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記憶を消された女性  作者: ひろろん
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28、腐食の怪人と、始まりの過ち

 

 暗い洞窟の中、謎の人物――三角の麦藁帽子を目深に被った男は、足元でうずくまるアノの様子が急変したことに気づいた。


「おい、しっかりしろ。どうした?」


 男が屈み込み、アノの背をさする。しかし、その手は震える少女の拒絶にあった。


「嫌だ……やだ、やだ! 紅、助けて……助けてぇ!!」


 悲痛な叫びと共に、アノの体から爆発的な魔力が溢れ出す。骨格がきしみ、白い毛並みが広がり、瞬く間に彼女は理性を失った「白銀の狐」へと変貌した。


「ほう……人間が魔物に変貌するだと? これは稀有だ。研究素体として捕縛したいところだが……」


 男が興味深そうに観察する間にも、狐と化したアノは距離を取り、獣の瞳で男を睨みつけた。


「――ウゥゥゥ!!」


「困ったな。殺したくはないんだが……もし理性が残っているなら攻撃はやめておけ。手を出せば殺すよ?」


 男の警告は、今の彼女には届かない。狐は咆哮と共に無数の魔力球を出現させ、一斉に発射した。


 ズドォォォン!!

 爆煙が洞窟を揺らす。しかし、煙が晴れた先に立っていた男は、衣服一つ汚れていなかった。


 男は首をコキコキと鳴らし、無機質な瞳でアノを見据えた。


「仕方ない……始末する。悪く思うなよ」


 男の姿がかき消えた。

 アノが索敵しようとした刹那、激痛が走る。


「キャイーン!!」


 見れば、アノの片足がドロドロと黒く腐り落ちていた。腐敗は止まらず、肉を侵食していく。


「へぇ、即死毒のようなものだが、耐えるか。だがもう動けまい。そのまま腐り死ぬがいい」


 男が冷淡に見下ろす中、アノは狂気的な行動に出た。自ら腐り始めた足を食いちぎり、吐き捨てたのだ。

 そして、傷口を瞬時に再生させて立ち上がる。


「マジか。自切して腐食を止めたのか? ……だが、甘いな」


 男が指を鳴らすと、アノの体の至る所から黒い染みが浮き出し、全身が腐敗し始めた。

 アノは力なく崩れ落ちる。


「睨んだところで無駄だ。お前さんが攻撃してこなければ、殺すつもりはなかった」


 男が背を向けようとした、その時だった。


「……ごふっ」


 男の口から大量の血が噴き出した。

 見下ろせば、腹部を鋭利な「何か」が貫いている。背後を見れば、そこには腐り果てたはずのアノの死体はなく、五体満足の狐が立っていた。


「なんだと……? 何が……」


 アノは答えない。さらに二本の尻尾が槍のように男を貫き、そのまま壁へと叩きつけた。


 グチャリ。


 生々しい音と共に、男の体は潰れたトマトのように壁にへばりつき、赤黒いシミとなった。

 脅威を排除したと判断したアノは、一瞥もくれず洞窟を飛び出し、森の木々を飛び移って何処かへと消えていった。


 静寂が戻った洞窟内。

 壁にこびりついた血液と肉片が、まるで意志を持ったスライムのように集まり始めた。それはみるみるうちに人の形を成し、麦藁帽子の男が何事もなかったかのように再生する。


「まさか、一度殺されるとは思ってもみなかったわい。……だが、いいデータが取れた」


 男は地面に残ったアノの体液を指で拭い、舌に乗せた。


「人間が魔物に変貌し、あの再生能力と攻撃性を持つ……。誰かが魔物の因子を埋め込んだか? だが通常なら拒絶反応で破裂するはず。

 ……ふむ。とりあえず研究施設に戻って分析だな」


 男は不気味に笑うと、闇に溶けるように姿を消した。


 場面は変わり、港町の宿屋。

 朝日が差し込む中、紅はテサロンとソラニアを見送るために外に立っていた。


「……なんだ、その。短い時間だったが、お前は強くなった。後はどれだけ努力するかでお前の未来は変わる。死ぬ気で励め」


 テサロンはぶっきらぼうに言い、少し言い淀んでから続けた。


「それと……アノの件はすまない。俺も探し続ける。見つけたら、必ず保護する」


 紅は深く頭を下げた。


「短い間でしたが、ありがとうございました。テサロンさんのおかげで、私は前に進めます。アノのことも……私も諦めません。必ず見つけ出します」


 そして、紅は隣に立つソラニアに向き直った。


「ソラニア、体に気をつけてね。またいつか、会いましょう」


「紅……はい。またいつか。今度は、私が紅を守れるくらい強くなって再会します」


 ソラニアの瞳には、かつての弱気な色はなく、確固たる決意が宿っていた。

 二人は背を向け、道沿いに進んでいく。その背中が見えなくなるまで、紅はずっと見送っていた。


 宿に戻った紅は、ラミと向かい合って座っていた。

「ラミさん……。テサロンさんのことで聞きたいことがあるんです。彼は過去に、何があったんですか?」


 ラミは静かに紅茶を飲み、カップを置いた。


「……知りたい? テサロンが抱える傷跡を」


「はい。本人に聞くべきかもしれませんが……聞かれたくないことかもしれないと思って」


「そうね……。少し長くなるけど、話してあげるわ」


 ラミは遠い目をして語り始めた。


「テサロンの初めての教え子の話。……今では全大陸が血眼になって探している大罪人、その『始まり』の話を」



【回想:廃村の眠り姫】

 それは数年前のこと。

 テサロン、ラミ、バビの三人は、「原因不明の過疎化が進む村」の調査依頼を受け、辺境の森を進んでいた。


「……やけに魔物の数が多いな」


 テサロンが血振るいをして刀を納める。周囲には、すでに数十体の魔物の死骸が転がっていた。


「確かにそうだな。けどよ、俺とテサロン、ラミがいりゃ楽勝だぜ!」


「バビ、調子に乗らないで。足元をすくわれるわよ」


 ラミがたしなめるが、バビは槍を担いで鼻歌混じりだ。


「へいへい。ってか、村はまだなのかよ?」


「地図ではこの辺りのはずだが……。もう少し奥へ進もう」


 三人は森を抜け、村の入り口へと差し掛かった。その時、鼻をつく強烈な腐臭が漂ってきた。


「ぐぅあ……くっせぇ! なんだこの臭いは!?」


 バビが鼻をつまむ。ラミは即座に風魔法を展開し、周囲の空気を浄化した。


「ただの死臭じゃないわね……。濃厚すぎる」


 テサロンは表情を変えず、冷静に周囲を観察した。


「魔物の死体が腐り、山になっているな。……おかしいぞ。通常、魔物の死骸は他の魔物が共食いして処理される。これほど放置されているということは、ここの魔物の生態系が狂っている証拠だ」


 死体の山をかき分け、村の中心部へ進む。そこで彼らが見たものは、異様な光景だった。

 折り重なる魔物の死骸の中心。血の海の中で、長い白髪で顔の隠れた小柄な人物が、すやすやと眠るように倒れていたのだ。


「おい、生きているか? 何があった?」


 テサロンが駆け寄り、その体を揺する。反応はないが、温かさはある。


 ラミが脈を取り、診断魔法をかけた。


「……命に別条はないわ。ただ、深く眠っているだけみたい」


「はぁ? 寝てるだけぇ?」


 魔法で浄化された空気を吸いながら、バビが呆れた声を上げた。


「こんな腐った死体の山の中で爆睡かよ? 肝が据わってるっていうか、イカれてるぜ」


「何にせよ、この子をここに放置はできない」


 テサロンは白髪の人物を抱き上げようとしたが、装備が邪魔だったためバビに指示した。


「バビ、お前が抱えろ。とりあえず村の集会所か、安全な場所まで連れて行くぞ」


「へいへい、人使いが荒いこって」


 バビがその人物を軽々と担ぎ上げる。


 その時、風が吹いて白髪の人物の髪がなびき、その素顔が一瞬だけ露わになった。

 まだあどけない、しかしどこか人間離れした美しさを持つその顔を、テサロンは不思議な予感と共に見つめていた。

 これが、後に世界を揺るがすことになる「教え子」との出会いだった。

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