36、絶望の境界線――裏切られた信頼と「災厄」の誕生
「……離してよテサロン。私は、私を作り上げた世界を壊すの」
オルンの震える声に、彼女の手首を掴むテサロンの指先が白くなるほど力がこもる。
「そんなことを、させるわけないだろう! 師匠である俺が、お前を止めてやる!」
「私だって……! 私だって、こんなことしたくなんかない!! 私が……私が『化物』じゃなければ、こんなこと考えたくなかった! テサロンにもっと、もっと鍛えてもらいたかった……!」
大粒の涙を堪えながら叫ぶオルンの姿に、テサロンの心は締め付けられた。
「なら、いくらでも鍛えてやる。だからそんな考えは捨てろ! 俺は、お前が何者だろうと関係ない。お前は俺の弟子だ。だから、オルン……辞めて戻ってこい」
その真摯な言葉に、オルンの瞳にわずかな迷いと光が宿る。
「……戻っても、いいの……?」
オルンがその手を取ろうとした、その時だった。
――ジャラッ!!
空間から出現した無数の光り輝く鎖が、蛇のようにオルンの体に巻き付き、その華奢な肢体を地面へと叩き伏せた。
「そこまでだ、化物よ。貴様を危険と判断した。これより永久に封印する」
背後から現れたのは、重厚な装備を纏った数百の兵士たちと、冷酷な眼差しを向ける高官だった。彼らこそ、この地下で行われていた非道な実験の「真実」を知る者たちであり、証拠隠滅と兵器回収のために差し向けられた追手だった。
拘束の苦痛に喘ぎながら、オルンはテサロンを見た。その瞳から、最後の一滴まで信頼の光が消え去っていく。
「……テサロン? ……そっか、そういうことなんだね。ははは……私、騙されたんだね……!!」
彼女の目には、テサロンの説得が自分を縛り上げるための「罠」であり、時間稼ぎだったのだと映っていた。
「抵抗するなら容赦するな! その化物を力ずくで封じ込めろ!」
高官の非情な号令が、臨界点を超えていたオルンの心に火をつけた。
「……黙りなさい。私の世界を奪ったのは、貴方たちの方よ」
オルンが天に向かって右手を掲げ、耳を劈くような咆哮を上げた。それは人間には聞こえない、魔物を従える「王」の招集。
直後、空を覆い尽くすドラゴンの群れに加え、森の奥深くから地響きと共に無数の魔物たちが溢れ出した。
「なっ……なんだ、この数は!? 迎撃しろ! 構え――」
高官の命令が届く前に、戦場は屠殺場へと変貌した。
オルンの憎悪に呼応した魔物たちは、一切の容赦なく兵士たちを蹂躙した。重厚な鎧はドラゴンの爪に紙のように引き裂かれ、結界を張る魔術師たちは魔物の群れに飲み込まれて消えていく。
「やめろ……オルン! 止めるんだ!!」
テサロンが叫びながら飛び出そうとするが、彼の前には巨大な魔物の壁が立ちはだかる。
「テサロン、どけ! 俺も行くぞ……!」
重傷を負いながらも、ラミに支えられて無理やり立ち上がったバビが、震える手で槍を構え、途中からこの絶望的な戦いに加わった。だが、覚醒したオルンの魔圧と押し寄せる魔物の群れに、三人は防戦一方となり、彼女の元へ近づくことすら叶わない。
血の海の中で、オルンは無傷のまま、召喚した巨大な魔鳥の背へと静かに飛び乗った。
「……さようなら、テサロン。貴方のくれた優しさは、全部ここに捨てていくわ」
オルンは虚ろな瞳で一度だけ振り返ると、そのまま魔物の軍勢を引き連れて、燃え盛る村を後にした。
後に残されたのは、国が派遣した兵士たちの死山の山と、変わり果てた愛弟子の背中を見送ることしかできなかった三人の、絶望的な沈黙だけだった。
この日を境に、歴史は大きく動いた。
国の隠蔽工作により、村で行われていた非道な実験の事実は闇に葬られた。代わりに広まったのは、**「国に保護されながら恩を仇で返し、軍を壊滅させて逃亡した人型兵器の化物」**という歪められた真実。
オルンは「災厄の白髪」と名付けられ、全大陸が血眼になって捜索する史上最悪の大罪人として指名手配された。
テサロンはこの日以来、誰一人として弟子を取ることはなかった。
自分の差し出した手が、彼女を闇へ突き落とす最後の引き金になったという拭いきれない罪悪感。そして、目の前で教え子を救えなかった「神速」の無力さ。
それが、現在へと続くテサロンの消えない傷跡の正体であった。




