08話
現在、紅とアノは奴隷の洞窟を脱出し、近くの山中を進んでいた。
空は次第に赤みを失い、木々の隙間から見える空も暗くなり始めている。
紅は足を止め、空を見上げて小さく息を吐いた。
「……明日に出発でも良かったかもしれないわね」
それにアノは首を振る。
「確かに暗くなるのは早いですけど……でも、あの洞窟に留まっていたら、戻ってきた人達に見つかって、またどこかへ連れて行かれるかもしれません。出てきて正解だったと思います」
紅は少し考え、静かに頷いた。
「……そうね。捕まるよりは、夜の山の方がまだましね」
やがて完全に日が沈み、辺りは月明かりだけになった。
これ以上進むのは危険だと判断した紅は、周囲を見回す。
「……今日はここで野宿するしかないわね。暗闇を歩けば、何に襲われるかわからないし」
ふと、巨大な木の根元に目が留まる。
幹の一部がえぐれ、人が一れるほどの穴になっていた。
「幸い、いい場所があるわ。あの木の中なら、外からも見えにくい」
「はい。では、先に火を起こしましょう」
二人は周囲から乾いた枝や枯れ葉を集め、洞窟で見つけていたマッチを使って火を灯した。
小さな炎が揺れ、冷え始めていた空気をわずかに温める。
簡単な食事を取りながら、紅はふと思い出したようにアノを見る。
「ねえアノ。ここがどこなのか、分かる?
私は……記憶がないから、何も分からないの」
アノは少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「……分かりました。少し長くなりますが」
アノの話によると、ここはゼカルト国という小国で、二人が閉じ込められていた洞窟は国の端に位置しているという。
王都までは馬車を使っても一か月以上。
この山を越えれば、小さな集落がいくつかあり、まとまった情報を得るには王都近くの大都市に行く必要がある――。
話を聞き終え、紅は静かに頷いた。
「……結局、調べるならその大都市に行くしかないのね。もしかしたら、そこに行く途中でクリルトンのことも分かるかもしれない」
考え込む紅の表情を見て、アノが声をかける。
「紅……何か思い出しました?」
「あ、ううん。何も。ただ……アノを元に戻すには、情報が必要だなって」
「……そうですね」
紅は微笑み、アノの肩に手を置いた。
「大丈夫よ。私が絶対に戻すって言ったでしょ」
「……はい」
二人は巨大な木の幹の穴へ入り、身を寄せ合うようにして横になった。
その場所は外から見えにくく、身を隠すには最適だった。
どれほど時間が経ったのか。
紅は隣から聞こえる、苦しげな声で目を覚ました。
「……あが……体が……気持ち悪い……いや……やだ……」
アノが身をよじり、苦しそうに呻いている。
その身体が、僅かに変化し始めているのが分かった。
紅は反射的にアノを抱きしめた。
「アノ! しっかりして! 意識を保って!大丈夫、貴方は人間よ!」
「いや……やだ……化け物に……なりたくない……紅、助けて……」
アノは必死に紅に縋りつく。
「大丈夫、大丈夫だから……落ち着いて……」
その瞬間、紅の背中に鋭い痛みが走った。
変化しかけたアノの爪が、紅の背中を裂いていた。
「……紅?」
アノは我に返り、手を見る。
爪は赤く染まっていた。
「……ごめん……ごめんなさい……私……落ち着くまで……外に……」
泣きながら離れようとするアノを、紅は再び抱きしめる。
「だめ。外に行かなくていい。私は大丈夫だから。こんな傷、平気よ」
「でも……」
「アノの苦しさに比べたら、どうってことないわ」
紅は優しく頭を撫で続けた。
しばらくすると、アノの呼吸が落ち着き、手も元に戻っていく。
「ほら……元に戻った。大丈夫だって言ったでしょう?」
「……ごめんなさい……」
アノは堪えきれず紅に抱きつき、声を上げて泣いた。
やがて泣き疲れ、そのまま眠りに落ちる。
紅はそっとアノを横に寝かせ、自分も横になる。
「……これからも、こうなるのかもしれないわね。どうすれば防げるのか……考えないと……」
背中の痛みを我慢しながら、紅も眠りについた。
翌朝。
アノは目を覚ました。
「……昨日……紅に助けられた…………ごめん……」
紅の方を見るが、そこに姿はない。
代わりに、地面には血の跡が続いていた。
「……これ……私の……?」
慌てて外へ出ると、近くの川で紅が傷を洗っていた。
「……紅」
「アノ。起きたのね」
「……傷……ひどいですか……?」
「大丈夫よ。ちょっと痛いだけ」
アノは紅のそばに跪く。
「……ちゃんと洗えてません。私がやります」
血を丁寧に洗い流しながら、アノは唇を噛みしめる。
(私が……私が傷つけた……)
泣きそうになるのを必死に堪えながら、
アノは何度も何度も水をすくい、紅の背中を洗い続けたのであった。




