第5話:天使は、シャボン玉の中で夢を見る
元・古龍の幼体、現在は五歳の男の子となったタツヤが家族に加わってから、アリスの家はさらに賑やかになった。
「タツヤお兄ちゃん、まってー!」
「リラ、転ぶなよ。……っと、危ない」
庭では、リラがタツヤを追いかけ回している。
タツヤは驚異的な身体能力(竜王スペック)を、全力で「リラの歩幅に合わせる」ことに費やしていた。
転びそうになったリラを、目にも止まらぬ速さで支えるその動きは、すでに立派な保護者だ。
アリスは縁側でお茶を啜りながら、その光景を眺めて目を細める。
「ふふ。いいお兄ちゃんができて良かったわね、リラ」
タツヤは、アリスの作った『竜鱗クッキー』をバリバリと噛み砕きながら、照れくさそうに笑った。
平和だ。
このまま一生、ここでお茶を飲んでいたい。
だが、アリスの「拾い物運」は、それを許してくれなかった。
* * *
その日の夕方。
アリスが森の結界の点検に向かうと、茂みの中に「白い影」がうずくまっているのを見つけた。
「……鳥? いいえ、違うわね」
近づいて、アリスは息を呑んだ。
それは、背中に純白の翼を持つ、十歳ほどの少女だった。
だが、その翼は折れ曲がり、美しい銀髪は泥と乾いた血で固まっている。
着ている簡素な白い衣服はボロボロで、見る影もない。
「……天使?」
伝承にしか登場しない、天界の住人。
だが、今の彼女から感じるのは神々しさではない。
身体中から黒い靄のような「呪詛」が立ち上り、彼女自身の光を蝕んでいた。
「っ……うう……」
少女が薄目を開けた。
アリスの姿を認めると、彼女は怯えたように身を縮め、乾いた声で言った。
「来ないで……。私に触ると……穢れる……」
「穢れる?」
「私は……堕ちた失敗作……。触れるもの全てを不幸にする、呪われた子……」
少女の瞳は絶望で濁りきっていた。
彼女の背中の傷。
それは、誰かに攻撃されたというより、何かの儀式で「翼をもぎ取ろうとした」痕跡に見える。
タツヤの時と同じ、身勝手な人間の欲望の臭いがした。
アリスの中で、静かな怒りが沸点を超えた。
だが、彼女は表情には出さず、腰に手を当てて「ふん」と鼻を鳴らした。
「穢れる、ねぇ。そんなの、泥遊びした後のリラに比べたら可愛いものよ」
アリスは躊躇なく踏み込み、少女をひょいと抱き上げた。
黒い呪詛がアリスの腕に絡みつこうとするが、アリスの『万象錬金』で作られた「ママのエプロン」の前では、ただの埃同然に弾かれる。
「きゃっ!? だ、だめ、離して! 私なんかがいたら、貴女まで……!」
「はいはい、暴れない。そんなに汚れているなら、やることは一つよ」
アリスはニカっと笑った。
「お風呂に入りましょう。とびきりのヤツにね」
* * *
アリスが連れ帰ったのは、家の浴室だった。
タツヤが薪を割り、アリスが錬金術でお湯を沸かす。
浴槽に投入したのは、アリス特製バスボム『天使の休息』だ。
「さあ、入りなさい」
アリスは少女を湯船に入れた。
シュワワワ……と心地よい音と共に、お湯が虹色に輝き、甘い香りが浴室いっぱいに広がる。
「……あ……」
少女が呆然と声を漏らした。
お湯に触れた瞬間、彼女の身体にこびりついていた泥も、血も、そして黒い呪詛さえもが、泡となって溶け出したのだ。
「汚れっていうのはね、表面についただけのものよ。貴女自身が汚いわけじゃないわ」
アリスはスポンジを手に取り、少女の背中を流し始めた。
折れた翼の周りを、驚くほど優しく、丁寧に洗っていく。
「痛くない?」
「……うん。……あったかい」 「そう。なら良かった」
リラも「あわあわー!」と大はしゃぎで乱入し、少女の頭に泡の帽子を乗せた。
タツヤは脱衣所で「のぼせないようにな」と水を差し入れてくれる。
賑やかで、温かくて、いい匂いのする場所。
少女の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
それは湯船に落ちて、真珠のような光の粒になった。
「私……生きてて、いいの……?」
「あら。お風呂に入ってさっぱりした子が、何を言ってるの」
アリスは洗い立ての少女の髪をタオルで拭きながら、鏡を見せた。
そこに映っていたのは、薄汚れた失敗作ではない。
銀髪がキラキラと輝く、どこにでもいる可愛い女の子だった。
「名前は?」
「……ない。実験体コードしか……」
「じゃあ、『ミカ』ね。ミカエルのミカ。強そうでいいでしょ?」
アリスの相変わらず安直なネーミングセンスだが、少女――ミカは、その名前を口の中で転がし、小さく微笑んだ。
「……ミカ。うん、私、ミカ」
* * *
その夜。
ミカはアリスのベッドで、リラと並んで横になっていた。
清潔なパジャマと、ふかふかの布団。
けれど、部屋の明かりを消そうとすると、ミカが不安そうに身を強張らせた。
「……暗いの、こわい」
実験施設での暗闇の記憶が、トラウマになっているのだろう。
ミカは自分の身体を淡く発光させようとした。天使の本能的な防衛反応だ。
「私が光るから……だから、捨てないで……」
便利屋としての価値を示さなければ捨てられる。
そんな強迫観念が彼女を縛っている。
アリスはため息をつき、そっとミカの頭を撫でた。
「ミカ。家の中で光ったら、眩しくて眠れないでしょう?」
「でも……」
「ここは実験室じゃないわ。寝室よ。暗いのは、ぐっすり眠るためのママからのプレゼント」
アリスは指をパチンと鳴らし、部屋の明かりを消した。
視界が闇に包まれる。
ミカが「ひっ」と息を呑んだ瞬間――彼女を左右から温かいものが包み込んだ。
右からは、アリスの優しい腕。
左からは、寝相の悪いリラの体温。
足元には、タツヤが竜の姿に戻って、湯たんぽのように丸まっている。
「ほら、暗くても、みんなここにいるわ」
アリスの声が、暗闇の中で優しく響く。
「だから、頑張って光らなくていいの。ただの女の子に戻って、おやすみなさい」
ミカの身体から、強張った力が抜けていく。
暗闇は、もはや恐怖ではなかった。家族の体温を感じるための、優しい毛布だった。
「……うん。おやすみ、ママ」
ミカは、生まれて初めて、悪夢を見ずに深い眠りへと落ちていった。
その寝顔は、どんな天使の絵画よりも安らかで、幸せそうだった。




