「あなたに差し上げる最後の花束です」と微笑んで婚約破棄を受け入れた私は、花言葉ですべてを告発していました
「家格の違いは、もうこれ以上見過ごせない」
五月の夜会。婚約者ファルザードに、そう告げられた。
私は微笑んだ。扇を下ろした。
「お別れに、どうかこの花束をお納めください」
白百合、銀蓮花、黒ダリア、枯れた月桂樹。
翌朝、王家花園に同じ花束が押し花で届き、三日後、王都の新聞は一面で禁制植物の密輸摘発を報じた。
花の賢者一族にだけ読める、四つの花の告発文。
涙も叫びも要らない。
花は、ただ本当のことを映すだけ。
父の失踪から三年。
静かに動き始めた、ひとりの令嬢の復讐譚。
第一章 最後の花束
「家格の違いは、もうこれ以上見過ごせない」
ファルザード・ル・ヴィア伯爵令息は言い終えた途端、自分の言葉に驚いたような顔でレネから目を逸らした。
白薔薇館の控えの間。五月の終わり、夜会の宵。
部屋には前の使用客の残した白百合の香りがまだ薄く漂っていた。
香水と蜜蝋、それから床に落ちた蝋の焦げ臭さ。
壁紙の金の蔦模様が角のあたりで少し剥がれているのを、レネはぼんやりと眺めていた。
貴族の館は近くで見ると案外くたびれている。
他人事のようにそう思った。
楽隊の演奏は扉の向こうから遠く微かに届くだけ。
ヴァイオリンの高音が時々、小鳥の鳴き声のように聞こえた。
レネ・アルモニアは扇を胸にそっと当てていた。
胸の奥で心臓が、自分でも驚くほど速く打っていた。
けれど声には出さない。
声に出したらこの夜がうまく運ばない。
父が教えてくれた作法の最初の一行目だった。
『花を編む時はまず、自分の呼吸を整えなさい』
レネはゆっくりと息を吸い、吐いた。
亜麻色の髪が肩の後ろで微かに揺れる。
扇の陰で唇の内側を一度だけ噛んだ。
(大丈夫)
胸の奥で自分に言い聞かせた。
(お父様。私、ちゃんと動けます)
ファルザードはレネの沈黙に耐えきれなかったらしい。
「……実は、だな」
咳払いして続けた。
「カドラ家は商家ながら王家御用達だ。実は父からも、そう言われていて」
実は、を二度繰り返した。
見栄を張る時はなめらかなのに、本音を話そうとすると言葉が細くなる。
三年前、父を亡くしたばかりのレネに、この人は「大丈夫か」と声をかけに来てくれた。
けれど部屋の扉の前でずっと立ったまま、中には入ってこなかった。
優しくない人ではない。
ただ弱い人だった。
(この人、ずっと怖がってたのね)
レネは扇の陰でほんの少し目を伏せた。
(私と結婚することも、私を捨てることも、どっちも怖がってた。カドラの強そうなお嬢さんに手を引かれて、やっと今夜言えた)
悲しみはなかった。
代わりに胸の奥で妙に乾いた寂しさが残った。
ファルザードの隣でベアトリス・カドラがレネを細い目で値踏みしていた。
深い栗色の髪を夜会用に高く結い上げた十九歳。
耳飾りは商会から仕入れたばかりの薄緑の翡翠。
胸元には銀蓮花を象った細かな銀のブローチ。
けれどレネの目はベアトリスのもう一つの特徴に吸い寄せられていた。
指先。
高貴な装いをしているのに、親指の爪が少しだけ短く噛まれていた。
(爪、噛んでる)
レネは内心で呟いた。
(堂々としている顔の裏側で、ずっと怖がってる)
胸の奥が少しだけ温まった。
怖がっているのは自分だけじゃない。
今夜のこの部屋にいる三人は、全員怖がっている。
そう思った瞬間、レネの声は落ち着いた。
「承知いたしました」
声は思ったより透き通って出た。
扇の羽根がほんの少し震えた。
けれど震えたのは一拍だけ。
ファルザードが眉をひそめた。
「……それだけか」
レネが泣くか縋るか、その両方か。
どれかを待っていたのが顔に出ている。
「はい」
レネは短く答えた。
「それだけでございます」
ファルザードはしばらく扇の向こうのレネを見ていた。
それから視線を床に落とした。
初めて、彼はレネに対して「負けた」という顔をした。
勝ったのはレネだったのか、ベアトリスだったのか。
それは分からない。
けれどこの部屋で一番緊張が解けたのはレネだった。
「ひとつだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」
レネは扇を胸からほんの少し下ろした。
「……何だ」
「お別れに花束を受け取っていただきたいのです」
「花束?」
ファルザードはきょとんとした顔をした。
「今夜、君、そんなものを持っていたのか」
「はい。アルモニア家の昔からの作法でございます。婚約が解かれる時にお相手へ最後の花を贈る、古い習わしです」
「ふむ」
ファルザードの肩がほんの少し緩んだ。
「作法」と聞くと彼の顔に少しだけ生気が戻る。
古い貴族の慣習に彼は弱い。
茶会で「実は、男爵令嬢からこういう花束をもらってね」と語れるからだ。
(こうやって社交界の話の種にされるのね、私の今夜は)
レネは内心で微笑んだ。
微笑んだけれど悔しくはなかった。
むしろ都合がよかった。
「どうかお納めください」
レネは控えの間の隅に置いていた花束をそっと手に取った。
白い薄紙に包まれた、手のひらに収まる細い束。
花は四種類。
白百合。銀蓮花。黒いダリア。枯れた月桂樹。
色はどれも静かだった。
冬の終わりに近い薄曇りの灰色を、寄せ集めたような束だった。
リボンは細い鈍色の絹。
これを編むのにレネは三日かけた。
温室で花を選び、乾燥の加減を確かめ、リボンの色まで吟味した。
花束は花の賢者一族にとって、ただの贈り物ではない。
一通の手紙だった。
レネは花束をファルザードに差し出した。
指先が少し震えた。
花束を受け取るファルザードの指も、同じように微かに震えていた。
二人とも自分が今、何かの儀式をしていると分かっていた。
意味は違うけれど。
「どうかお幸せに」
レネは短くそれだけ言った。
ファルザードは花束を従者に渡した。
それきりレネの顔を見なかった。
ベアトリスだけが従者の手元の花束を横から覗き込んだ。
爪をもう一度そっと噛んだ。
「……変わったご趣味ですのね、男爵令嬢」
ベアトリスの声は笑顔のままだったけれど少し早口だった。
「父の教えでしたので」
レネは扇をぱちりと閉じた。
「父はもうこの世にはおりませんが、その作法だけは私の手に残っております」
ベアトリスの瞳が一瞬泳いだ。
商家の娘の勘は鋭い。
花の意味までは読めない。
けれど「今、自分に関係する何かが起きている」ことは肌で分かるらしかった。
けれど扇を開いて笑顔を作り直すまで二秒。
そこまで取り戻せる子だった。
「まあ、素敵な作法ですこと」
ベアトリスはそう返した。
声の響きが商会の受付嬢のように粒立って明るかった。
レネも同じ温度で微笑み返した。
(値段のつけられないものを値踏みしようとしてる)
内心でレネは呟いた。
(気の毒にベアトリス様。この花束、あなたたちの商会の帳簿では、絶対に値段がつかないのよ)
「失礼いたします」
踵を返し控えの間を出た。
扉が閉まる瞬間、背後でファルザードが小さく咳払いした。
廊下は驚くほど静かだった。
大理石の床に自分の靴音だけがぱたり、ぱたり、と反響する。
レネは廊下の途中の太い柱の陰に一度身を寄せた。
息を吐いた。
吐いた途端、膝が震えた。
張り詰めていた糸が背中の奥のほうでぷつりと切れる音がした気がした。
(終わった)
レネは目を閉じた。
(終わった。ひとまず、第一幕は)
涙は流れなかった。
流れなかったけれど目の奥がじわりと熱くなった。
その熱を扇の羽根の内側で冷やすように押さえた。
一拍。二拍。
三拍目でレネはもう一度背筋を伸ばした。
馬車は裏口に待たせていた。
御者はアルモニア家三十年来の使用人頭、ジェロム・ケラン。
六十を二つ、三つ越えた老人だった。
「お嬢様」
ジェロムはレネが近づくと無言で扉を開けた。
そしてレネの顔を一瞬だけ見た。
それからすぐに目を伏せた。
この老人はレネの機嫌を顔色で読む。
読んで何も言わずに次の行動を整える。
父が生きていた頃からずっとそうだった。
「お屋敷へお戻りでございますか」
語尾の「ございますか」が少し震えていた。
老いた男の声の震えだった。
「ええ、ジェロム」
レネは馬車に乗り込む前に一言付け加えた。
「大丈夫よ。私、今夜は予定通り動けましたから」
「はい」
ジェロムは短く頷いた。
「左様でございますか。旦那様もきっとお嬢様を誇りに思っておいででしょう」
老人の声はいつもより少しだけ湿っていた。
この人は父の失踪後もずっと屋敷に残ってくれた人だった。
三年、給金を減らしても文句ひとつ言わずに。
「ありがとう」
レネはそう答えた。
それ以上何も言えなかった。
返事をしたら今度こそ泣いてしまいそうだったからだ。
馬車は夜の石畳を走り出した。
窓の外、街灯の灯りが水面のように流れていく。
ひとつ、ふたつ、と光を数えていたら、五つ目でレネは小さくしゃくりあげた。
頬を温かいものが滑った。
舞踏会の間ずっと顔の裏側に貯めていたもの。
静かに零れた。
鼻の奥がじんわりと詰まった。
それでも声は立てなかった。
父が教えてくれた作法の二行目だった。
『花を編んだ後は、泣いてもいい。ただし、声は立てないこと。花は沈黙の中で届く』
(お父様)
レネは窓に額を寄せた。
ひんやりしたガラスの感触が頬の熱を少しだけ引き取ってくれた。
(お父様の教えてくれた作法で、今夜、ちゃんとお渡ししました)
馬車が屋敷の門をくぐる頃、空に薄い細い月が出ていた。
第二章 花の賢者
アルモニア家の屋敷は、夜の深さが他のどの貴族家よりも重かった。
使用人はジェロムのほかに通いの料理人と、週三回だけ来る若い侍女。
それだけ。
広い屋敷の半分以上は父の失踪以来、雨戸を閉めきったまま誰も入っていない。
レネが普段使うのは一階の居間と書斎、庭に面した小さな寝室だけだった。
それで十分だった。
馬車を降りるとジェロムは馬と馬車を厩舎へ回した。
レネは玄関で靴を脱ぎ、そのまま書斎へ向かった。
書斎の扉を開けた瞬間、匂いが迎えた。
干した薄荷と古い紙とインク、それから少しだけ甘い、乾いた薔薇の匂い。
母が生前ドライフラワーの花輪を作って壁にかけていた、その名残だった。
三年誰も入れ替えていないのに、匂いはまだ微かに残っている。
父の匂いだった。
レネはランプに火を入れ、机の前に立った。
父が使っていた樫の大きな机。
天板に父の手のひらの形が薄くインクで染みついている場所がある。
レネはそこにそっと自分の手を重ねた。
父の手のほうがレネの手より一回り大きい。
指の長さが二節ほど違う。
その差を指先で確かめながら、レネは椅子に腰を下ろした。
その瞬間、堪えていたものが堰を切った。
「ふ……」
声が漏れた。
「……っ、ふ、う」
レネは机に突っ伏した。
額を天板に押し付けて肩を震わせた。
声は立てなかった。
ただ背中だけが上下に揺れた。
父がいない。
ずっと分かっていたはずなのに、今夜ようやく腹の底まで落ちてきた。
父がいれば。
今夜の婚約破棄ももっと違う形で乗り越えられたかもしれない。
そもそもファルザードは別れを切り出せなかったかもしれない。
父がいないから、私は一人で花を編むしかなかった。
それが悔しい。
悲しいのではない。
悔しい。
そう気づくのに三年かかった。
レネは顔を上げた。
袖で頬を拭った。
ランプの光の中で目が少しだけ赤かった。
「お父様。ごめんなさい」
レネは声に出して父の机に謝った。
「今夜くらい、ちょっと泣かせてくださいね」
返事はない。
当たり前だった。
けれどレネは父がどこかで「ああ、いいよ、レネ」と言ってくれている気がした。
根拠はなかった。
三年、父の気配を感じる夜が時々あった。
それだけだった。
レネはハンカチでもう一度顔を整えた。
それから本棚の一番下の段に手を伸ばした。
革の表紙の分厚い一冊。
背表紙に蔦と花の絡まったアルモニア家の紋章。
花の図譜だった。
レネが十五歳の時、父が手渡してくれたもの。
「いつか、これを使う日が来るから」
父はそう言ってレネの手のひらに図譜を乗せた。
「その日まで、読んでおきなさい」
その時の父の声の温度を、レネはまだ覚えている。
紙の匂いが頁を開くたびに立ちのぼる。
古い紙と、父の使っていた青いインクの混じった匂い。
頁の隅に父の小さないたずら描きがあった。
余白に猫の顔。
別の頁には小さな星。
また別の頁には蔦がくるりと巻いて、レネの名前の頭文字Rになっている。
(……もう、お父様ったら)
レネは初めて小さく笑った。
この図譜を三年読んできた。
花言葉の基礎から、一族だけが知る「組み合わせ語」まで。
父の丁寧な注釈をほとんど暗記した。
今夜渡した四つの花のページを、レネはもう一度開いた。
白百合。
『嘘を重ねる者に渡せば、嘘は重みに耐えず崩れる』
頁の隅に父の字で小さく。
『レネ。怖がらなくていいよ。花はただ本当のことを映すだけだから』
レネは指先でその一行をなぞった。
涙がもう一度頁にぽたりと落ちそうになって、慌てて腕を引いた。
父は三年前から、この頁にレネが泣く夜があると知っていた。
そして先回りして慰めの言葉を書いてくれていた。
「お父様」
レネは小さく呼んだ。
「私、今夜、ちゃんと怖がらなかったですよ」
返事はない。
けれど頁の父の字は、インクの中で静かに笑っている気がした。
翌朝、レネは早くから動いた。
まず、昨夜渡したのと同じ四種の花を温室からもう一度摘んだ。
白百合は温室の一番奥。
銀蓮花は窓辺。
黒いダリアは鉢植えで三つ。
枯れた月桂樹は父の机の抽斗に、乾燥させたものが束ねてあった。
温室の朝の空気は土の湿った深い匂いがした。
外よりも温度が高い。
父がいた頃と同じ湿度が三年保たれていた。
レネが毎朝水をやり続けているからだ。
花束をもう一束作った。
それを薄紙に挟んで押し花に仕立てた。
花が完全に乾くのを待たずに今日は出す。
急ぐ方がいい。
封筒は父の抽斗の一番下から取り出した。
蔦と花の絡まった一族の紋章。
父が使っていた古い封蝋の印。
父以外使える者はいないはずの印だけれど、レネにも一つだけ、父から渡されたものがあった。
図譜と一緒に受け取ったもの。
「これも、いつか使う日が来るから」
父はそう言った。
レネは印鑑を握って蝋を垂らした。
封蝋が固まるまでの数秒。
レネは指先でそっと紋章を撫でた。
(お父様。今日、使います)
封筒の表に細い字で花の名を四つ並べ書きした。
『白百合。銀蓮花。黒ダリア。枯月桂樹』
それだけで読む者には「告発文です」と伝わる。
レネは馬車を呼んだ。
行き先は王家花園の裏手、植物学の学院。
学院は朝から学生で賑やかだった。
制服姿の若者たちが授業の鐘に合わせて走っていく。
レネは研究棟の裏に回った。
「花園宛」と札の貼られた小さな木箱。
誰でも投函できる郵便受けだった。
王都の花屋たちが新種や異種の発見をここに投げ込む。
王家花園の監察官が毎日一度、中身を取りに来る。
レネは封筒を落とした。
ことり、と木箱の底で音がした。
それで役目は終わった。
踵を返し帰ろうとした、その時、「アルモニア嬢」と、低い静かな声がした。
振り返ると黒いコートの男が立っていた。
二十代半ば。背が高い。
髪は短く整えた黒。
学院の植物学客員講師、イェミル・ウィルセン。
レネはこの人を遠くから何度か見かけていた。
授業も一度だけ受けた。
けれど言葉を交わしたことはない。
学生たちの間では「会話のない先生」で通っていた。
質問には短く答え、雑談にも乗らず、ただ植物の標本と本だけを見ている人。
そのイェミルが今朝、レネの前に立っていた。
「昨夜の舞踏会、お気の毒でした」
彼の声は雨の日の苔の上の空気のような温度だった。
冷たくはない。
ただ少しぎこちない。
彼はコートの袖口を指先でそっと撫でた。
釦を何度か指でなぞる。
緊張している。
レネは少し意外だった。
教壇の上で堂々と授業を進める彼が、自分の前で釦をなぞっている。
「……ありがとうございます」
レネは短く答えた。
「あの」
イェミルが言いかけて一度止まった。
それから言い直した。
「少し、歩いてもよろしいですか」
彼の「少し」が「ちょっと」ではなく「少し」なのが学者らしい、とレネは思った。
「はい」
レネは頷いた。
イェミルが示した中庭に続く小径。
両脇に矢車菊が咲いていた。
青い、小さな花。
母が生前好きだった花だった。
レネは思わず足を止めた。
「どうかなさいましたか」
「いえ」
「矢車菊がお好きで?」
「……母が好きでした」
レネはそう答えた。
答えた途端、喋りすぎたと思った。
けれどイェミルは何も追及しなかった。
ただ青い花に目を落としたまま言った。
「実は、私もここに来て矢車菊が一番好きになりました」
「実は」で始まった。
イェミルの口癖かもしれない。
何か予想外のことを伝える時に、彼はこの言葉から話すのかもしれなかった。
「青は理由なく人を慰める色ですね」
母の言葉だった。
レネは息が一瞬止まった。
「青は理由なく人を慰める色」
それをレネの母が生前よく言っていた。
娘にはその理由は分からなかった。
母が亡くなってから一度も聞くことのなかった言葉。
それを今、この人が繰り返した。
「どこでその言葉を……」
レネは思わず聞いた。
イェミルは少し目を伏せた。
「実は、学院の書庫でお父様の古い手記を見つけたのです。そこにお母様のことが少しだけ書かれていました」
また「実は」だった。
「お父様は書かれていました。『妻のセリーナは青をこの世で一番美しい色だと言った。理由なく人を慰める色だから』、と」
レネは扇を胸に強く押し当てた。
手が震えていた。
母のことを父がそんな風に書き残していたことを、レネは知らなかった。
「教えてくださって、ありがとうございます」
レネは小さく答えた。
声が少しだけ掠れた。
イェミルは首を振った。
「いいえ。……お伝えするのが今朝で良かったか、迷いました。急なのは申し訳なく」
「いえ」
レネは小さく首を横に振った。
「嬉しかったです」
本音が口から先に出た。
レネはそのことに自分で驚いた。
この人の前では嘘が上手くつけない。
そう感じた。
イェミルは視線を矢車菊の畝に戻した。
「アルモニア嬢」
「はい」
「お父様はお亡くなりになって三年ですね」
「はい」
「私はお父様と直接の面識はありません。ただ、お父様が最後にお書きになった論文を何度も読みました」
レネはほんの少し歩調を緩めた。
「……父の論文を」
「毒草の流通経路と貴族間の交易」
イェミルは静かに言った。
レネの背筋が冷えた。
その題名をレネ自身、一度しか父から聞いたことがなかった。
父が失踪する数日前の夜。
書斎で遅くまで書き物をしていた父に、レネが茶を運んでいった。
机の上の原稿の表題をちらりと見ただけだった。
父はすぐに原稿を裏返して茶を受け取った。
「これはね、レネ。まだ誰にも見せちゃいけないよ」
そう言って父はレネの頭を撫でた。
撫でた手は少しだけ青いインクで汚れていた。
それが父と話した最後の夜だった。
翌日、父は花園の用事だと言って屋敷を出ていった。
玄関で振り向かずに扉をくぐっていく、少し薄くなった後ろ髪。
いつもより早足だった。
その背中の記憶が今もレネの夢の中に時々出る。
「お父様は、ある貴族家の商会が禁制の毒草を隣国から密輸していることを、ほぼ掴んでいらっしゃいました」
イェミルは続けた。
「そして今朝の投函箱を開けるのは、私です」
レネは立ち止まった。
イェミルの黒い目を見た。
深く静かで、何かをずっと見続けてきた人の目。
父が生前「レネがいつか会う人だよ」と言った、その人の目かもしれない。
「……あなたは、どなたですか」
レネは小さく聞いた。
イェミルは首を振った。
「ここでは名乗りません。ただ、あなたのお父様が私に論文を託されました。三年お預かりしていました」
レネの目に涙が滲んだ。
堪えようとしたけれど堪えきれなかった。
イェミルはコートの袖口から畳んだハンカチをそっと差し出した。
あまりにもさり気なかった。
日常的にそうすることに慣れている人の仕草ではなかった。
けれど誰かが悲しんでいる時に何をすればいいか、勉強してきた人の仕草だった。
「……ありがとうございます」
レネはハンカチを受け取った。
柔らかい、糊の効いた麻だった。
ほんの少しだけ石鹸の匂いがした。
香水は使わない人。
それだけでレネはこの人の人柄の輪郭を少し掴んだ気がした。
(お父様、私、ちゃんと花を届けましたよ)
レネは心の中で呼びかけた。
(そして、読んでくれる人にも会えました)
第三章 摘発
それから三日、王都は表向き静かだった。
レネは普段通り屋敷で過ごした。
朝は庭の矢車菊を世話した。
昼は父の書斎で図譜を読んだ。
夜は温室の夜咲きの花を観察した。
父がいた頃と同じ時間の流れだった。
けれど、三日目の夕方。
ジェロムが青ざめた顔で書斎に入ってきた。
「お、お嬢様」
声が震えていた。
「門の前でこれを……」
老人の節くれだった手に小さな折り紙。
粗末な紙に走り書きで一行だけ。
『花の作法は王都の商家にも、読める者がござります』
「ござります」。
時代がかった古い語尾。
脅しの手紙にわざと古い言葉を使っていた。
商家の誰かが商家らしく見せないように偽装して書いた文面だった。
(下手な細工)
レネは紙を指先で摘んだ。
そのまま暖炉に投げ入れた。
炎が瞬く間に紙を黒く焦がした。
「ジェロム」
レネは老人に向き直った。
老人の手はまだ震えていた。
白髪の薄くなった頭が少しだけ俯いている。
「大丈夫よ」
レネは老人の震える手にそっと自分の手を重ねた。
「これ、慌てている相手の悲鳴です。ジェロムは何も気になさらずに」
「はい、お嬢様」
ジェロムはレネの手の下でゆっくり頷いた。
「ですが、門は当面閉めておきましょう」
「そうね。お願いします」
老人は深く一礼して書斎を出ていった。
扉が閉まる音の後。
レネは椅子の背もたれにもたれた。
自分の指先を見た。
震えていなかった。
怖いのは自分のことではない、とレネは気づいた。
怖いのはジェロムの青い顔だった。
三年、給金を減らしても残ってくれたこの老人を、レネは今、巻き込んでいる。
父は三年前、家族を巻き込まないために屋敷を出ていった。
レネは今、それと似たことをしている。
けれどレネは父のように消えるわけにはいかない。
ジェロムがいる。
温室の青い罌粟の苗がある。
母の矢車菊がある。
(お父様)
レネは心の中で呟いた。
(私は消えません。ここで背負います。早く終わらせます)
翌朝、新聞が届いた。
ジェロムが抱えて書斎に運んでくれた。
今朝の老人の顔は昨日より少し血色が戻っていた。
「お嬢様。……新聞を」
レネは受け取った。
一面の見出し。
『ル・ヴィア伯爵家、禁制植物密輸の疑い。王家花園、摘発に動く』
『カドラ商会、違法植物標本の輸出入で関連捜査』
『元顧問植物学者アルモニア氏の三年前の報告、真実だった可能性』
レネはしばらく新聞を見ていた。
それから長く息を吐いた。
(お父様、始まりました)
内心で静かに呼びかけた。
胸は単純には喜べなかった。
父の名誉が少しだけ回復しかけている。
それは父が本当に死んだことが少しずつ事実として確定していくのと、同じ意味でもあった。
(いいえ)
レネは自分に言い聞かせた。
(お父様は、まだ死んでいない)
根拠はない。
温室の奥の青い罌粟の苗。
三年一度も花が咲かないまま、葉だけで生きてきた株。
あの株が生きている限り、父はどこかにいる。
そう信じていた。
その日の夕方。
玄関で馬車の止まる音。
ジェロムが困惑した顔で知らせに来た。
「お嬢様……カドラ商会のご令嬢が」
「お通しして」
レネは静かに答えた。
応接間でベアトリスは立ったまま待っていた。
夜会の時の高く結い上げた髪ではなく、低く束ねた普段着の姿。
頬は昨日までの赤みが抜けて白かった。
胸元にはあの銀蓮花のブローチはもうなかった。
「レネ様」
ベアトリスは今朝までは呼ばなかった敬称でレネを呼んだ。
その声は舞踏会の時よりもずっと細い。
「あなた、昨夜の花束で何をなさったの」
「花束はお別れの挨拶ですよ」
レネは首を傾げた。
「嘘よ」
ベアトリスの声が震えた。
爪の短い親指を無意識に口元に当てた。
「花屋のクレメンに確認したの。あの四種は花言葉で『告発』を意味する、って。──一族の者にしか読めない文章だ、って」
「ベアトリス様」
レネはふわりと微笑んだ。
扇を開いて口元を隠す。
「私、そんな高尚なものは書けませんわ」
「とぼけないで」
ベアトリスが一歩前に出た。
「カドラ商会は今日の朝、倉庫に王家の役人が入ったの。帳簿の全部を押収された。父が真っ青になっていたわ」
「帳簿」、「押収」。商家の語彙が零れ出していた。
社交界の整えられた言葉ではなく、彼女の本来の言葉。
レネは扇をゆっくり閉じた。
「……それは、お気の毒に」
ベアトリスの瞳が細くなった。
「怖い人ね、あなた」
「いいえ」
レネは静かに答えた。
「私、怖くはありません。ただ花を編んでいただけです」
「花を編むだけでひとつの伯爵家とひとつの商会を、潰せるの?」
「潰したのは花ではありません」
レネは扇をもう一度胸に当てた。
「ル・ヴィア家とカドラ商会のご当主の、お仕事ですわ」
「……」
「花はただ、あったことを書いただけです」
ベアトリスはしばらく口を開かなかった。
応接間の窓の外で、風が庭の梢を揺らしていた。
やがてベアトリスは細く息を吸った。
「……あなたのお父様、本当に亡くなっているの」
その問いは予想していなかった。
レネはベアトリスの顔をまっすぐ見た。
「なぜ、そのようなことをお尋ねになるのですか」
「商会に三年前、お父様のことを知る人がいたのよ」
ベアトリスは初めて自分から内側を見せた。
「お父様はウチの商会の帳簿を、一度だけ覗かれた。父が真っ青になったのを、子供ながらに覚えている」
「……」
「その後、お父様は亡くなった、と聞いた。けれど今日、王家の役人が商会に来た時、彼ら『三年前の報告』の話をしていた。三年前の報告が今、生きている。それって……」
ベアトリスは目を伏せた。
「お父様が今もどこかで生きていらっしゃるかもしれないって、私は思ったのよ」
レネは何も言わなかった。
言えなかった。
自分が今朝、同じことを考えていたからだ。
ベアトリスは小さく笑った。
昨夜の社交界の計算された笑みとは違う笑みだった。
「まあ、私が知ったって、もうどうしようもないけれど」
彼女は扉の方へ一歩向かった。
そして振り返った。
「最後に一つだけ、教えて」
「……はい」
「ファルザード様のこと、本当に好きだったことはあるの?」
レネはしばらく考えた。
「……分かりません」
「そう」
「父に言われて婚約した方でした。私、ずっと父の言うとおりに動いてきましたから」
ベアトリスは頷いた。
「私もよ」
そう言って彼女は目を伏せた。
「父が仕組んだ婚約で、父に勝つためにあなたから彼を奪った。結局、父の商会は潰れた。私、何を勝ち取ったのかしら」
その問いはレネに向けたものではなかった。
ベアトリスは自分に聞いていた。
レネの胸の奥が一瞬、ぎゅっと軋んだ。
(この人も、父親の駒だった)
(花を編まれた側の人間も、編む前は誰かの道具だった)
それだけ言ってベアトリスは出ていった。
応接間の扉が静かに閉まった。
レネはしばらくそのまま立っていた。
扇を胸に当てたまま目を伏せた。
(怖い人ね、か)
レネは小さく自分に向けて呟いた。
翌朝、イェミルが屋敷を訪ねてきた。
予告はなかった。
けれどレネはどこかで今日、来ると思っていた。
「お邪魔してもよろしいですか」
イェミルはいつも最初にそう言う人だった。
「どうぞ」
二人は書斎に入った。
イェミルは壁の植物図鑑を一瞥し、低く頷いた。
「素晴らしい蔵書ですね」
「父のものです」
「お父様は偉大な方でした」
イェミルはそう言って椅子に座った。
机を挟んで二人は短く沈黙した。
イェミルはコートの内ポケットから古い便箋を一枚取り出した。
「実は、お伝えしたいことがいくつか」
「はい」
「ル・ヴィア伯爵家とカドラ商会は、今朝までに主要な証拠を押収されました。近日中に正式な処分が発表されます」
「承知しました」
「それから、お父様の三年前の論文は、今回の摘発の決定的な証拠となりました」
レネは息を呑んだ。
「論文はお父様が失踪される直前に、花園の金庫に預けられていました。私が三年間お預かりしておりました」
「父は、自分で金庫に預けたのですか」
「はい」
イェミルは頷いた。
「お父様はご自身の身に何か起きることを予期されていたようです」
レネは両手を膝の上で握った。
指先が白くなった。
イェミルは便箋を差し出した。
「論文と一緒にこれも残されていました」
便箋には父の字で三行書かれていた。
『娘のレネ・アルモニアが、いつか花の言葉で何かを告発してきた時。
それを真剣に読んでください。
彼女が花を使う時、必ず真実の側に立っています』
たった三行。
けれどレネはその三行を何度も読んだ。
一度目は文字を追うだけだった。
二度目は父の声で聞こえた。
三度目で涙がぽたりと便箋に落ちた。
「あ、……」
レネは慌てて袖で便箋を拭った。
「す、すみません」
目の奥が熱くなり、視界が滲む。
鼻の奥がじんわりと詰まり、声が鼻声になった。
こういう時、紳士的な人は聞かないふりをする。
けれどイェミルはそうはしなかった。
「お父様の字は、娘さんの涙で濡れるべきものです」
静かに彼は言った。
レネは顔を上げられなかった。
目の奥が熱くて扇でも隠せなかった。
イェミルは急かさなかった。
机の向こうでじっと待っていてくれた。
コートの釦を指先で一度なぞった。
緊張している。
この人もどうしていいか分からないまま、ここに座っている。
それが分かった。
レネがようやく顔を上げた時。
イェミルの目尻も少しだけ赤かった。
(この人も、泣いていた)
レネはその事実に妙に救われた気がした。
「……もう一つ、お伝えしたいことが」
イェミルは低く続けた。
「ル・ヴィア家とカドラ商会は、密輸の末端にすぎません。背後には隣国の組織がいます」
「隣国の」
「王家花園は今回の摘発を、その組織の尻尾を掴む契機と見ています。ですので……」
イェミルはほんの少し目を細めた。
「アルモニア嬢にもこれから、ご協力をお願いする機会があるかもしれません。お父様のお仕事を継いでいただく形で」
レネは何も言わなかった。
答えはもう決まっていた。
けれどそれを口に出すのは今日ではないと思った。
イェミルも答えを今日は待たなかった。
一礼し書斎を出ていった。
扉が閉まる音の後。
レネは父の机の前に座ったまま、しばらく動かなかった。
窓の外で午後の光が、書棚の背表紙をゆっくりと照らしていた。
三年、止まっていた時間が静かに動き始めていた。
第四章 庭の呼吸
一週間後、正式な処分が発表された。
ル・ヴィア伯爵家は爵位剥奪。
ファルザードは辺境の修道院送り。
カドラ商会は解体。
ベアトリスは領地の片隅へ追放。
裁きは淡々と下された。
社交界は一週間ほどその話題で沸き、やがて静かに次の噂に移っていった。
新聞には「匿名の告発」によって内偵が始まった、とだけ書かれた。
告発者の名はどこにも出なかった。
王家花園が告発者を守ってくれていた。
レネは新聞を書斎の机に置いて深く息を吐いた。
(お父様、表に立たなくて済みました)
(お父様の教えてくださった通りに、裏から動けました)
花の賢者一族は決して表には出ない。
花を読む者は花の奥にいる。
それが父の最後の教えだった。
五月の終わりの、陽の長い夕方。
レネは屋敷の庭に出ていた。
矢車菊の畝の前でしゃがみ込み、枯れた葉を指先で一枚ずつ摘んでいた。
土の匂いがした。
夕方の少し湿った重たい土の匂い。
レネの指先は土で黒く汚れていて、エプロンの裾にも土の跡がついていた。
舞踏会の白い手袋ではなく、土のついた素手。
扇ではなく園芸用の小さな鋏。
父がいた頃、レネは庭で父の後ろ姿を追いかけて、草の取り方を覚えた。
あの時の手触りが今、指先に戻ってきていた。
門の方で馬車の止まる音。
ジェロムが来客を告げに来た。
「お嬢様。イェミル様がお見えですが」
「お通しして、ジェロム」
レネは立ち上がりエプロンで手を拭いた。
指先の土は完全には落ちなかった。
それでいい、と思った。
イェミルは書斎ではなく庭に直接入ってきた。
片手に一枚の紙。
紙の端は少し黄ばんでいた。
古い紙。
一年ほど前のものだろう。
「アルモニア嬢」
イェミルはそう呼んで紙を差し出した。
「これは、以前あなたが学院で描いた花の素描です」
レネは紙を受け取った。
受け取った時、指先が一瞬触れた。
イェミルの指は思ったより冷たかった。
いや、冷たかったのはレネの手の方かもしれない。
土と夕方の外気でレネの手が冷えていた。
そのことにレネが少し顔を赤くした。
「……これ」
レネは素描を見下ろした。
矢車菊を途中まで描いた絵。
花弁を半分だけ、葉はまだ影もつけていない、未完の絵。
一年ほど前、学院の公開講義で提出しようとして結局やめて、屑箱に捨てたはずの一枚。
「どうして、これを」
「あなたが書き損じの素描を、いつも講堂の屑箱に捨てていらしたので。私、全部拾っていました」
イェミルは少しだけ目を伏せた。
照れていた。
(……この人、照れるんだ)
レネは初めてこの人の人間らしい一面を見た気がした。
社交界の男たちの堂々とした照れ方ではない。
不器用で、隠しきれていない、子供のような照れ方だった。
その照れ方が妙に愛おしく感じた。
「なぜ全部、拾っていらしたの」
「花の血筋を引く者の描いた花は、描き手の情がそのまま紙の上に残ります」
イェミルは庭の矢車菊に目を向けた。
「アルモニア嬢の素描は、どれも途中で筆が止まっていました」
「……」
「つまりあなたはずっと、花と対話するのをやめていらした。お父様を亡くしてから一度も、完成させた素描をお持ちではない」
レネは素描をもう一度見下ろした。
確かに途中で止まっていた。
矢車菊の花弁を半分だけ描き、葉はまだ影もつけていない。
なぜこの絵を描いたのか、当時の自分に聞いても多分答えられない。
ただ描きたかった。
それだけだった。
「この絵の続き、見せていただけませんか」
イェミルが静かに言った。
「今日でなくても、いつでも。あなたがもう一度、花と対話できるようになった時で」
レネは絵を胸に抱えた。
温かかった。
紙なのに温かかった。
父がいた頃の温度だった。
「……はい」
レネは頷いた。
「描きます」
イェミルは微笑んだ。
初めて見るイェミルの微笑みだった。
口の端をほんの少し上げるだけの、控えめな微笑み。
けれどその微笑みで庭の空気が一段柔らかくなった気がした。
その日、イェミルが帰った後。
もう一通の知らせが屋敷に届いた。
王家花園、正式な招聘状。
『アルモニア家の血を継ぐ者として、花の賢者顧問の席を貴女にお願いしたい』
王家の封蝋。国王直筆の署名。
父が座っていた席を娘に継がせたい、という内容だった。
レネは書斎の机に招聘状を広げた。
長くそれを見つめた。
(お父様の席を、私が継ぐ)
胸の奥で静かに声がした。
まだ早いと思った。
父はまだ本当には戻っていない。
席を継ぐのは、父を送り出してしまうことに似ていた。
庭の方から風が入ってきた。
矢車菊と土と夕方の空気の混じった、深い匂い。
レネは招聘状の上にそっと手を置いた。
(お父様が帰ってくるまで、私が庭をお守りします)
第五章 呼ばれる血
招聘状への返事を書いたのは、翌日の夕方だった。
レネは王家花園宛ての正式な手紙に一言書いた。
『謹んでお受けいたします』
それだけだった。
父の代の顧問は長い書面で決意を述べたと聞いている。
けれどレネは多くは語らなかった。
花の賢者一族の言葉は短い方が届く。
父がそう教えてくれた。
手紙を封筒に入れ、蝋で封をした。
封蝋の紋章は蔦と花の絡まった一族の印。
父が使っていた古い封蝋の印。
手紙を郵便受けに入れようと玄関に出た、その時、門のあたりに一通の封書が落ちていた。
誰かが置いていったらしい。
馬車の跡もなく、足音も聞こえなかった。
レネは封書を拾い上げた。
差出人の名はない。
けれど封蝋を見て、息が止まった。
蔦と花の絡まった一族の印。
父が使っていた古い封蝋の印。
父以外使える者はいないはずの印だった。
レネの指が震えた。
震える指で封を切った。
中には押し花が三枚。
一枚目、月桂樹。栄光。
二枚目、ライラック。若き日の思い出。
三枚目、青い罌粟。
(……青い罌粟)
レネは息を詰めた。
青い罌粟の花言葉は、一族の図譜にしか載っていない特別なものだった。
『真実を告げる』
三つを並べて読めば一つの文章になる。
『栄光の記憶と、真実を』
レネは押し花の裏を見た。
一枚の薄い紙が貼り付けてあった。
父の字だった。
見間違えようがなかった。
三年、毎晩読んできた父の字だった。
二行だけ。
『まだ庭を枯らすな』
『私が帰る日まで』
レネは封書を胸に抱いたまま、玄関の石畳にしゃがみ込んだ。
石畳は冷たかった。
けれど胸の中の封書は温かかった。
ほんの少しだけ父の体温が残っているような気がした。
(お父様)
レネは声に出さずに呼んだ。
(生きていらっしゃるのですね)
返事はなかった。
庭の矢車菊が夕暮れの風に揺れていた。
けれど風の中に微かに、温室の青い罌粟の蕾の匂いがした気がした。
気のせいかもしれなかった。
それでもレネは信じた。
信じるために三年、庭を枯らさずにきたのだった。
「ジェロム」
レネは立ち上がって老人の名を呼んだ。
「はい、お嬢様」
いつの間にか玄関の脇にジェロムが立っていた。
この人はいつもこう。
必要な時にそこにいる。
「図譜を一番下の段に戻しておいてください。この手紙と押し花を挟んで」
「承知いたしました」
ジェロムは封書を両手で受け取った。
そして一度だけレネの顔を見た。
老人の目も少しだけ赤かった。
この人も三年、父の帰りを信じて待っていたのだ。
レネは何も言わなかった。
言葉にしたらまた泣いてしまうから。
ジェロムは無言で書斎へ戻っていった。
背中がほんの少し軽く見えた。
レネは玄関を出て温室へ向かった。
暮れ始めた空に一番星がひとつ出ていた。
温室の奥の棚。
父が植えた一株の青い罌粟の苗。
三年、葉だけで生きてきた株に、今夜、蕾が一つ膨らんでいた。
明日か明後日には開きそうだった。
レネは蕾に指先をそっと触れた。
冷たくて少しだけ湿っていた。
(お父様が帰る合図ですね)
蕾は答えなかった。
ただ三年ぶりに膨らんでいた。
温室を出て屋敷に戻った。
書斎の机の上に、王家花園への返事の封書が置いたままになっていた。
レネはそれをもう一度手に取った。
封を開け直した。
返事の紙にもう一行書き足した。
『花の賢者一族の血は、呼ばれて応えます』
父の最後の教えをそのまま引いた。
封を閉じ直した。
そして郵便受けに落とした。
ことり、と音がした。
風が吹いた。
温室の方から微かに、青い罌粟の蕾の匂いがしたような気がした。
了
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