『プロローグ』
サンブリア海戦の奇跡から、わずか数ヶ月後のことである。
ノバージェ水軍の大敗によって南部海域の覇権はアルストラーナ側に傾きつつあったが、未だ海賊やノバージェの敗残兵による略奪は絶えなかった。特に、切り立った断崖が続く「蛇の顎」と呼ばれる海域は、無数の隠れ港を持つ無法者たちの巣窟となっていた。
その海域へ、一隻の突撃艦が静かに進路を取っていた。
三番艦「ブラッドエミーナ」。かつて鳴梁の海で泣き叫んでいた少女、エミーナが艦長を務める船である。
「エミーナ艦長! 前方に敵影三! いずれも大型の武装密輸船です! 本艦を包囲する構え!」
航海長アレスの緊迫した声が甲板に響く。しかし、マストの根元に腰掛け、リンゴをナイフで剥いていたエミーナは、ピクリとも動揺しなかった。彼女のまとう軍服は、かつての侍女の面影を残しながらも、返り血を吸って黒ずんだ鈍い赤色に染まっている。
「……また、お仕事?」
エミーナは小さく溜息をつき、気だるげに立ち上がった。その瞳には、あの激戦の日に浮かべていた怯えや涙はひとかけらもない。あるのは、底の知れない虚無と、深い諦念だけだった。
「うぇーん、死んじゃう、こわいよー……って、あの時は本当に思ったんだけどな。でも、セシリア様に言われたんだよね。私は、私らしく生きていいって」
エミーナはナイフを無造作に甲板へ突き刺すと、ふらり、と船首へと歩み出た。
対峙する海賊船からは、少女が指揮を執る小艦を見て、下卑たあざけりの声が風に乗って聞こえてくる。「小娘、泣いて許しを請うなら命だけは助けてやるぞ」と。
「ねえ、アレス。私、もう泣くのやめたの。だって、泣きながらでも……私、あいつらのこと、殺せちゃうから」
エミーナがふわりと両手を天に掲げた。
海賊たちが異変に気付いた時には、すでに遅かった。
『新星爆発』
パァン、と、どこか気の抜けた破裂音が海原に響く。
次の瞬間、先頭を進んでいた海賊船の船長の頭部が、熟しすぎた果実のように跡形もなく弾け飛んだ。歓声を上げていた海賊たちの声が、一瞬で凍りつく。
「ひっ……!? な、何が起きた!?」
「次、いくよ」
エミーナが細い指先をスッと横に払う。
今度は、次席の指揮官、そして操舵手の心臓が、衣服の上から爆発したように真っ赤な血飛沫を上げて破裂した。超常の念力は、距離も、木盾も、鉄の鎧をも無視して、標的の肉体を内側から直接破壊する。
「う、化け物だ! 鬼女だ! 『南海の鬼女』が出たぞ!!」
「舵を切れ! 反転しろ! 逃げろォ!」
海賊たちは恐慌状態に陥り、互いの船を衝突させながら逃げ惑い始めた。その無様な光景は、あの日のノバージェ大船団の縮図のようだった。
「逃がさないよ。セシリア様の海を汚すゴミは、全部お掃除しなきゃ」
エミーナの唇に、残酷なほど無邪気な微笑が浮かぶ。
彼女にとって、この力は今や恐怖の対象ではない。ただ、愛するセシリアに認められ、その背を守るための、至極当然の「道具」に過ぎなかった。かつて怯え泣いていた侍女は、恐怖の反動によって、敵に対して一切の容赦を持たない冷徹な魔神へと変貌を遂げていた。
逃げる背中に向かって、エミーナの不可視の呪いが次々と撃ち込まれる。
海を赤く染め上げながら進む「ブラッドエミーナ」の船首で、少女は眩しい夕日を浴びながら、ただ一人の主セシリアの姿を胸に思い浮かべていた。




