第3歯(ば)
おお、そうだ。諸君、嬉しいことに、我らにはもう一人兄弟が居たようだよ。先生。そう、遠路はるばる、我らのムラを訪ねてくださったあなたです。その門歯触りさらさらな、一風変わった毛皮を脱いでみれば。実は凄いんです、先生も自然のままでは我らや我らの友人と同様に、誇らしく皮膚を晒しておいでなんですな。更に伺えば、先生らにも運動と組み合わせた思考の習慣がおありとか。『しょーよー学派』というそうですな、いや、学が習慣になっているとは、益々親しみを感じますぞ。まったく、ん? ああ、確かにそうだ、話が少々脇へ逸れてしまったな。しかし、これくらいではとても新しい兄弟を讃え足りぬ。先生、こんな中途半端で失礼この上ないのですが、また後ほど、ゆっくりお話しさせてくだされ。
(ええ、勿論。楽しみにしてますよ)
(ん? 先生、顔は笑うてますけど、首長から見えないとこで震えてまへんか?)
さて、我らはかつてイモであったが、姿形自体は、今とさほど変わりなかった。動かすことはできなかったが、手足はちゃんと揃っていた。嗅ぐことはできなかったが、鼻も変わらずついていた。それで光に触り、受像することはできなかったが、無論門歯も欠いていなかった。そして尻尾で母なる大地と繋がって、この点については今と唯一違うところだな、頭を下にして来る日も来る日もじっとしておった。ただひたすらじっとしているだけだなんて、今の諸君らが聞いたらさぞぞっとするだろうね。でもその頃の我らにとって、そんな生活も苦では無かったのだよ。母なる大地にいつまでもそっと包まれたまま、夢見心地に過ごせた、というのもあるだろう。しかし、もっと愉快だったのは、我らは古い友人たちと直接言葉を交わせたのだ。その頃の我らはイモだった、ならばイモどうし話が弾むのは、当然のことだろう?
では、どんなことを話してたのか。こんなことがあった。我らの直ぐ隣で立派に育っていた、我らと一番仲のよいイモが、急に舌打ちしたかと思うとぶつぶつ不平を言い出したのだ。当然、我らはその友人に訳を聞いた。友人は忌々しげに『またあの連中が』と話し始める。『また地上をうろつき回るあの連中が、そこに出ている私の部分に、小便をひっかけていったんだ』。我らは彼の怒りに同意し、慰める。母なる大地に嵌入して暮らす我々は、大いなる知恵に浸って生き続けている。一方、愚かにも地中を出た連中は知恵に守られず、かつては高邁だった魂も、今はすっかり野蛮な風に錆を浮かせているのだろう。友人は直ぐに機嫌を直してくれたが、今度は考え込んでしまった。『そう言えば、不思議に思っていたことがあるんだ。地上にもたくさんの命が暮らしているのだが、奇妙なことに、我々とは違って決まって全身毛むくじゃらなんだ。しかしどういう訳か、小便が出る所だけは、なぜか我らと同じ様に素っ裸なんだ。これには一体、どのような造化の妙があったのだろう』。なるほど、造化の主である母なる大地は、創造の際に何をお考えだったのか。我らは伺ってみた。母なる大地は、我らがこんな質問をするのに最初は戸惑われたのか、暫く黙っておいでだった。しかし、結局はこうお答えになられた。
『そ、それはその…そのほうが、私が多くを産むのに都合がいいからです。だって、あ、あなた方はその、私にはっ、嵌まり込んでいますし…』
(あー…)
(ここで声音変えて、しな作る必要あんのかってことでっしゃろ。首長もホント、変なとこで芝居っ気出すで。あれじゃ肉ぶとんの連中に聞かせてる、いつものエロ話や)
(ユーモアは俗でなく、聖にカテゴライズされるということだろうか…ふむ、考察すべき点だな)
(…先生は、ほんま何でも全力で追求するお人なんですな)
我らは、直ぐに我らの本質を悟った。なるほど、我らは『大地のペニス』であったのだな。被造物でありながら、創造の一端に関与している。母なる大地の豊かさは、実は一方に我らあったればこそだったのだ。諸君、我らは日頃より、母なる大地から様々な贈り物を頂戴している。だが、この時教えて頂いた真実よりも価値があり、また我らを誇り高くさせるものは、他に全く無いだろう。我らはそれまでも、母なる大地に包まれ夢見心地に暮らしていた、しかしこの真実を知った際、我らは初めて悦の極北へと辿り着けたのだよ。もっともそのようなこと、色彩千変形状万化、我らほか諸々に役目をお与えの母なる大地なら、もうとうにご存じだったかも知れぬがのう。ひひ。
(ФшФ)(ФшФ)(ФшФ)………(ФшФ)
こほん。さて、かように穏やかで満ち足りた地中の楽園であったが、厄災は常に我らの影法師であることを忘れてはならぬ。困難とは無縁だった我らも、遂に危機と相対さねばならなくなったのだよ。
我らがイモであった頃、地上で暮らしている生きもの全員が毛むくじゃらであったことは、既に述べたな。ここで登場するのが我らが天敵、そう、あの憎々しいヘビだ。その頃、彼の敵も地上で暮らしておった。つまり、奴の全身にも、ぼうぼうと毛が生えていた。一方でやはり足はなかったから、毛むくじゃらの長い胴を草の根元や石ころに絶えず引っかけながら、よたよたと這っていた。しかし、生まれた最初から奴がそうやって地表を這っていたことが、我らにとっての不幸だったのだ。『ほう、地中に誰か居るようだな』。地を低く這う故に、腹の下すぐで交わされる、我らと友人との会話を偶然耳にしたのかも知れぬ。あるいは、我らの臭いを嗅ぎ取ったのかも知れぬ。とにかく、我らの敵は、我らの存在に気付いてしまったのだ。『しかし、動き回っている気配が無い。あるいは動きが鈍くてそう感じられるのかも知れないが、いずれにせよ何ほどのこともなさそうだ。よし、こいつらを食ってやろう』。ああ、その頃の我らはイモといえど、やはり呼吸はせねばならぬ。彼の敵は、空気取りの穴に目を付け、そこから侵入しようとしたのだ。嫌らしい目端の利かせ方は、相変わらずだよ。ところが、その侵入は結局果たされじまいだった。空気取りの穴は狭く、自分の毛が引っ掛かって、危うく生き埋めになりそうになったのだな。我らは暢気にも、この恐るべき企みの進行をまだ知らない。そうこうしている間にも、敵は次の手を打ってきた。敵は生き延びるために必死で、故に、彼にとっては完全、我らにとってはとても残酷な策を思い付いた。奴は我らの友人を、唆すことにしたのだった。
ところで、その頃の我らは尾で直接母なる大地と繋がり、糧を得ていたのだが、友人は自分の続きを地上へ伸ばし、『不在なる父』の助けも借りて、生きているということだった。自立という点から見れば、友人は我らよりも成熟していたと言えるだろう。だが、地下へ潜れぬ我らの敵は、まさにその、地上にある友人の続きに目を付けたのだ。一体何をやったのか? 先ず、奴は発情した。そのヘビは女であったのだが、つがう相手も居ないのに発情しおったのだ。そして、我らの友人の地上部分に、何度も何度も、繰り返し尿をかけ始めた。当然、友人はその度に舌打ちし、文句を言った。『ああ、まただ。また引っかけられた。ええい、どこのどいつだ、何度も何度も。縄張りを持つ奴に、目でも付けられたかな』。友人にとってはこの繰り返しも災難であったろう、だが悔やまれることに、この小さな悪意の裏にある、真の悪意は見抜けなかった。友人が何度、不平を言った後だろうか。どうも、友人の様子がおかしなことになってきた。あれほど爽やかに回っていた舌が次第に鈍くなって、意味不明瞭な言葉が多くなり始めた。体表から絶えず分泌し、周りの仲間を清々しくさせていた気に、不穏な、濁ったものが混じるようになった。ヘビの尿に中り、症状が出始めたのだ。我らは、少しずつ惑乱していくらしい友人に、焦燥に駆られながらも言葉かけ以外為す術無く、ただ成り行きを見守るしかなかった。そしてとうとう、友人はヘビのしかけた魔術に、魂を黒く塗りつぶされてしまったのだよ。その頃にはもう、友人は全く正気を失っていたのだが、却って救いだったかも知れぬ。なんとなれば、友人はヘビに欲情するという、本来なら抱きようのない衝動に、すっかり身を支配されてしまっていたのだからな。友人は図らずも道を踏み外し、我らはそれを止められなかった。この出来事は、本当に、互いにとっての痛恨事であった。
(ふむ…)
(今の件に、気になるとこありましたか?)
(ああ、いや。発情した者の尿が、相手の発情を誘うというのがね…こういう時、研究者はつい、これはフェロモンのような物質が示唆されているのだろうか、もしそうならば、それはヘビも分泌するものなのか、知り合いの生物学者は知っているだろうか、そういう余計なことを考えてしまってね。みんなが固唾を呑んで聞いてる中、ちょっと申し訳なく思ってね)
(あ~、そらむしろ丁度ええんとちゃいまっか。生物学者の先生に聞くのなら、わいらに『ハダカデバネズミ』なんて名前付けたその人らのセンス、ついでに問い質す、いい機会ですやん)
(…ははは。それもそうだね)