちゃんのおにぎり」

「うん、卵焼きもね」

 そう言って大きく頷く顕生の箸には、すでに黄色い卵焼きが挟まっている。

 初めて彼らが芦原家に集まった日、手の込んだ総菜を作る母や兄嫁の傍らで、佐保はおにぎりと卵焼きを作った。それがなぜかえらく顕生の気に入られてしまい、以来彼らが来たときの夕食には、必ず佐保のおにぎりと卵焼きをリクエストされる。今や催促されなくても作る定番メニューになった。

「京都でおいしいお料理、いっぱい食べてきたくせに」

 兄たちによって顕生の隣に座らされた佐保は、卵焼きを頬張る男に呆れた視線を送る。

「料亭の卵焼きは、味が薄くて物足りない。佐保ちゃんのはね、しっかり甘くて疲れた身体にしみるんだ」

 卵焼きで膨らんだ頬を、『おいしいよ』と言わんばかりに指で突く。その仕草こそ、甘い。居たたまれなくて、下を向いて黙々とおにぎりをぱくつく。そんな佐保を、顕生はなおもうれしそうに眺めている。

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