偽りの日々
兄の失踪により、兄の婚約者小夜子さんは酷くショックを受けた。僕を一哉と呼ぶようになったのだ。
今日の書き出し/締めの一文 【 君が必要としてるのは僕じゃない 】 http://shindanmaker.com/237660
君が必要としてるのは僕じゃない。今日も自分に言いきかせる。
「一哉、一哉っ。一人にしないで。私、悪い夢を見ていたのよね」
「そうだ、小夜子。俺はここにいる。だから安心して寝ろ」
黒い艶やかな髪を振り乱して、小夜子さんは僕の寝室に来た。兄の身代わりとして彼女と結婚した僕は、今も彼女と部屋を分けている。兄が彼女にどう接していたかなんて、知らない。彼女をどう抱いていたのかも知らない。ただ、僕の記憶にある兄の姿を再現していた。
小夜子さんは兄が失踪したことを知っている。しかし、長年愛し続けた兄を失ったことで、彼女の精神は崩壊したのだ。病室で目覚めた彼女は僕を見て、一哉と呼んだ。僕を圭二くんと呼んでいた彼女はもういない。
不安定になった彼女は、僕を一哉と呼んで、べったりと過ごすようになる。偽りの結婚式を挙げ、彼女と兄が住むはずだった新居に僕がいる。
彼女は兄を求め続け、僕を否定し続ける。一哉をつなぎ止めようと、僕に抱いてくれと誘う。その誘惑にフラリと惑わされ、唇を重ねた。小夜子さんの震えるまぶたが至近距離で見える。触れる唇の柔らかさに、気分が高揚した。唇を何度も軽く触れあわせる。すると、彼女はじれたように舌を伸ばしてくる。
それは駄目だ。これ以上はいけない。小夜子さんを乱暴に突き飛ばす。彼女は目を潤ませて、僕にすがりついてきた。
「ごめんなさい。嫌いにならないで」
「大丈夫だ。小夜子、最近あまり寝ていないだろう? 隈がある」
「もう、恥ずかしい。気づいていたなら、黙ってくれていたらいいのに」
「今日は早く寝ろ。隣にいてやるから」
「まぁ、本当? 絶対よ、一哉」
君が必要としてるのは僕じゃない。繰り返し自分に言いきかせた。
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君が必要としてるのは僕じゃない。そう圭二くんが思っているのを知っている。
一哉は私の気持ちを知っていた。知っていたからこそ、失踪したのだと思う。私は彼の人生を左右させてしまった罪悪感で、一時的におかしくなっていた。後で知ったのだが、圭二くんを一哉と呼んでいたのだ。私はなんてことをしたのだろうと思った。けれど私は彼をつなぎ止めたくて、それからも一哉と呼び続けた。すると、結婚までこぎつけたのだ。彼は兄のために一哉を演じ続けるたろう。
彼の演じる一哉は優しかった。本物の一哉は二人きりになれば私を妹のように扱っていたことを、圭二くんは知らないのだ。ごめんなさいね。あなたがほしいの。だから、どんな卑怯者にだってなってみせるわ。
やっと彼とキスをした。彼と深く触れ合いたくて舌をのばすと、彼に拒まれた。こんながっつくような女は嫌い? それとも、計算高い女であることがバレて嫌いになったのかもしれない。彼を失いたくなくて、みっともなくすがる。そうすると彼は優しく一哉を演じるのだ。圭二くん大好きよ、どうしょうもないくらいに。
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数年後、本物の兄さんが現れた。兄は全てを謝罪し、自身の暮らしに戻っていった。残された僕と小夜子さんは戸惑った。
小夜子さんは胸の内を語った。兄のふりをしてくれている僕を手放したくなかったこと。本当の兄との関係。籍を入れていないこと。全て話して、深く頭を下げた。僕は兄との関係を知り、安心したような、これまでの自分は何だったのかと苦悩した。
「あなたはこれから圭二くんとして生きて」
彼女は圭二である僕を求めなかった。罪悪感によるものだろう。僕を手放すつもりなのだ。
「小夜子さん、手放さないで。あなたがなかったことにしたら、全てなくなってしまう。兄の婚約者であるあなたが好きだった日々も。兄としてふるまってきた日々も。これまでやってこれたのは、小夜子さんが好きだからなんだ。だから、お願いだからなかったことにしないでほしい」
「ごめんね。圭二くん、今まで本当にごめんね」
彼女は僕にすがって泣いた。これからは圭二として彼女の隣に立つことができる。偽りの日々は終わりを告げた。




