生きるために旅に出る
エンジンの音だけが、灰色の町にこだましていた。
ウインチの巻き上げ音、ジャリ、と舗装のはがれかけた路面をタイヤがこする音。
看板はすでに風化し、コンビニのシャッターは下りたまま。
人影は、どこにもない。
レッカー車の運転席で、戸村俊夫は、煙草に火をつけることもなく、ただ口に咥えていた。
「この期に及んで、車を片付けてどうすんだか……」
空は、ずっと曇っていた。
太陽が昇ったか沈んだのかすらわからない。
テレビも、ラジオも、何日も前から繰り返し同じ言葉だけを流していた。
——「地球接近中の天体との衝突は避けられない見込みです」
——「各自、最終避難を完了してください」
——「どうか、静かにその時を迎えてください」
静かに、だと。
そんなもん、最初からわかってる。
戸村には、逃げる場所なんてなかった。
親も兄弟もとうに疎遠。結婚は一度したが、もう十年以上も前に別れた。
「人生をレッカーしてやり直せたらね」
そう言われた日を、ふと思い出す。
今、彼が動かしているのは、もはや「誰かのため」じゃない。
それでも、エンジンを止める理由もない。
彼は今日も、避難区域に残された放置車両を、ひとつずつ片付けていた。
それが、自分にできる「最後の仕事」だった。
***
その日は、郊外の国道沿いだった。
潰れたパチンコ屋の前、駐車スペースに置かれた古びたワゴン車。
車体にビニールシートがかかり、窓には新聞紙が貼られていた。
どう見ても、避難時に置いていったものではない。
不穏な空気が、直感に触れる。
戸村は車を降り、ワゴンのドアを開けた。
途端に、血の匂いが鼻を突いた。
後部座席。
若い夫婦らしき2人が、寄り添うように座っていた。
口元には、薬品の付いたタオル。
その間には、小さな体が横たわっていた。
戸村は息を呑み、手で少女の鼻先に触れた。
——息がある。
脈は弱く、意識もないが、かすかに胸が上下している。
「……おい、いきとるか?」
返事はない。だが、生きている。
戸村はとっさに、レッカー車の助手席に彼女を抱え込み、毛布をかけた。
戸棚にしまっていたスポーツドリンクを口にあて、少しずつ流し込む。
ふと、少女の首にぶら下がっていたキーホルダーが目に入った。
青いクマのぬいぐるみ。タグには、小さく名前が書かれていた。
「ゆうな」
「……よし、ゆうな。生きるぞ」
誰に向けてでもなく、戸村はそう呟いた。
***
その夜、戸村はレッカー車を走らせていた。
ゆうなはまだ目を覚まさない。
だが、体温は戻りつつあった。
行くあてもない。ただ、空へと向かって突っ切る国道を走り続けていた。
「滅びるんだとよ。明日の昼には全部終わるらしい」
助手席の少女はもちろん答えない。
「でもな……それでも、お前がまだ生きてるってんなら、行き先くらい探してやらんと。道がある限り、進むぞ。わかるか?」
窓の外に、流れ星のような光がいくつも走った。
それは、地球に迫る破滅のかけらだった。
でも、戸村にはその光が、未来への道しるべのようにも見えた。
***
夜明け前——
少女が、かすかに目を開けた。
「……とうさん……?」
「ちがうよ。戸村ってんだ。よろしくな」
少女の目から、一筋、涙が流れた。
戸村もまた、知らず涙が落ちていた。
「おい、まだ終わりじゃねぇからな」
そう言って、彼はアクセルを踏み込んだ。
***
世界の終わりの、その瞬間。
空が白く光り、全てが吹き飛ぶ寸前——
一台のレッカー車が、走っていた。
ひとりじゃなかった。
そこには、確かに、誰かを救おうとする意志があった。
ゆうなの手を握りながら、戸村は言った。
「この道の先に、奇跡があるって信じてみるか」
答えはなかったが、少女の手が、少しだけ握り返してくれた。
その瞬間、戸村は確かに——
「生きている」と思えた。
そして、光が、全てを包んだ。




