少年ジャイアンツ MLB選手 メル・オット(1909-1958)
日本と違ってメジャーリーガーには背番号4の名選手が多い。最も有名なのは”鉄人”ルー・ゲーリッグだが、それに続くのがメル・オット(ジャイアンツ)、デューク・スナイダー(ドジャース)、ラルフ・カイナー(パイレーツ)あたりだろうか。いずれ劣らぬ長距離打者で全員本塁打王のタイトルを獲得しているが、この中で十代の若さで三割を打ちチームの主力打者として活躍したのはオットだけである。
一本足打法というと、巨人の王貞治の専売特許の感が強いが、その元祖とでもいうべき打者がメジャーにもいた。その選手の名はメル・オット。アメリカの巨人軍で王と同じく二十二年の選手生活を一度も移籍することなく全うし、監督も務めた殿堂入りの名一塁手である。
オットの一本足打法は、王のように打席で右足を高く上げたまま制止するいわゆる「フラミンゴ打法」とは異なり、右足は前方に伸ばすように上げ、グリップは右膝の下まで下げる。そこから投球と同時にゴルフのスイングのようにバットを後方に高く引いて振り下ろすという変則打法である。
木こりが斧を振り下ろすような動作であることから「トマホーキング」とも呼ばれたこの打法は、同じ一本足でもイチローの「振り子打法」に近い。
「振り子打法」は投球動作に足の上下動をシンクロさせ、球筋を見極めてからスイングを始めるため、重心の移動が大きい半面、タメが作れるぶん緩急にも順応しやすいという利点がある。
もちろん、球をぎりぎりまで引きつけて打つからには相当なスイングスピードが要求されるうえ、バットより身体が先に前に出ることにより目線が大きく動くのを修正しなければならない。ゆえに「振り子打法」を真似る選手は少なく、この打法でひとかどの成績を残せたのはイチローの他には一年目新人の最高打率、三割二分七厘を記録した坪井智哉(阪神)くらいしかいない。
しかし、元祖のイチローにしても変化球への対応を主眼に置いた「振り子打法」ではメジャーのパワーピッチャーの球威には太刀打ちできないという理由で、マリナーズ入団後は「振り子打法」を捨てている。
ところが、一七五センチ、七十七キロとほぼ王と同体格のオットは、メジャーリーガーとしては小柄であるにもかかわらず、この打法のままで五一一本もの本塁打を量産したナ・リーグ有数の長距離打者だった。
オットがこれだけ長打を打てたのは、イチローよりもバックスイングが大きく、ドライバーショットのような打ち方をしているからだ。
振りが大きくてもスイングスピードの速さ、バットコントロール良さが抜群だったので、空振りが少なく、三振の数もシングルヒッターであるイチローとほとんど変わらなかった。
ただし、バットコントロールの良さゆえにイチローが難しい球にも手を出して安打にしてしまい、四球を選ぶことが少なかったのとは逆に、オットは選球眼が優れていたため、無理に当てにゆこうとはせず、四球を選ぶことも多かった。そのため、二十二年間の選手生活で通算打率三割四厘をマークしているにもかかわらず、三千本安打には届かなかった。
その代わりに出塁率は非常に高く、通算打率では彼の上をゆく同時代の長距離打者、チャック・クライン、ジョー・ディマジオ、ハンク・グリーンバーグをも凌ぐ。
オットは十代の頃から別格だった。セミプロからマイナーを飛び越えてニューヨーク・ジャイアンツとメジャー契約を結んだのが十六歳の時で、十七歳の若さでメジャーデビューを果たしている。
オットの所属していたセミプロチームの監督が、「球界のナポレオン」と謳われたジョン・マグローの親友だったことが彼の人生を変えたのだ。マグローの親友からのお墨付きをもらったオットは、マグローの目にも叶い、控え選手の時代もベンチでは監督の横に座らされ、英才教育を受ける恩恵に属した。
このあたりは新人時代から三原脩にセンスを買われ、将来の監督候補として指導を受けた仰木彬のケースとよく似ている。
一九二六年、十七歳のオットは出場三十五試合で三割八分三厘とマグローの期待どおりの活躍を見せ、「ボーイ・ワンダー(驚異の少年)」として注目を浴びた。
翌一九二七年五月二十四日には十八歳という若さで初めてスタメン三番に起用され、三試合十一打数四安打二打点と結果を残した。この年までは準レギュラークラスだったが、一九二八年にはついに四番に昇格した。それも驚くべきことに、三割二分二厘、十八本塁打、七十三打点という素晴らしい成績で、十代の選手としては一九〇六年のタイ・カップ(三割一分六厘、一本塁打、三十四打点)以来の三割打者となった。
日本球界とは比べ物にならないほど選手層の厚いメジャーで十九歳二ヶ月にして四番を打ち、史上二番目の若さで一試合二本塁打(十九歳七十七日・当時はMLB記録)、年度を通してクリーンナップとして及第点の成績を収めることができたのは二十世紀以降の近代野球ではオットが唯一の例である。まさに天才少年というほかはない。
一九二九年度ナ・リーグの本塁打王争いは、終盤まで稀に見る三つ巴の大混戦が続き、大いに盛り上がった。
前年まで三年連続本塁打王のハック・ウィルソン(カブス)が本命視される中、二年目のチャック・クラインがルース以来の年間五〇本ペースで打ち続けたため、七月末には本塁打王はクラインで決定かと思われたが、意外にも八月の声を聞いたとたんにスランプに陥り、一ヶ月も音無しが続いた。
その間に本命ウィルソンが着実なペースで本塁打を積み重ねてゆく一方、八月十日に史上最年少で三〇本塁打に達した弱冠二十歳のメル・オットも果敢に追い上げ、八月二十九日にはクライン、ウィルソン、オットが三四本で横一線に並んだ。
八月三十日に久々の三五号を打ったのを機にスランプを脱出したクラインは、そこから四日で四本の固め打ちで引き離しにかかったが、ウィルソンもしぶとく九月十一日まで三八本で並走した。
本塁打王争いはクラインとウィルソンの二人に絞られた、と誰もが思い始めた九月下旬、オットが一気にまくり、九月二十四日のダブルヘッダーで二本打ったところでオット四二本、クラインとウィルソンが三九本となった。
打たれたら打ち返すクラインはその翌日のダブルヘッダーで二本、二十七日にも一本打って、オットに追いついた。
フィリーズのシーズン最後の三試合はオットのいるジャイアンツとの三連戦だった。
クラインの四十三号は二戦目に出た。一発を意識しすぎたか、クラインは三連戦十三打数一安打だったが、その一本が初タイトルへのチェックメイトとなった。
逆にオットは八打数三安打と全ての試合で安打を放ったが、四球が六個もあり、フィリーズ投手陣が徹底して勝負を避けた感は否めない(十月五日には一試合五敬遠)。
ジャイアンツはこの三連戦の後も一試合残っていたが、オットは四打数二安打で本塁打は打てず、無冠に終わっている。
それでも二十歳で三割二分八厘、四二本塁打、一五一打点というのは、二十一歳で三割二分三厘、三一本塁打、一四五打点を記録した「天才」テッド・ウィリアムズでさえも及ばない素晴らしい記録である。
同年五月二十六日のブレーブス戦ではMLB史上最年少となる二十歳でのサイクルヒット、翌月はハンク・グリーンバーグと並ぶ六月の月間打点記録四十七を挙げている。
一方で喫した三振数わずか三十八個で四〇本塁打というのは穴が少ないことの証でもあり、それでいてホームから右翼まで八十メートルしかなく、圧倒的に左打者有利なポログラウンドでも全くハンデを感じさせない飛距離を誇っていた。
また、一塁守備も一流で、二十歳の若さでこれだけ全てが揃った選手は現在に至るまで現れていない。
入団以来、マグローの秘蔵っ子としてエリート街道を歩んできたオットは、一九四二年には三十三歳の若さでプレーイング・マネージャーに就任した。二束のわらじにもかかわらず三〇本塁打で六度目の本塁打王に輝くとともに(得点数もリーグ1位)、チームのAクラスも死守している。
しかし、その後はチーム成績が振るわなくなったため、一九四六年からは監督業に専念することになったが、結果が出せずに一九四八年のシーズン途中で解任された。
監督兼四番一塁手として陣頭指揮していた一九四五年でも三割八厘、二一本塁打、七九打点とほとんど衰えを見せていなかっただけに、一選手としてプレーし続けていれば、メジャーでもハンク・アーロンしかいない生涯打率三割、三千本安打、二千打点は堅かったと思われる(三千本安打、二千打点はアレックス・ロドリゲスとアルバート・プホルスも達成しているが、両名とも打率は三割を切っている)。
監督解任後は、往年の大エース、カール・ハッベルらともにマイナー行きの悲哀も味わった。日本であれば金田正一と長嶋茂雄を二軍に落とすようなものである。メジャーはたとえ生え抜きのエリート選手でさえ、戦力として見限られてしまうと容赦なく切り捨てられる。
監督としてはお呼びがかからなかったオットはスポーツアナウンサーに転身したが、四十九歳の若さで交通事故で他界した。
生涯成績'304 511本塁打 1860打点 2867安打(本塁打王6回 打点王1回)
メジャーの選手としては小柄なオットが500本ものホームランを打てたということは、メジャーでホームランキングになるためには何もジャッジや大谷翔平のような体格が不可欠というわけではないということになる。そう考えると全盛期の王や長嶋ならメジャーでも十分通用したかもしれない。




