27、慟哭の決意と、新たなる因縁
紅が重い瞼を開くと、見覚えのある宿屋の天井が視界に入った。湿った海風の匂いが、ここがクラリストンの港町であることを思い出させる。
「宿……? あれ、私、なんで戻ってきているの? 何があったんだっけ……」
混濁する意識。しかし、数秒後、脳裏にあの忌まわしい森の光景が鮮明に蘇った。返り血に染まったアノの瞳、突き刺さるような言葉、そして首筋に受けた衝撃。
「アノ! そうだ、アノと戦って……追いかけなきゃ!」
跳ね起き、震える足でドアへ駆け寄る。だが、開こうとした扉が外から押し戻された。そこに立っていたのは、沈痛な面持ちのテサロンだった。
「……どこへ行こうというんだ、紅」
「テサロン、どいて! アノが、アノが一人で行っちゃう! 追いかけなきゃいけないの!」
紅が必死に掴みかかるが、テサロンは岩のように動かない。
「落ち着け。お前が気絶してから、もう二日が経っている。今から追っても、足取りを掴むのは不可能だ」
「……二日? 二日も経ったの!? なんで、そんなに……」
茫然自失とする紅の背後から、ラミが静かに顔を覗かせた。
「無理もないわ。貴女はアノと戦う前から、気配を消す魔物と一人で戦い続けて、精神も肉体も限界を超えていたのよ。現場までの道中、貴女が斬り伏せた魔物の死体が山を成していたわ」
「そんなの関係ない! 今すぐ追いかけるから、テサロン、そこをどいて!」
「……やめておけ。アノはもう、人を殺めたんだ。バビを殺した……その事実は、この国の法でも魔物の理でも消せはしない。今の彼女は、あまりに危険な存在だ」
テサロンの冷徹な言葉が、紅の逆鱗に触れた。
「ふざけないで!! アノは人間よ、化け物なんかじゃない! それに……テサロン、貴方がちゃんとバビって人に事情を話していれば、こんなことにはならなかった! なんで、なんで黙ってたのよ!!」
怒りに任せて叫ぶ紅。テサロンは目を伏せ、拳を握りしめた。
「……それは、俺の落ち度だ。だが、仮に話していたとしても、バビがその刃を収めたという保証はどこにもなかった」
「それでも……っ!」
言い募ろうとする紅の肩を、ラミが優しく、しかし強く抱き寄せた。
「紅、少し頭を冷やしなさい。テサロンを責めてもアノは戻らないわ。それに、アノが貴女の元を去ったのは、彼女自身の強い意志よ。……彼女がなぜあんな悲しい嘘をついてまで貴女を突き放したのか、考えてみなさい。自分の存在が、貴女を破滅させると本気で恐れたからではないの?」
ラミの胸の中で、紅の張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
「……わがっでる。わがっでるよ……。でも、わだじ、わだじは、アノどいづじょにいだがっだ……。いづじょに呪いどが、なおりかだ、さがじだがっだ。なんべ、なんべ、ごんなごどに……うわぁあぁあぁあぁあぁん!!」
子供のように声を上げ、紅は崩れ落ちた。絶望と孤独、そして愛する者を守れなかった無力感が、涙と共に溢れ出す。ラミはその震える体を抱きしめ、耳元で囁き続けた。
「泣きなさい、今は。でも、泣き止んだら強くなりなさい。アノを連れ戻せるほどに、誰も手出しできないほどに強くなるの。貴女なら、必ずなれるわ」
翌朝。泣き腫らした目を擦りながら、紅は地下の修練場に立っていた。
「紅、俺は明日ここを発つ。仕事の依頼主が待っているからな。だが安心しろ、俺も俺のやり方でアノを探す。見つけたら、必ず保護してやる」
「……ありがとうございます。最後の一日、訓練をお願いします」
「私も少しの間残って、貴女をしごいてあげるわ」
ラミも微笑み、紅の背中を押した。
その時、隅で黙って聞いていたソラニアが、決然とした足取りで歩み出た。
「テサロンさん……私を、連れて行ってください! 無理なのは分かってます。でも、今の私じゃ駄目なの。私がもっと強ければ、アノを引き止められたかもしれない……。だから、修行に同行させてください!」
必死に頭を下げるソラニア。テサロンは一度断ろうと口を開きかけたが、ラミがそれを制した。
「いいじゃない、テサロン。貴方もいい加減、過去のトラウマと向き合う時よ。教え子を育てることで、貴方の剣もまた進むはずだわ」
「……やれやれ。分かったよ。だが、ソラニア。俺の修行は地獄だぞ。覚悟しておけ」
「はい! よろしくお願いします!」
こうして、ソラニアはテサロンと共に、強さを求める旅に出ることとなった。
時間は二日前に遡る。
紅を気絶させ、血を吐きながら森の深部へ逃げ込んだアノは、体中を駆け巡る激痛に耐えかね、偶然見つけた洞窟へと滑り込んだ。
「痛い……痛いよ。……もし起きた時、もう人間に戻れなくなってたらどうしよう……。でも、もう……限界……」
アノは意識を失い、冷たい地面に横たわった。
そこに、洞窟の主である巨大な魔獣「ジャイアントベア」が姿を現した。獲物を見つけたベアが巨大な爪を振り上げ、アノの細い首を撥ねようとしたその瞬間。
――バキィッ!
空気を引き裂く音が響き、三角の藁帽子を深く被った謎の人物が、その爪を素手で受け止めていた。
「やれやれ。遠目でお前さんのような珍しい個体を見かけて来てみたが、正解だったようじゃな。もう少しでベアの餌食になるところであったわ」
謎の人物がベアを睨みつける。その刹那、ベアの肉体が内側から不自然に膨れ上がり、腐敗した汁を撒き散らしながら溶け始めた。
「ウグァアァァ!」
断末魔と共に、数秒でベアは白骨と化した。藁帽子の人物はその骨の一部を無造作に拾い上げると、口に運んでバリバリと噛み砕く。
「さて、助けたは良いが……。ほう、驚いたの。これほどの重傷が、寝ている間にみるみる再生しておる。実に興味深い。これほどの研究素体、滅多に拝めるものではないわい」
不気味な笑い声を漏らしながら、人物はアノの傍らに腰を下ろした。
「……起きるのを待つとしようかの。お前さんが『どちら側』の化け物か、じっくり見定めさせてくれ」
暗い洞窟の中、意識を失ったままのアノと、正体不明の怪人が静かに対峙していた。




