旦那様に手を出すなんて、ずいぶん勇気がおありですね。殺すわよ???
使用人のミナは、密かにアリシアとローゼンを応援していた。
もちろん、それを口に出したことはない。使用人として主家の私生活に踏み込みすぎるのは良くないし、そもそもミナはまだこの屋敷に仕え始めて日が浅い。古くから仕えている者たちのように、ローゼンの昔を知っているわけでもなければ、アリシアがこの北国の屋敷へ嫁いできた頃のことを知っているわけでもなかった。
けれど、知っていることもある。
それは、ローゼンがアリシアをとても大切にしているということだ。
ただし、ミナが最初からそう思っていたわけではない。
ローゼンに仕えることになったばかりの頃、ミナにとって彼の印象は、冷酷という言葉に近かった。北国の領主。若くして家を背負い、戦乱を越え、領地を守ってきた人。無口で、落ち着いていて、無駄なことを話さず、使用人たちにも必要な指示を静かに出す。声を荒げることはないが、その分、余計に怖く見えた。
ミナは初めてローゼンの執務室に茶を運んだ日のことを、今でもよく覚えている。
扉を叩き、入室の許可を得て中へ入ると、彼は書類から顔を上げた。たったそれだけの動作だったのに、ミナは背筋が伸びた。冷たいというより、隙がない。こちらの小さな失敗まで見抜かれそうで、茶器を置く手に力が入りすぎたほどだった。
だから、先輩の使用人たちに言われた時、ミナは正直、信じられなかった。
「ローゼン様はお優しい方よ」
「最初は怖く見えるけれど、慣れると分かるわ」
「奥様が来てからは、特に分かりやすくなられたもの」
分かりやすい??あの方が???
ミナは曖昧に笑って頷いたが、心の中では首を傾げていた。どこが分かりやすいのだろう。何を考えているのか、ほとんど表情に出ない方ではないか。優しいと言われれば、確かに理不尽に怒鳴るような方ではない。優しいというより、ただ冷静で公平なだけではないのか。
そんなふうに思っていた。
アリシアとローゼンの、とんでもない場面を目撃するまでは。
◇
それは、ミナが屋敷に仕え始めて少し経った頃のことだった。
その日、ミナは廊下の花瓶を取り替えるよう命じられていた。北国の屋敷は、南国の屋敷ほど色鮮やかな花に満ちているわけではない。けれど、アリシアが来てからというもの、屋敷のあちこちに少しずつ花が飾られるようになったらしい。古参の使用人たちは、それをとても嬉しそうに話していた。
「奥様が来てから、屋敷が少し明るくなったのよ」
そう言われても、ミナにはまだ実感が薄かった。確かに、アリシアは明るい人だった。廊下ですれ違えば使用人にも自然に声をかけ、寒い日には「皆も無理しないでね」と笑ってくれる。領主夫人らしい気品もありながら、どこか親しみやすい。それは分かる。
けれど、ローゼンが分かりやすくなった、という部分だけは、まだよく分からなかった。
そんなことを考えながら、ミナが新しい花を抱えて廊下を歩いていると、奥の小部屋から微かな話し声が聞こえた。
ミナは思わず足を止めた。覗き見をするつもりはない。使用人として、それは良くない。けれど、花瓶を置く棚はその小部屋のすぐ近くにある。仕事のために通りかかっただけである。決して、興味本位で立ち止まったわけではない。
部屋の扉は、完全には閉まっていなかった。ほんの少しだけ開いた隙間から、中の様子が見える。
「いつになく元気ないわね?本当に大丈夫?」
アリシアの声は、いつもの明るさを残しながらも、少しだけ心配そうだった。
「大丈夫だよ。ありがとう」
ローゼンはそう答えた。声は落ち着いている。けれど、いつもより少し低く、どこか疲れているようにも聞こえた。
ミナは思わず眉を寄せる。確かに、今日のローゼンは朝から少しだけ様子が違っていた。執務の合間にも眉間を押さえていたし、昼食もいつもより少なかった。とはいえ、彼は具合が悪いなどとは決して言わない人だ。周囲に気を遣わせるくらいなら、平然としたふりをする。
アリシアはそれを、ちゃんと見抜いていたのだろう。
「大丈夫って言う人ほど大丈夫じゃないのよ。ほら少し横になって?」
「そこまでではないよ」
「そこまでかどうかは、私が決めます。貴方ちょっと働きすぎよ?はい、ベッドへ!」
ミナは花瓶を抱えたまま、心の中で小さく震えた。あのローゼン様に向かって、ここまで迷いなく指示を出せる人が、この屋敷に何人いるだろうか。いや、たぶん一人しかいない。アリシア様だけである。
しばらく沈黙した後、彼は小さく息を吐き、部屋の隅に置かれた休憩用のベッドへ腰を下ろした。それから、アリシアに促されるまま、ゆっくりと横になる。
「ほら、やっぱり疲れているじゃない」
アリシアはベッドのそばに腰を下ろし、ローゼンの額に手を添えた。
「熱はなさそうね。でも、少し顔色が悪いわ」
「少し寝れば良くなるよ」
「最初からそう言えばいいのに」
「君を心配させたくなかった」
「心配するわよ。大好きな貴方のことなんだから」
アリシアは少しむっとしたように言った。
そして、次の瞬間だった。
「そうだ!元気が出るおまじないをしてあげるわ!」
「おまじない?」
「ええ」
アリシアは身を屈めた。
ローゼンが何かを言うより早く、アリシアの唇が、横になっているローゼンの唇へそっと重なった。
ミナの思考は、そこで一度完全に止まった。
花瓶を持つ手に力が入る。足元がふわりと浮いたような気がした。息をするのも忘れた。声を出さなかった自分を、ミナは後で本気で褒めたいと思った。
口づけは、ほんの短いものだった。けれど、軽く触れただけで終わるには少し長く、冗談だと言い切るには甘すぎた。アリシアはローゼンの様子を確かめるように、そっと唇を重ねていた。ローゼンは完全に固まっている。
(あーーーーーーーーー!)
冷酷領主様だったはずなのに、見事に骨抜きにされていた。
アリシア様とローゼン様の夫婦関係は大丈夫なのだろうか、と我ながらに心配していた自分が馬鹿らしく思えてしまう。あまりにも無口で感情を見せないローゼンと、明るくよく笑うアリシアの間に、温度差のようなものがあるのではないかと勝手に思っていたのだ。
ローゼン様は、奥様を大切にはしているのだろう。けれど、それは領主として、夫として、責任を果たしているだけなのではないか。アリシア様は明るく振る舞っているけれど、本当は少し寂しい思いをしているのではないか。そんなことを、使用人の分際で密かに心配していた。
今となっては、穴があったら入りたい。
これでは円満どころの話ではない。
円満などという穏やかな言葉で収まるものではなかった。円満を通り越して、甘い。甘すぎる。北国の寒さを根本から否定するような甘さである。暖炉をいくつ焚くよりも、アリシアがローゼンの頬に手を添える方がこの部屋は温かいのではないかと、本気で思ってしまうくらいだった。
しかも恐ろしいのは、二人ともこれを特別なことだと思っていなさそうなところである。
アリシアは「元気が出ることをしてあげる」と言って、当たり前のように口づけた。ローゼンは驚きこそしたものの、拒むどころか、最後にはアリシアの手を取っている。
これが日常なのか。これがクライゼン家の普通なのか。
だとすれば、この屋敷に長く仕えている使用人たちは、どれほど強靭な精神を持っているのだろう。
ミナは、先輩使用人たちの落ち着いた態度を思い出した。
あの人たちは、これを見慣れているのだ。見慣れてなお、何食わぬ顔で茶を淹れ、毛布を用意し、暖炉の火を調整しているのだ。
尊敬しかない。ミナなど、今この瞬間、花瓶を持って立っているだけで精一杯である。心の中では愛の雪崩が起きている。それでも表情だけは崩さないよう必死に耐えている。使用人とは、かくも厳しい仕事だったのか。
「少し休んだら、ちゃんと温かいものを飲んでね。約束よ?」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
「なら、よろしい!」
アリシアは満足げに頷いた。
ローゼンはベッドに横になったまま、彼女を見上げている。もう駄目である。ミナは心の中で再び頭を抱えた。冷酷領主様。冷酷領主様とは。どこが冷酷なのか。奥様に約束を迫られて、静かに頷いているこの方のどこに冷酷要素があるのか。
ミナはそっと息を吸った。
落ち着け、自分は使用人である。ここで騒ぐわけにはいかない。今すぐ廊下の端まで走って、壁に向かって叫びたい気持ちはある。あるどころではない。
けれど、今ここで物音を立てれば終わりである。見ていたことが分かってしまう。
アリシアはきっと「まあ、ミナ。そこにいたの?」と明るく笑ってくれるだろう。ローゼンも怒りはしないかもしれない。
けれど、そういう問題ではない。見てしまった側の心が持たない。
「ごめんなさい!私、奥様が旦那様に口づけて、骨抜きになっているところを目撃してしまいました!」
などと、どの顔で報告すればいいのか。
無理である。絶対に無理である。
ミナはできるだけ呼吸を浅くしたまま、花瓶をそっと抱え直した。幸い、二人はこちらに気づいていない。
アリシアはローゼンの額にもう一度手を添え、ローゼンはその手を取って、何か小さく言っている。
声はよく聞こえない。聞こえなくていい。これ以上聞いてしまったら、ミナの中の何かが二度と元に戻らない気がした。
今なら行ける。今しかない。
ミナは花瓶を抱えたまま、まるで敵地から重要書類を持ち帰る密偵のような慎重さで、その場を離れていった。使用人として廊下を歩いているだけなのに、これほど緊張したことはない。
初めてローゼンの執務室に茶を運んだ時よりも、よほど手に汗をかいていたのだった。
◇
ある日の事だった。
アリシアが南国の実家へ帰省するらしいという噂があり、ミナもすでに知っていた。
数日前から屋敷の中では、その話で少しずつ空気が動いていた。アリシアが久しぶりに故郷へ帰ること。ローゼンも同行すること。南国は北国と気候も作法も違うため、道中の準備をかなり慎重に進めていること。使用人たちの間でも、必要な衣類や荷物、茶葉、薬箱、道中の食事について何度も確認が行われていた。
だから、帰省そのものに驚いたわけではない。
問題は、その準備の規模だった。
玄関近くには衣装箱がいくつも並べられ、南国用の軽やかな衣装だけでなく、念のための外套や膝掛け、日差し避けの帽子、香草茶、焼き菓子、乾いた果物まで用意されている。さらに、主馬車のほかに護衛の馬車、荷物を運ぶ馬車、現地での手伝いに回る使用人の手配まで進められていた。
ミナは、それを見て静かに思った。
これは帰省なのか。それとも、奥様を絶対に不自由させないための国家事業なのか。
もちろん、口には出さない。出せるはずがない。だが、どう見てもローゼン様の準備は万全を通り越していた。奥様が道中で寒くないように。疲れたらすぐ休めるように。南国の日差しで体調を崩さないように。好きな茶を飲めるように。小腹が空いた時に困らないように。
全てが、奥様のためだった。
(あーーーーー!!もう最高よ!!!)
ミナは心の中で頭を抱えた。
またこれである。
冷酷領主様だったはずなのに、奥様の帰省となると、荷物一つ、馬車一台にまで愛が滲んでいる。しかも、本人はおそらくそれを特別なことだと思っていない。ただ当然のように、アリシアが快適に過ごせる道を選んでいるだけなのだろう。
恐ろしい、恐ろしや。
馬車の台数分の愛があるのだろうか。
そんな中、同行する使用人の希望が取られることになった。
南国では北国と勝手が違う。アリシアの身支度を手伝う者、道中の荷物を管理する者、現地での細かな用事に回る者が必要になるらしい。古参の使用人が中心になるのだろうと分かっていたが、ミナは迷わなかった。
「私も同行を希望いたしますっっ!」
誰よりも早く、そう手を挙げた。
理由はもちろん、奥様の帰省を少しでもお手伝いしたいからである。
そしてもう一つ。
この二人の愛を、地の果てまで見届けたいからである。
口に出せるはずがなかった。使用人として、あまりにも不純な動機である。だが、ミナの心はすでに決まっていた。アリシアとローゼンが南国へ行く。そこにはきっと、また何かが起こる。あの奥様と旦那様が、北国とは違う土地で、何事もなく静かに帰ってくるとは思えない。
しかも、ミナは南国の大変さを少しだけ知っていた。
南国は、北国とは距離感が違う。明るく、親しげで、初対面でもよく話しかける。挨拶で手を取ることもあれば、親しい相手には腕を組むこともあるらしい。中には、その距離の近さを都合よく使う者もいると、奥様が以前、少し困ったように話していたことがあった。
そしてローゼンは、南国では間違いなく目立つ。
背が高く、落ち着いていて、無口で、礼儀正しく、北国の領主という珍しさまである。本人は自覚していないだろうが、あれは危ない。非常に危ない。
ミナは想像した。
南国の女性たちに囲まれるローゼン。
困りながらも礼儀正しく断ろうとするローゼン。
そこへ飛び込んでくるアリシア。
見える。ものすごく見える。
これは、同行しなければならない。
奥様のためにも。旦那様のためにも。そして、使用人ミナの情緒のためにも。
◇
道中、目立ったトラブルは特になかった。
もちろん、ローゼンが念入りに準備をしていたから、というのが大きい。道は事前に確認され、宿は余裕を持って押さえられ、護衛も過不足なく配置されていた。天候の崩れもなく、馬の調子も悪くない。使用人たちの間では「さすがローゼン様」と小さく囁かれていたが、ミナはそのたびに心の中で頷いていた。
さすがローゼン様!!
奥様が関わると、準備に一切の隙がない!!
ただ、今回の旅では馬車が常にぴったり隊列を組んで進むわけではなかった。道幅や宿場の混雑を避けるため、いくつかの馬車は時間差で出発することになっていた。護衛の馬車、荷物の馬車、使用人の馬車。それぞれが決められた順で進み、一定の距離を保ちながら南国へ向かう。
その中で、ミナが乗る馬車は、アリシアとローゼンの乗る馬車のすぐ後だった。
それを聞いた瞬間、ミナは心の中で力強く拳を握った。
主馬車のすぐ後ろ。つまり、休憩のたびにアリシアとローゼンの様子が見える可能性が高い。もちろん、仕事である。アリシアの身の回りの手伝いをするために同行しているのだ。決して、二人の甘いやり取りを少しでも多く目撃したいからではない。そうではない。そうではないはずだった。
けれど、胸の高鳴りは抑えられなかった。
馬車が動き出してしばらくすると、北国の屋敷が少しずつ遠ざかっていった。白く冷たい朝の空気の中、アリシアの乗る馬車はゆっくりと前を進んでいる。窓には薄い布が掛かっていて、中の様子はよく見えない。見えないのだが、それでもミナには分かる気がした。
きっとローゼンは、アリシアが寒くないか確認している。
きっと膝掛けの位置を直している。
きっとアリシアが「大丈夫よ」と笑って、ローゼンが「念のためだ」と返している。
見えないのに見える。
これはもう、鍛えられた使用人の直感なのかもしれない。いや、ただの妄想かもしれない。だが、あの二人なら絶対にやっている。ミナは確信していた。
この旅に同行を希望した自分の判断は、間違っていなかったのだ。
◇
順風満帆な旅を期待していたのだが、事件が起きたのは、南国に到着して間もない頃だった。
道中こそ大きな問題はなかった。アリシアは久しぶりの故郷に胸を弾ませていたし、ローゼンも南国の空気や景色に静かに目を向けていた。ミナもまた、北国とはまるで違う明るい陽射し、白い石造りの建物、窓辺に飾られた色鮮やかな花々に少しだけ見惚れていた。
南国は、確かに美しい土地だった。道を行く人々の声も北国よりずっと明るく、誰もがよく笑い、よく話しかける。
アリシアがこの土地で育ったのだと思うと、少し納得した。奥様の明るさや、まっすぐ人の懐に入っていくような親しみやすさは、きっとこの空気の中で育まれたものなのだろう。
ただし、同時に思った。
距離が近い、非常に近いのだ。
北国なら、初対面の相手にそこまで近づかない。声をかけるにしても、もう少し間合いを取る。だが南国の人々は違った。笑顔で近づき、軽やかに話しかけ、相手の袖や腕に触れそうな距離まで自然に入ってくる。悪気があるとは限らないのだろう。きっと、ここではそれが普通なのだ。けれど北国の屋敷で育った感覚のミナからすれば、見ているだけで少し心臓に悪かった。
これは、アリシア様が心配なさるわけである。
ミナは荷物を抱えながら、ちらりとローゼンを見た。ローゼンは南国の陽射しの中でも落ち着いていた。背筋はまっすぐで、北国の領主らしい静かな雰囲気をまとっている。けれど、その静けさが南国では逆に目立っていた。明るく華やかな空気の中に、ひとりだけ雪の気配をまとった人が立っているようなものだ。しかも本人は、それにまるで気づいていないらしい。アリシアが「貴方は目立つのよ」と何度も言っていた意味を、ミナは今になって痛いほど理解した。
これは目立つ、そして、危ない。
そう思った矢先だった。
「あらあら、貴方、帰ってきたのね。てっきり北国の炭鉱送りにされたのだと思ったわ」
甘ったるい声が響いた。
ミナは思わず顔を上げた。そこにいたのは、白い日傘を差した令嬢だった。薄桃色のドレスは南国の陽射しによく映え、胸元には小粒の真珠が揺れている。歩き方も、扇の開き方も、微笑み方も、すべてが計算されているようだった。自分が見られることに慣れている人間の動きである。
アリシアの表情が、ほんの少しだけ固まった。
「……セレーナさん」
セレーナ・ベルティナ伯爵令嬢。
昔から、人の持っているものを欲しがる人だった。誰かが新しいドレスを褒められれば、次の茶会ではそれに似たものをより派手に仕立ててくる。誰かが招待された席に呼ばれなかったと知れば、偶然を装って現れる。誰かが大切にしているものほど奪いたくなる典型的悪女だった。
彼女の行動一つで壊れた関係は、数えきれない。
婚約者のいる令息へわざと親しげに話しかけ、相手の婚約者が不安げな目を向ければ、「ただお話をしていただけですのに」と笑う。親友同士の片方にだけ贈り物をして、もう片方の不満を煽る。誰かが大切にしている使用人や侍女を褒めちぎり、自分の屋敷へ来ないかと誘う。そうして関係に小さなひびを入れておきながら、最後には「まさか、そんなつもりではありませんでしたわ」と被害者のように振る舞うのだ。
そんなことが許されているのは、彼女の家が王都に強い繋がりを持つ伯爵家だからだった。
ベルティナ伯爵家は、南国の社交界では軽く扱えない家である。豊かな交易路を押さえ、王都の貴族とも縁が深く、茶会一つ、舞踏会一つにも顔が利く。だからセレーナが少々好き勝手に振る舞っても、周囲は大きく責めない。責めたところで、こちらが面倒な立場になるだけだと知っているからだ。
「あら、本当に素敵な方」
セレーナは日傘を少し傾け、ローゼンを上から下までゆっくり眺めた。
「北国の領主様と聞いていたから、もっと恐ろしい方を想像しておりましたの。雪と氷に囲まれた土地を治める方なんて、きっと厳しくて近寄りがたい方なのだろうと」
ローゼンは礼儀正しく一礼した。
「初めまして。ローゼン・クライゼンです」
「まあ、ご丁寧に」
セレーナは嬉しそうに微笑んだ。
「セレーナ・ベルティナと申しますわ。アリシア様とは、昔からよく存じ上げておりますの。それにしても、綺麗な瞳ですわね。北国の方の瞳は、皆そうなのかしら。雪解け前の湖みたい」
「ありがとうございます」
ローゼンは短くそう返した。礼儀としては何一つ間違っていない。だがミナは、内心で床を踏み抜きそうになっていた。
あの大悪女を殴り飛ばしてしまおうかと思った。
もちろん、そんなことをしてはいけない。相手は伯爵令嬢であり、こちらはクライゼン家に仕える使用人である。主家の名に傷をつけるような真似など、決してしてはならない。分かっている。分かっているのだが、それとこれとは話が別だった。あの女は今、ローゼンを見ている。アリシアの夫であるローゼンを、まるで気に入った装飾品でも見つけたかのような目で眺めている。
許せない!!非常に許せない!!あの大悪女め!!!
ミナは一歩、前に出かけた。
しかし、その瞬間、肩を後ろからがしりと掴まれた。
振り返ると、同行していた先輩の従者が、恐ろしいほど冷静な目でこちらを見ていた。いや、冷静というより、すべてを察している目だった。おそらく、ミナが今まさに伯爵令嬢へ突撃しかけたことを見抜いている。
「ダメよ、ミナ」
「で、でも……!」
「私達のアリシア様はあんな人如きに負けるような人ではごさいません」
ミナは完全に抑え込まれた。肩を掴む手には力が入っている。痛いほどではないが、逃がす気もない。これでは動こうにも動けない。
愛が!
愛が!!
二人の愛が!!!
守らなければならないのに!!
あの甘く、尊く、北国の寒さすら溶かす夫婦の愛を守らなければならないのに!!
すると、アリシアはローゼンの方を向いた。
ミナは嫌な予感ではなく、ものすごく甘い予感を覚えた。
「ローゼン、こっちを向いて」
彼がこちらを向いた瞬間、アリシアはその真正面に立った。そして背伸びをすると、逃げ道を塞ぐようにローゼンの胸元へそっと手を添え、そのまま唇を重ねた。
ほんの少し乾いた唇に、アリシアの唇が押し当てられる。最初は勢いのまま触れただけだった。けれど、すぐに離れてしまうのが悔しくて、アリシアはもう一度、確かめるように唇を重ね直した。ローゼンの身体が固まり、胸元に添えた手の下で、彼の鼓動がわずかに跳ねる。
それは、見せつけるためだけの口づけだったはずだった。少なくとも、最初の一瞬はそうだった。セレーナの視線を断ち切り、ローゼンが自分の夫なのだと示すための、少し強引で、少し意地の悪い口づけ。けれど、触れてしまえばそれだけでは済まなかった。アリシアの指先に力が入り、ローゼンの胸元の布をほんの少し掴む。ローゼンは固まったまま、それでも彼女を押し返すことはなく、やがて諦めたように目を伏せた。
その様子を見ていたセレーナの表情が、ゆっくりと引きつった。周囲にいた者たちも、声を失っている。南国の社交場では親しげな距離感も珍しくないのかもしれない。けれど、これは違う。客人への親しさでも、軽い挨拶でもない。夫婦の間にしか許されない、誰も入り込めない距離だった。
アリシアがようやく唇を離すと、ローゼンはしばらく何も言わなかった。ただ、アリシアを見ている。怒っているわけではない。困ってはいる。間違いなく困ってはいる。けれど、その目元はどこまでも柔らかかった。
「……アリシア。ここは外だよ」
「知っているわ」
「人もいる」
「知っているわ」
「……大胆だね」
「貴方が隙を見せるからでしょう?」
アリシアは悪びれもせずに言った。その声があまりにも自然で、ローゼンは返す言葉を失ったように目を伏せた。困っているはずなのに、アリシアの肩に添えた手は離れない。むしろ、彼女が少しふらつかないように、そっと支えている。
その瞬間、ミナの中で限界が来た。
大悪女の前で、奥様が旦那様に口づけをした。ローゼン様はそれを叱りきれず、困ったようにしながらも受け止めている。しかも人前だというのに、二人の間だけ空気が甘い。甘すぎる。
その姿は、南国の陽射しより眩しかったのだ。
生きていてよかった。クライゼン家に仕えて、本当によかった。
ミナは心の底からそう思った。
そして次の瞬間、限界を迎えたミナは、先輩従者に支えられながら静かに卒倒したのだった。
セレーナさんは蜘蛛の子を散らすように逃げたとか。




