婚約破棄は承りました。引き継ぎ書は残しましたが、省略したら王国が傾いたようです
◇ 第一幕 ◇
「クラリッサ、お前は地味で華がない。王妃には相応しくない」
夜会の大広間に、エドヴァルト殿下の声が響いた。
シャンデリアの灯りがグラスに反射して、ちらちらと揺れている。周囲の貴族たちが息を呑む気配を、私は不思議なほど穏やかに受け止めていた。
ああ、またか。
前世でも同じだった。十年間、社長の代わりに企画書を書き、取引先を繋ぎ止め、売上の柱を一人で回していた。それなのに最後に言われたのは「君の代わりはいくらでもいる」。
そして過労で倒れて、目が覚めたらこの世界の公爵令嬢になっていた。
「——左様でございますか」
私は微笑んだ。完璧な、秘書の微笑みで。
「承知いたしました。では、引き継ぎの準備をさせていただきます」
泣くと思ったのだろう。縋ると思ったのだろう。殿下の隣で勝ち誇っていたメリッサ嬢が、拍子抜けした顔をしている。
周囲がざわめく中、私は静かにその場を辞した。
翌朝。王太子の執務机の上に、三冊の革装丁の書物を置いた。
『引き継ぎ書 第一巻:外交編』
『引き継ぎ書 第二巻:魔法結界編』
『引き継ぎ書 第三巻:財政編』
表紙の裏には、こう記した。
「お困りの際はどうぞお使いくださいませ。きっとお役に立てるかと存じます」
——クラリッサ・フォン・ヴァイスベルク
そして各巻の最終ページに、小さく。
「※ ただし、手順通りにお進みくださいませ。省略されますと、少々……いえ、大変なことになるかもしれません」
退職届と引き継ぎ書は同時に出す。それがプロの辞め方だ。
前世でも、今世でも。
◇ 第二幕 ◇
辺境の実家に戻った私は、父の領地経営を手伝い始めた。
薬草畑の灌漑に魔法陣を組み、収穫予測の計算式を整えた。小さな仕事だったけれど、初めて「自分の名前で出す仕事」ができて、胸の奥がじんわりと温かかった。
一方、王都からは不穏な噂が次々と届いた。
まず外交が傾いた。
隣国ヴァルディア帝国との交渉で、メリッサ嬢が「こんな回りくどい手順は不要ですわ」と引き継ぎ書の手順を飛ばしたらしい。結果、ヴァルディアの外交官の逆鱗に触れ、貿易条件を大幅に引き下げられたという。
次に結界が綻びた。
王都の防衛結界は毎月六十工程のメンテナンスが必要だった。全て私が組み上げたものだ。宮廷魔術師が「半分で十分だろう」と省略した結果、結界に穴が開き、魔獣が王都近郊の村を襲った。
そして——結界の修復に駆けつけた魔術師たちが、異変に気づいた。
結界の魔法陣に、淡い紫色の紋章が浮かび上がっていたのだ。
ヴァイスベルク公爵家の紋章。
私の、署名魔法。
「……この結界、全てあの方が組んでいたのですか?」
署名魔法というものがある。魔法を行使すると術者の魔力紋が刻まれる。普段は見えないが、術者が効力範囲を離れると——浮かび上がるのだ。
王宮の外交文書に。防衛結界の術式に。財政計画の魔法台帳に。
至る所に、私の紋章が咲いていた。
◇ 第三幕 ◇
崩壊は加速した。
大蔵卿が引き継ぎ書の財政編を開き、「もっと簡単にしよう」と税率の調整表を弄った。
私が組んだ税制は、七つの領地の特産品と流通経路と季節変動を全て噛み合わせた精密な歯車だった。一つ外せば、連鎖的に全てが狂う。
三ヶ月後、穀物の価格が暴騰した。民が飢え始めた。
引き継ぎ書の最終ページが、ようやく読まれたと聞いた。
「※ 省略されますと、少々……いえ、大変なことになるかもしれません」
——最初から書いてあっただろう。
私がそんな噂を耳にしていた頃、辺境に一人の来客があった。
「失礼。クラリッサ・フォン・ヴァイスベルク嬢だな」
銀灰色の髪に、冬の湖のような瞳。ヴァルディア帝国宰相、アレクセイ・ヴォルフハルト。若くして大国の政治を束ねる天才だと聞いている。
「ランシュタインとの外交交渉で、一つだけ不思議なことがあった」
彼は庭の薬草畑を眺めながら、静かに言った。
「あの国の提案書は、ある時期から急激に——質が落ちた。いや、正確に言おう。ある時期まで、別格の人間が書いていた。……あなただろう?」
「……気づいていらしたのですか」
「提案書の構造が、あの王太子の知性で作れるものではなかった」
あまりにも率直な物言いに、思わず笑ってしまった。
「うちに来ないか」
「……は?」
「ヴァルディア帝国の宮廷顧問として。あなたの能力が必要だ」
真っ直ぐな目だった。値踏みではなく、純粋な敬意が込められた目。
前世でも今世でも、そんな目で見られたのは初めてだった。
◇ 第四幕 ◇
ヴァルディア帝国で宮廷顧問の職に就いてから、半年が経った。
自分の名前で提案書を出し、自分の名前で成果を認められる。それがどれほど心地よいことか、以前の私は知らなかった。
アレクセイとは毎日のように仕事の議論を交わした。彼は私が組んだ魔法陣を見るたびに、無表情な顔のまま目だけを輝かせる。
「……この変数処理の最適化、美しいな」
「褒めても何も出ませんよ、宰相閣下」
「いや、出る」
少し間があって、
「——俺の心拍数が上がる」
「……仕事中ですので」
耳が熱いのを誤魔化すように、書類に目を戻した。
そんな穏やかな日々を破ったのは、表敬訪問という名目でやってきたエドヴァルト殿下だった。
「クラリッサ。戻ってきてくれ」
かつての婚約者は、疲弊しきった顔をしていた。
結界は崩壊寸前、財政は破綻、隣国との関係は冷え切っている。王都の至るところに浮かぶ私の紋章が、真実を突きつけ続けている。
「お前が必要だ」
「殿下。引き継ぎ書は、お読みになりましたか?」
「……」
「お読みになっていないのですね」
私は微笑んだ。
「——存じておりました」
あなたは読まない人だから。前世の社長と同じように。有能な人間が何をしていたかなんて、興味がないのだから。
「なぜだ!お前は俺の婚約者だった——」
「『でした』。過去形ですわ、殿下」
隣に、アレクセイが立った。
「彼女は今、ヴァルディア帝国の宮廷顧問だ。ランシュタインに返すつもりはない」
殿下の顔が、歪んだ。
◇ 第五幕 ◇
殿下が帰った後、執務室の窓から夕焼けを眺めていた。
「後悔はないのか」
アレクセイが、紅茶を二つ持って現れた。
「ありません。引き継ぎ書は、完璧に書きましたから」
「……あれは罠だったのか?」
「まさか。本当に丁寧に書いたんですよ」
紅茶を受け取りながら、私は肩をすくめた。
「ただ、手順を省略する人には使いこなせないだけです。私のせいではありませんわ」
アレクセイが小さく笑った。彼が笑うのは珍しい。
「お前のそういうところが好きだ」
「……急ですね」
「ずっと言おうと思っていた。——俺は有能な提案書に惚れたんじゃない。それを書いた人間に惚れたんだ」
窓の外で、ヴァルディア帝国の夕陽が赤く燃えている。
前世では見られなかった景色だ。誰かの影に隠れていた私には。
「……宰相閣下」
「アレクセイでいい」
「では、アレクセイ様。一つだけ約束してくださいますか」
「何だ」
「もし私が辞めることになっても——引き継ぎ書は、ちゃんと読んでくださいね」
彼は目を丸くして、それから声を立てて笑った。
「読む。一字一句な」
——完璧な引き継ぎ書を残すこと。
それが前世でも今世でも、私の最後の優しさだった。
もっとも、その優しさを受け取れる人間が、あちらにはいなかっただけの話だ。
ここには、いる。
(了)
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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