第二話:最強の錬金術師、ジョブを「最強ママ」に変更します
聖都から北へ五百キロ。
アリスが転移したのは、人間が足を踏み入れることを禁忌とされる『迷わずの森』の最深部だった。
ここは世界樹セフィロトの支根が地表に露出しており、高濃度のマナが充満しているため、強力な魔獣が跋扈する危険地帯だ。
だが、アリスの認識は違う。
(よし。ここならマナも豊富だし、空気も綺麗。変な宗教勧誘も来ないし、リラの情操教育にぴったりね)
彼女にとって、魔獣が出るかどうかよりも「静寂」と「空気清浄度」の方が、物件選びにおける重要事項だった。
「さて、まずはリラのお城を建てましょうか」
アリスはスリングの中の愛娘が起きないよう、忍び足で開けた場所の中心に立つ。
懐から取り出したのは、かつてダンジョンの最奥で入手した『世界樹の若木(苗)』だ。
市場に出せば小国が買える国宝級アイテムだが、アリスは躊躇なく地面に突き刺した。
「『急速成長』、および『構造変異』」
アリスが地面に手を触れ、錬金術式を流し込む。
ズズズズズ……と大地が震え、若木が一瞬にして巨木へと成長する。
その枝葉は絡み合い、樹皮は変形し、わずか数分で、自然と調和した美しい木造コテージが完成した。
「ふぅ、こんなものかしら」
ただの家ではない。
壁材は、ドラゴンブレスすら弾く『世界樹の生きた樹皮』。
窓ガラスは、物理衝撃を無効化する『ダイヤモンド・クリスタル』の錬成。
そして室内には、常時『環境最適化結界』が張り巡らされている。
家の中に入ると、床がほんのりと温かい。
靴を脱いだ瞬間、付着していた土汚れが光の粒子となって消滅した。
『自動浄化』機能の実装だ。
リラがハイハイして床を舐めても、無菌室レベルの清潔さが保たれる。
(完璧ね。育児において最大の敵である「掃除の手間」と「衛生面の不安」。これを錬金術で完全自動化したわ)
アリスにとって、これは魔法の無駄遣いではなく、「育児の最適化」に過ぎない。
準備が整ったところで、アリスはスリングからリラをそっと取り出した。
生後四ヶ月。黒曜石のような瞳が、新居の天井を見上げてキラキラと輝いている。
「リラ。今日からここが、ママと貴女のお家よ」
「あーう!」
リラが嬉しそうに声を上げ、アリスの指をギュッと握り返した。
その小さな手の温もりが伝わった瞬間、アリスの胸の奥で、カチリと何かのスイッチが切り替わる音がした。
かつて世界を救うために研ぎ澄ませてきた『万象の錬金術』の知識。
原子を組み替え、理を書き換える神の如き技術。
それを、誰のために使うのか。答えはもう出ている。
(ヴィルヘルムたちには一生理解できないでしょうね。世界を救う名誉なんて、この子の笑顔ひとつに比べれば、埃以下の価値しかないってことが)
アリスは深く息を吸い込み、誰に聞かせるわけでもなく、高らかに宣言した。
「勇者パーティーの支援役、無能な錬金術師ジョブは解除」
「私の新しいジョブは――『愛娘の最強ママ』よ」
システム音が鳴ったわけではない。
だが、彼女の魂がそう定義した。
新しいスキルツリーに、攻撃魔法や魔王討伐の項目はない。
あるのは「絶対安全」と「究極育成」のみ。
「さあ、お腹すいたわよね。ご飯にしましょう」
アリスはキッチン(システムキッチン完備)に立つと、土鍋を取り出した。
離乳食の時間だ。だが、その素材が普通ではない。
取り出したのは、森で採取した『黄金林檎』の果汁。
そして、魔王討伐の報酬としてくすねてきた秘薬の原料、『幻の霊水』。
普通の錬金術師が見れば、「国宝を鍋に入れるな!」と卒倒する光景だ。
だがアリスは真顔である。
「市販のミルクや野菜じゃ、栄養素の含有量が少なすぎるわ。リラの身体を作る基礎工事だもの、最高級建材を使わないと」
アリスが指先から魔力を注ぐと、土鍋の中身が黄金色に発光し始めた。
『万象の錬金術』による分子レベルの調理。
素材が持つ「毒性」や「強すぎる魔力」を極限まで分解・再構築し、赤ちゃんの未発達な胃腸でも100%吸収できる形へと最適化していく。
「よし、完成。『神代の果実と霊水のトロトロ煮』……長すぎるわね。『リラちゃん専用・最強まんま』でいいわ」
スプーンですくった黄金色のペーストを、リラの小さな口元へ運ぶ。
リラはぱくりと一口で食べた。
その瞬間。
カッ!とリラの身体が淡い光に包まれた。
瞳の奥で、金色の魔力光が一瞬だけ螺旋を描く。
「あー! キャッキャ!」
リラが手足をバタつかせて喜んだ。
どうやら、味も効果も抜群のようだ。
(よかった。これで全属性耐性と、病気無効化の基礎バフがかかったわ。普通の風邪なら、ウイルスが体内に入った瞬間に消滅するはず)
アリスは満足げに頷く。
彼女の目指す「健康優良児」とは、「ドラゴンに噛まれても無傷で、疫病が裸足で逃げ出すレベルの健康」のことである。
もちろん、本人はそれを「普通の健康管理」だと思っているのだが。
「さあ、お腹がいっぱいになったらお昼寝の時間よ」
アリスが用意したのは、世界樹の枝で作ったベビーベッド。
そこには『絶対安眠』と『悪夢遮断』の多重結界が施されている。
「おやすみ、リラ。怖い夢も、悪い魔物も、ママが全部シャットアウトしてあげるから」
ふかふかの布団にリラを寝かせ、トントンと胸を叩く。
すぐに寝息を立て始めた愛娘の顔を見つめながら、アリスは、かつてないほどの充足感に満たされていた。
追放? 復讐? そんな些末なことに使う時間はない。
アリスの第二の人生は、この小さな「世界」を守り、育てるためにあるのだから。
――だが、アリスはまだ知らない。
彼女が「ただのマイホーム」として建てたこの場所が、世界樹の活性化を引き起こし、世界中の権力者やドラゴンたちが血眼になって探す『地上の楽園』として地図に載ってしまう未来を。




