声の届くところまで
「こちらは、蒲郡市役所・災害対策本部です——」
スピーカーから流れるアナウンスは、風に混じって誰もいない町へと消えていった。
商店街のシャッターはすべて下り、信号は点滅を繰り返している。電車は止まり、校庭には誰の姿もない。
ただ、町のあちこちに設置された防災無線のスピーカーから、その男の声だけが流れ続けていた。
「隕石の衝突は、現地時間で5日13時頃と予測されています。安全な避難場所への移動を、引き続きお願いいたします——」
その声の主は市役所の危機管理課で働く、40代半ばの職員だった。
妻とは数年前に別れ、子もいない。実家とも疎遠で、飲みに行く友人もない。仕事一筋——というよりも、仕事しかなかった。
***
人類滅亡が「確定」したのは、半年前。
最初は一部のメディアだけが騒ぎ、それを笑う者も多かった。
だが専門家たちが一様に沈黙しはじめた頃、すでに世界は「次に備える」ことを諦めていた。
避難は始まった。政府の高官、研究者、選ばれた人々。誰が選ばれたのか、なぜ自分ではなかったのか。 そんな問いが、怒りになり、やがては無関心へと変わっていった。
彼はその時、市の庁舎にいた。
「残りますか?」
そう尋ねた同僚の目に、涙が浮かんでいた。
「はい」
彼は即答した。
「俺には、まだやることがありますので」
***
「こちらは、蒲郡市役所・災害対策本部です」
スピーカーの向こう、町に誰もいないことはとっくにわかっていた。
けれど、彼は日課のようにアナウンスを続けた。
午前9時、正午、午後3時、午後6時——
決まった時間に、防災放送の操作室からマイクを握り、静かに、淡々と語り続ける。
「……避難先がない方は、旧市立病院の地下シェルターが開放されています」
もちろん、そのシェルターも今は空っぽだ。
けれど、どこかに、まだ誰かがいるかもしれない。
その「かもしれない」が、彼を支えていた。
アナウンスの合間、彼は屋上に上がって町を見下ろした。
郵便局、薬局、商店街の古い喫茶店——
あらゆる場所に、思い出はない。ただ、長く歩いてきた景色があるだけだった。
「……もう、誰もいないのかな」
風が通り抜ける中で、彼はぽつりとつぶやく。
それでも、次の放送の時間が来れば、階段を降りて放送室に戻った。
まるで、朝礼で点呼を取る教師のように。
あるいは、もう戻らない子どもを呼び続ける親のように。
「こちらは、蒲郡市役所・災害対策本部です——」
***
最後の昼が来た。
空には、ぼんやりとした光の筋が見えていた。
肉眼ではまだ遠いが、ニュースで見た巨大隕石が確かにこちらに向かっている。
時計は、午前11時57分。
「……最後の放送、か」
彼はマイクのスイッチを入れた。
その瞬間、いつもと違う音が聞こえた。
——「……あの……」
それは、受信機から聞こえる声だった。
かすかな声。
ノイズ混じりに、それでも確かに聞こえた。
「……誰か、聞こえてますか?」
彼は、驚いて息を呑んだ。
「こちら、蒲郡市役所の災害対策本部です。誰かいますか?」
——「……よかった……ひとりかと思った……」
声の主は、男性か女性かも分からないほどノイズが混じっている。
放置された避難放送のスピーカーを、偶然拾ったという。
どこかのビルの地下に隠れているらしい。
「聞こえますか? お名前は?」
——「…………です」
不幸にも名前は聞き取れなかったが、放送用のマイクではなく、通信機の送信ボタンを押したまま、全力で声をかけた。
「大丈夫、怖くない。俺が、ずっとここにいますから。ずっと、呼びかけてますから」
答えはなかったが、その瞬間、その声は確かに誰かに届いていた。
***
時刻は、正午。
運命の時間が迫る中、最後の放送を始めた。
「こちらは、蒲郡市役所・災害対策本部です——」
声は変わらず、穏やかだった。
ただ、今までと違ったのは、その言葉のあとにつづいた一言だった。
「……これまで聞いてくださった、すべての方へ。ありがとうございました。
私は、ここで最後まで呼びかけ続けられたことを、誇りに思います」
目を閉じ、深く息を吸う。
誰にも届かなくとも、自分の声を信じて。
それが、彼の「仕事」だった。
それが、彼の「生きた証」だった。
そして、空が白く光った。
その瞬間もなお、町に最後の声が、やさしく響いていた。




