人魚すくい
一人薄暗いアパートに帰る。ずっと肩に力を入れていたが、すっと抜けていく。そのままソファーに倒れこんだ。一日の疲れが和らいでいくようだ。化粧を落とすのを忘れているがもう何もしたくなかった。スーツがしわくちゃになろうが知ったことではない。
今日も御局様に絡まれた。思考が黒に染まりつつある時、窓から明かりが差し込む。気力がなくて明かりすらつけるのを忘れていた。ノロノロと顔を上げると、花火が打ち上げられていた。心に郷愁がわく。
もう、田舎に帰ってしまおうか。視界が潤むけれど、プライドが泣くことを許さない。やっと昇給したのだ。これまでの頑張りを無駄にしたくなかった。田舎の名残を求め、スーツのままノロノロと縁日に向かった。
祭りのざわめきが故郷を思い出して懐かしい。両手にわたあめとりんご飴を買って、水ヨーヨーを釣って親を呆れさせていた。他にも挑戦した屋台があったのだが、あれだけはうまくいかなかったと思い出し笑いをするとその屋台が目に入る。一人暮らしの寂しさを紛らわせるのにはちょうどいいだろう。
「一回、お願いします」
「はい、どうぞ」
渡されたボウルとポイに、子どもの頃のように胸が高鳴る。やってやるかと腕まくりして、水面を睨む。泳ぐのは小赤と出目金、姉金、朱文錦だった。昔惨敗した経験を元に慎重にポイを水につける。そして小赤を縁にかけ、素早くボウルに移した。達成感に浸っていると、屋台主がクスリと笑っていた。その時、ようやくまともに屋台主を見た。体格から男だろう屋台主は浴衣を着ており、狐の面をつけていた。
「来た時と違って、とても目がキラキラとしていますね。みんなそうやって童心に戻られるみたいですよ」
怪しいと思いつつ、その穏やかな声色に警戒を解く。
「昔は一匹もとれなかったんですよ」
「念願が叶ってよかったですね」
「ええ。後で水槽を買おうと思います」
久しぶりにやった金魚すくいは四匹すくうことができた。同居人が一気に増えて心が温まる。しかし、よくよく見ると一匹だけ金魚ではないようだ。菖蒲色の可愛い、朱文錦のような尾ひれの人魚がボウルの中を泳いでいる。人魚とは空想上の存在ではなかったのか。
茫然と眺める彼女に狐面の屋台主は言った。
「金魚と一緒はだめです。人魚が食べちゃうので」
なんともグロテスクな言葉に絶句していると、人魚がボウルの中から見上げて微笑んだ。その笑顔を拒めず、気づけば家に連れて帰っていた。
念のため金魚と分けて、人魚をマグカップに入れると気に入ったのかクルリと一周して歌った。月光の光を受けた人魚はこの世のものではないような美しさがあった。淡い菫色の頭髪が病的に白い肌に張り付いている。尾ひれと同じ菫色がこちらをひたと見つめている。その深い色に吸い込まれるような気がした。
人魚が何を食べるか分からず、海藻など試行錯誤しながら与えた。結果、人魚はマグカップからどんぶり鉢に変えるほど育った。月の光をあててやると機嫌がいいので、夜は窓辺に置いている。
「アヤ……カ。アヤカ」
人魚は名前を覚えるようになった。呼ぶ声がしたのでそばに行けば、甘えるように手を握って頬ずりしてくる。こんな可愛らしい仕草をされたら、悪い気はしない。しかし、今は水槽の手入れをしていた。弱り切ってフラフラと泳ぐようになった金魚がいるため、薬を水槽に入れようとしていたのだ。今も傾きながら泳いでいる。その危なっかしさに気がそれた時、指先に痛みがはしった。人魚が噛みついていた。
「だめ」
思わず叱責したが、人魚の瞳の奥深さに飲み込まれてしまいそうだ。完全に注意が引きつけられたことで満足したのか、自分が噛んだ跡を一生懸命舐めている。血を吸い上げるように念入りに舐めとった。
それから噛みつき癖がついてしまったようで、よく噛みつかれるようになった。叱っても反省しないので困ったものだ。犬の噛みつき癖で調べてみれば効果はあるだろうか。
「綾香、どうしたの?」
「お前がよく噛みつくから困ってたの」
今人魚は金魚のために買った水槽の中にいる。金魚はもういない。金魚を飼う初心者の私は一から学ぶことばかりで、よく病気をさせてしまっていた。どうにかできないかと私がかまえばかまうほど、人魚は金魚に深い目を向けた。金魚は日に日に一匹ずつ死んでいった。反比例するように人魚はどんぶり鉢に収まりきらないほど大きくなった。私は空いてしまった隙間を埋めるかのように、人魚を水槽に移した。
そう言えば、噛みつくようになってから人魚は滑らかに話すようになった。体格も雄か雌か分からなかった状態から喉仏がでて、広い肩幅をもつようになった。雄だったらしい。
「そう言えば、お前にも名前が必要だね。何がいい?」
「あやか!」
「それじゃ私の名前じゃない。そうね、綾人なんてどう?」
「お揃い、嬉しい!」
それからも綾人にご飯と噛みつかれる日々を繰り返す。同僚に早く帰ることを勘繰られたがそんな色っぽい理由ではない。
最近は家に帰ると浴場に行く。湯船に浸かった綾人がいるからだ。すっかり大きくなってしまった。私を目にとめて、嬉しそうに尾を跳ねさせた。
「お帰り、綾香」
「ただいま」
菫色の瞳が柔らかく細められている。目から親愛の情が伝わってくる。
「今日は満月だね。生物が月の影響を最も受ける時だよ。とびきりのご馳走ちょうだい?」
彼は噛みつき、血を摂取することで人間を学んでいるようだった。体も青年の体つきに育ってきている。
「少しだけね」
「うん、少しだけ」
ぐいとヌルッとした手に引き寄せられ、唇を重ねられた。齧られると思っていたのでとっさに反応できなかった。子が親にねだるように舌を絡ませ、一生懸命唾液を嚥下する。やっと舌が口から引き抜かれた時には綾人の尾は人のものとなっていた。
「これでやっと綾香のつがいになれる。好きだよ綾香」
綾人の触れた手は冷たく、体温を奪われるようだった。それから彼は体の全てに触れ、体温が混ざり合った。不思議と拒もうと思わなかった。月の夜に狂っていたのかもしれない。
一年後、綾人と縁日に行くとあの不思議な狐面の男を見つけた。
「おや、うまく育てたようですね。あなたに任せて正解だったようだ。どうです? 今回もやってみますか?」
「やめておくわ」
「それがいいでしょう。人魚は存外嫉妬深い。金魚に向ける関心すら許さないのですから」
金魚が死んだのはもしかして――。
「綾香にはもう俺がいるでしょ。帰ろう」
あの日綾人をもらったことが現実なのか確かめたかった。それだけなのに、彼の笑顔が怖いと感じた。
花ゆきがすくった4匹のうち1匹だけ人魚が入っていました。菖蒲色の可愛い、朱文錦のような尾ひれの人魚。茫然と眺める花ゆきに、狐面の香具師は言いました。
「金魚と一緒はだめです。人魚が食べちゃうので。」
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診断より




