37、双極の白――擬態する絶望
テサロンの秘められた過去が語られ、宿屋の一室に静かな余韻が漂う。すべてを聞き終えた紅は、膝の上で握りしめた手に力を込め、絞り出すように呟いた。
「……そんなことが、あったのですね」
語り終えたラミは、窓の外に広がり始めた薄明の空を仰いだ。
「さて、話も終わったし、夜が明けそうだから一度休みましょうか。また起きてから訓練をしましょう」
ラミが場を締めくくり、部屋を後にした。一人残された紅は、夜明け前の静寂の中で、遠く離れた友を想った。
「……アノ。待ってて。必ず見つけ出して、もう一度一緒にいるから」
紅は、固い決意を胸に深い眠りにつくのであった。
一方、その頃のアノは、三角帽子の人物との凄絶な死闘を終え、ようやく元の姿へと戻っていた。しかし、待っていたのは肉体を苛む激しい反動だった。
「……ここは? 私、確か洞窟にいたはずなのに。ぐ、うあああッ!」
全身を駆け抜ける、焼けるような激痛。魔物への変身を繰り返した代償が、牙を剥いて彼女の細い体を蹲らせる。
「この、痛み……またなったんだ。……もう、本当に化け物に近づいてる。嫌だ、私は……人間だよ……紅……」
震える声で友の名を呼ぶ。その時、上空から突如として一人の影が舞い降りた。重い着地音と共に現れたその人物を、アノは痛みに耐えながら鋭く睨みつける。その人物は、アノを見るなり無機質に呟いた。
「懐かしい感じがしたけれど、人違いか。それに、見たところ貴方も『混ざっている』のね」
「……混ざってる? 貴方は何か、何か知っているのですか?」
「そっか、貴方は知らないのね。知らない方が良いこともあるよ。知ったら絶望するかもよ?」
「……知らないといけないのです。私が……魔物に変貌してしまう理由を。そして、人間に戻る方法を!」
必死なアノの訴えを聞き、その女性は冷たい光を宿した瞳を細めた。
「貴方も私と同じで、作られた存在かと思っていたけれど……少し違うみたい。けれど、どうかな? 私と一緒に世界を壊さない? そんな理不尽な扱いを受け、さぞ絶望しているでしょう。一緒に壊そうよ。私はね、そういった非道が行われている場所をすべて破壊して回っているの」
アノは、目の前の女性が放つ圧倒的な魔圧と、その白の髪からある名を思い出した。
「……何を言っているのです? って、その白髪……もしかして、白髪の厄災、オルン?」
「厄災って……それは人間たちが勝手に付けた名。私はその人間たちに勝手に作られた存在。身勝手だと思わない?」
「作られた……存在?」
「知らないのも無理はないわ。人間たちはそれを公開なんてできない。反感を受けるのが分かっているからね。……さて、どうする? 私と共に破壊の道を行くか、それとも私と敵対するか」
アノは考え、絞り出すように言葉を発した。
「私は……それには従えない。そんなことをすれば……紅が悲しむ。だから、従えない!」
その瞳に宿る意志を見た瞬間、オルンの脳裏にかつて自分に手を差し伸べたテサロンの姿が重なった。オルンは苦しげに一度目を瞑り、そして冷徹に言い放った。
「そう。なら、今ここで貴方の命を貰うわ。……絶望し、完全に壊れてしまう前にね」
――刹那。
オルンの姿がかき消えた。神速を超える速度でアノの背後へ回り込む。
「さようなら」
オルンの腕が、抵抗する間も与えずアノの背後からお腹を貫いた。
しかし、次の瞬間。オルンは戦慄し、咄嗟に腕を引き抜いてその場を跳んで離れた。
引き抜かれたアノの傷口は、血を流す暇もなく肉が盛り上がり、瞬時に完治していく。それどころか、アノの体は異形の毛並みに覆われ、禍々しい妖気を放つ白い狐の魔物へと変貌し、オルンへ咆哮した。
「へぇ……離れるのが遅かったら腕を噛みちぎられるところだったわ。それに、凄い回復力ね。突き刺した際に心臓をも潰したというのに。……本当、私は自分のことを化け物だと思っているけれど、貴方はそれ以上の化け物ね」
「化け物」という言葉に反応したのか、狐の瞳が鋭く光り、鞭のようにしなやかで巨大な尻尾がオルンを襲う。オルンはそれを手刀一閃で斬り落としたが、切断面から即座に新しい尻尾が再生した。
「……驚異的な再生能力。今までに見たことがない事例ね。こんな個体がいつの間に、どこで作られたというの?」
オルンは呟き、その瞳に真剣な色が宿る
。
「仕方ない。本気を出すまでもないと思っていたけれど……」
呟きが終わるより早く、オルンは再び消失した。狐の眼前へと現れ、その額に優しく触れる。
「無に消え去れ」
掌から噴き出した漆黒の魔力が狐を包み込み、異形の獣は断末魔を上げながら消滅した――かに見えた。
だが、オルンは強烈な違和感に襲われ、再び全力でその場を離脱する。
しかし、一歩遅かった。
背後から迫った狐の尻尾がオルンの脇腹を掠め、肉を深く抉り取ったのだ。
「……っ、幻影を相手にしていることに気づかなかった。本当に、私が言うのもなんだけど化け物ね……」
そこへ、先ほどの二人の従者が戻ってきた。怪我を負ったオルンの姿を見て、色を失う。
「主様!!」
「オルン様! 貴様、よくもオルン様を……ッ!」
駆け寄る二人をオルンは手で制した。
「大丈夫よ、心配しないで。それよりも、一度撤退しましょう。既にあの女はこの場にいないわ。戦っている間に、本体は幻影を残して逃げたようね」
「追手を差し向けますか?」
「それとも私どもが向かいましょうか? あの女を……」
「別にいいわ。……いずれあの子も、こちら側を尋ねてくる日が近いでしょうから。あのまま行けば、狐の化け物に身体を乗っ取られるでしょうからね」
そう言い残し、オルンの姿は霧のようにかき消えた。
後には、古びた**「紙切れ」**が一枚、地面に落ちているだけだった。
アノは知る由もなかった。今戦っていたオルンの姿さえも、本物のオルンが作り出した「紙の擬態」に過ぎなかったことを。




