第5歯(ば)
その時から、『小走りで瞑想する賢者』としての、我らの暮らしが始まったと言って良かろう。我らは懸命に考え、その身悶えが自然と足の運びとなるようだった。動物として生きるということは、命を食らって生きるということである。そうあること自体が罪と母は仰るが、我らも生きねばならぬ以上、それはもう仕方のないことだ。一方、そう言い聞かせたところで我らの胸は一向に晴れないのだが、実は、この迷いこそが、母が仰られた『性罪であるからこそ、性償いとなれる』の、核心なのではないのかな? 我らは潔く、罪人であることを深く胸に刻むとしよう。だからこそ、友を救えなかったことへの償いを、友を食らうことへの償いを、後天的な義務に堕したものでない、我らの血肉として引き受けられるのだ。血肉を差し出してくれる友に、我らはそうやって血肉から生み出した、真心を捧げることにしよう。この贈り物の遣り取りによって、友も我らも苦痛を和らげ、互いの友情を回復できるだろう。我らは答えに辿り着いた。そして、それを母なる大地にお話しすると、母も賛意を示してくださった。
うん、思案顔の者も幾人かいるようだな。今、私が言ったことを素直に受け入れられないというのは、私はむしろ、正しいことなのではないかと思う。私も、もう幾度かこの語りのお役目を頂戴しているが、私自身、この物語の真意をきちんと理解しているのか、未だに自信が持てぬのだからな。まったく、一度崩れてしまった均衡を修復しようとするのは、思い切実であってもなお困難であるらしい。正直なところ、私には荷が勝ちすぎるのだが、諸君らの疑問にも配慮しつつ、もう暫く語らせて頂きたい。即ち、我らは友に最大限の償いをするために、更に考え、実行したのだよ。
我らは、友へ精一杯の償いをするために何をやり始めたのか。「イモ送り」。そう、この度諸君らが初めて参加する、その儀式を創始したのだよ。我らはこの儀式に、我らの罪は生々しく、友への敬意は瑞々しく、長く保存したいと強く願った。それ故に、我らは儀式の中で躊躇いなく友の心臓をえぐり出し、彼を殺めることにした。我らは罪を犯した者に相応しく、自然、彼の心臓を最善の丁重さで扱うだろう。心と体を震わせながら、手を尽くしてそれを清め、美しく飾り立てるのだ。死=生である彼方、母なる大地の奥深くへと彼が辿り着いた際、先客と比べても彼が一番見栄えがするよう、知恵も尽くしてな。この一連の行為を、まったき真心のまま行えたなら、友は心を開き、罪深き我らを赦し、再び蘇って我らと共に暮らしてくれるだろう。更に、一度死した友が赴くのは死が生と等しくなるところ、即ち母なる大地の子宮である。だからこそ彼は蘇れたのであるが、同時に彼は、普段はそこ、母の奥深くに隠されている、純粋に増える力を浴びて我らの元へ戻ってきてくれる。友が充分に身に帯びたこの力は、我らのムラに豊富な食料をもたらしてくれるだろう。惜しげない贈り物へは、惜しげなく返礼する。我らとムラが健やかに続いていくためには、何よりも大切なことなのだ。
いい機会であるから、今の我らが送っている友を諸君らにも紹介しておこう。外でも無い、私の後ろにおる、諸君らも普段から親しく挨拶を交わしてる彼が、実はそうなのだよ。ああ、驚くのも無理はないな、神話が教える通りなら、我らはもう幾度となく、彼の心臓をえぐり出しているのだから! しかし心配は要らない、諸君らも先刻承知の通り、現に彼は生きている。即ち正しい送りによって蘇り、実際に飢えからも、我らを守ってくれている。
(君、あのイモの心臓をえぐるというのは、どういうことだい?)
(グレートマザーが、あのイモの思い定めた所を一欠片囓り取りますやろ。すると、それがイモの心臓って事になります。でもって、囓った後には土を詰めとくんですが、あの大きなイモは生きる力が強いさかい、そないな手当てで傷塞いで、また使えるようになるんですわ)
(ふむ。あのイモの形の歪さは、やはり欠損と成長が繰り返された結果だったのか)
ところで諸君、我らは『大地のペニス』であり母の創造を助け豊かな実りをもたらすのが本分であるが、その我らが友によって飢えから守られているというのは、何故なのだろうか。第一に、それはそもそも仰せつかった役目によるものだ、我らは確かに、母なる大地の創造を手伝いはする。だが創造に必要なもう一方、母のものである純粋に増える力を、創造のその場で顕すことまでは、我らにも出来ない。更には、普段は奥深い彼方に隠されているその力を、広大無辺のお体に遍く行き渡らせること自体が、母ご当人にとっても大事業なのだ。例えばこれは、我らの食料の収穫量・収穫点が、常に一定でないことからも知れるだろう。我らのムラの広がるこの一帯が、もしかしたら不毛地帯になってしまうかも知れぬ、母に落ち度は無くとも、それは有り得ないことではないのだよ。しかし我らには、死して奥深い彼方へと赴き、蘇ってその力を我らのムラにもたらす、勇敢で敬愛すべき友がいる。なるほど、やはり我らは、友によって飢えから守られているのだな。
さぁ、私の口をお貸しできる聖なる物語は、これでおしまいだ。一度に随分多くを物語ったものだから、諸君らもまだ充分には飲み込めておらぬだろう。「イモ送り」が行われるまでに各自存分に走り、各々理解を深めて頂きたい。ああ、ああ、済まぬ。皆も一息つきたいだろうが、後もう少し、私にお付き合い願えぬだろうか。私の口から神話が物語られている最中、諸君らの中には思案顔を見せる者もいたな。それは恐らく、語り出されることの中に、直ぐには賛同できぬものがあったからだろう。私がこれからお話ししたいことも、きっとその点に関係があると思うのだよ。私自身が腑に落ちずに困惑していることと、その思考の跡を、試しに話させて欲しいのだ。
うむ、ありがとう。では門歯直入に言うとしよう。即ち「イモ送り」の儀式を執り行うことによって、友は本当に、彼を食う我らを赦すのだろうか? 我らが彼に示すのと同じ友情を、抱いてくれるのだろうか? 私にはどうしても、友が我らに怒り、嘆いていないとは、到底思えぬのだよ。自身の身に置き換えて考えてみるがいい、生きていく上で仕方が無いといえばヘビが我らを食うのだって同じだろうが、我らの誰一人、奴に喜んで食われたりはしないだろうからな。では神話は、我らを虚構に逃避させ、楽観的にするために語られたのだろうか。ここがよくよく考えなければならぬ、勘所のように思うのだよ。
結論からいえば、神話とて我らがイモを食い、イモは我らに食われる、その現実を微動に出来ぬことぐらい、きちんと弁えているのだと思う。神話は我らを楽園に匿うのではない、むしろ我らに事実を突きつけ、常に試していると言えよう。では、一方で神話に確かに含まれている、己の妥当性を自ら否定するような、我らには受け入れがたく見える論理については、どのように理解すれば良いのか。ここで私は、試みに現実というものを「外」と「内」に分けて考えてみたくなるのだよ。外の現実というのは、我らが鼻で嗅ぎ、門歯や感覚毛で感じ取れる、その様子のことだ。神話は、この現実には一切手を加えず、そのままを鮮明にして、我らに提示する。一方、内の現実とは即ち我らの内面、心のことで、神話はこの現実には積極的に手を加える、それまでを変革して、我らに気付きを与えるのだ。諸君、門歯に前肢をあてて考えてみて欲しい、神話が教えるところを聞き終えた今、我らは他者の命によって養われている「外の現実」を、これまで以上に意識させられることになった。食う・食われる関係の友と我らの間に、現実的には心を通わせ合う道など無いことを、容赦なく思い知らされた。にもかかわらず、我らの胸の内に目を転ずれば、友を一層親しく思い、敬いたい気持ちが、彼への罪の意識に押しひしがれることもなく、今この時、より湧き立ってはいないだろうか。たとえ一方通行であっても、友への友情はこれからも変わらない、決意を新たにしはしなかっただろうか。何と言っても、友は我らと血の繋がりのある、兄弟でもあるのだからな。我らの「内の現実」が、神話によって変革された。確かにそうであろう。
結局、神話は我らを戒め、かつ慰めてもいるのだろうな。我らは、我らを生かしてくれている友への敬意を、決して失ってはならぬ。それを失えば、我らは最早賢者などではない、野蛮な四つ足に成り下がるのだが、そうならないよう神話は我らを諭してくれている。また我らは、友情がどうしても一方通行にしかならない、辛い生を過ごしているが、そんな我らを、神話は元気づけようとしてくれてもいる。実は神話が「矛盾」を発揮するのはこの時だよ、惜しみない贈り物へは惜しみない真心を返せば良い、そうすれば友も友情を回復してくれる、そう教えられたなら、不思議なことに、我らは確かに絶望にとらわれることが無いのだ。もしかしたら、友は本当に我らに微笑みかけてくれるかも知れない、そんな風に、時には楽観的にもなれて、心が慰められるのだよ。神話は、生きる知恵のために、わざと矛盾を顕わにするのかも知れないな。現実から目を背け続ければ、それは逃避だ。しかし、一時的に辛さから逃れ、それで生きる元気が回復できるのなら、それは知恵だ。うーん。神話はどうも、外の現実と内のそれとを重ね合わせ、むしろそうした方が支障なく生きていける我らの性質を、我ら以上に熟知しているようなんだなぁ。