三十八話
私は真新しい制服に袖を通すと、まだ馴染まないその着心地に鏡の前ではにかんだ。
窓の外には麗らかな春の陽射し…入学式にはこれ以上ない空だ。
あの後…気を失った私と光を見つけたのは、あの神社の神主であるハヤテのお父さんだった。
私と光が帰って来ないので、それまでの事件の事もあって…町中大騒ぎになって探したのだそうだ。
光の怪我は幸い神経や動脈をそれていて、左腕を深く切る傷だったけど…リハビリを真面目にしたら問題はなくなるそうだ。
ふと、窓の外から遠くに見える、舞姫桜を振り仰いだ。
もうそこにはほとんどあの儚い色彩はうかがえず、代わりに鮮やかな緑が芽吹き始めていた。
石段の下で折り重なるように見つかった二人は…奇跡的に一命を取り留めた。
大谷先生は全身打撲でひどい有様で、骨折も数か所していたけど…大きな後遺症はなさそうとの事だった。
なんで作ったのかわからないけど、酷い借金を抱えていて…北斗君達の親戚…祖父って呼んでたのは子供のいないお爺さんの養女に北斗君のお母さんが入ってたからみたい…の死を隠してその財産を横領した罪を近々問われるだろうって事だった。
南君はというと…
「希!そろそろ行こうぜ!親父が車出すって!」
「わかった!」
一階から光の声がして、私は答える。
鏡の前で、少しだけ大人になった自分に笑顔を作ると、私は階段を駆け降りる。
「こら!希!もう中学生なんだから、少しはおしとやかに…」
お母さんがしなれない化粧をした顔で怒って、それがなんだかおかしくて笑った。
「はーい。じゃ、私、光の家の車で先に行ってるね」
「校門のところで待ってなさいよ」
「はーい」
私は靴をはくと、着物姿のおばあちゃんに軽く手を上げて外に飛び出した。
そう言えば、昨日、梓もピカピカのランドセルを見せに来てたっけ。すっかり元気になったハヤテと一緒に登校していく姿に、あの夜のトラウマは微塵も感じなかった。
梓の場合は…リボンは光の家ですでに盗まれていたらしい。
私と別れた後に電話で呼び出しスタンガンで気絶させ放置したのだ。
ハヤテの場合は梓の一件での帰り、光を先に返して二人になった時に腕輪をとったらしい。ハヤテが家に入って明るい所で気づくのを見計らって携帯で電話。あの河原の向こう岸に腕輪を置いておいて自ら飛び込むように仕組んだのだ。
二人の件は皆、南くん一人の仕業だった。固定電話しかない私には思いつかなかったけど、携帯というツールがあるとなると私といた時間も全くアリバイの体をなさない。
後から部屋から見つかったスタンガンや携帯履歴からも南君のやったことは警察で立証された。
南君に電話をしたのは先生。
梓ちゃんの件で南君の姿を見かけた先生は、翌朝、南君が私の家で朝ごはんを食べてるその時間にあの家に行って南君の存在を確認し…殺意を固めたみたい。まだ南君が犯人と知らなかった先生は、梓ちゃんの件に便乗して『狐』を装う事を思いつき…バイオリンを盗んだ。あの時すぐに出てこなかったのは、眠ってたからじゃなく、慌てて帰ってきたせいだったんだ。
そしてハヤテ君の搬送に付き合うふりをして途中で救急車を降り、電話してきたのだ。
蓋を開ければ、みな、自分のすぐ傍で起こっていた。
私は外で待っていた光を見つけると「おはよ」と声をかけた。
制服姿の光はその声に顔を上げ
「お、馬子にも衣装だな」
「褒め言葉を知らんのか」
そう照れ臭そうに言うと、先になって歩き出した。
明日からはバス通学だけど、今日は親の車で向かう事になってる。
家の車には両親とお婆ちゃんと、光の家のお婆ちゃんがのるから、私は一足先に光の家の車に乗る事になっていた。
「昨日さ…」
光がやや早足で進みながら前髪を揺らす。
「南に会って来た」
「…そう。で?」
光は黙って首を横に振った。
南君は今、病院にいる。
あの日以来、まるで世界全てを拒むように意識を取り戻さない。
私は『狐』は本当にいたと思っている。
人の心に棲む『狐』。きっとそれは私の中にもいる。
一人じゃ抱えきれない苦しみや悲しみに打ちひしがれた時に、それを歪んだ憎しみに変えてしまう…そんな『狐』が…。
私はあの南君の悲しげな笑顔を思い出すと、感じる胸の痛みに眉を寄せた。
「いつか…ちゃんと話したいな。北斗としてじゃなくて…南と」
「うん」
大人になる痛みは、本当はこんなものじゃないのかもしれない。
本当に、先生が言っていたように、何にも知らない子どものままでいた方が幸せなのかもしれない。
気がつくと、畑の向こうの方に小さく首なし地蔵が見えた。
夜中にあそこに行っちゃいけないのは…あそこだけ昔あったお寺の名残で砂利が細かく石敷きになっていて滑りやすく危険だからだ。
河童岩だって、雨の増水で危険だから…あの石段も、急な勾配で足を滑らせ易いから…。
不思議は陽の光の下では何てことはない…。
少し視線が高くなれば、それらが見えてくる。
それは果たして、苦しく悲しい事ばかりなのだろうか?
「南くんが起きた時、そんなに捨てたもんじゃないって思ってもらえるようなお話、たくさんできるようになりたいね」
そして、叶う事なら…笑ってほしい。
あんな哀しい笑顔じゃなくて、心の底から…そう、彼らが一緒に生きて来たというのなら尚更、北斗君の分まで南君は笑って生きるべきなんだ。
「…だな」
光は頷くと、少し私の手の傍で自分の手を彷徨わせ、それからふてくされたような顔でそれを自分のポケットに突っ込んだ。
その迷いは、まだあってもいいと思う。
くすぐったい気持に、私は笑みを堪えると、そっと小さな声で訊いた。
「所で…光はなんて言って十字路に呼ばれたの?」
「へ?」
妙に間の抜けた声でこちらを見る。
宝物を奪った『狐』は私にはそれは光と言った。
じゃ、光には…?
「ね、光は何を取り返しに行ったの?」
みるみる光の顔が真っ赤になっていく。
私を凝視したまま、耳まで赤くした光は怒ったような顔をして
「馬鹿!そんなの教えられるかよ!」
そう言い捨てて走りだした。
え?何?そんなに恥ずかしいものなの?
「ほら!もう、置いて行くぞ!」
光がちょっと先まで行って振り返った。
なんだったんだろう?それも…もう少し大人になればわかるのかな?
それとも、あの時舞姫桜の下で聴こえたバイオリンの調べのように、謎のままで記憶の中に仕舞っておく方がいい?
「希!!」
光が呼んだ。
その声に理屈のない笑みが自然に零れる。
まぁ、いいか。
「まってよー!」
私は春の香りを吸い込むと、声に変えて吐きだした。
駈け出す大地は温かく、広がる空はどこまでも透き通っていた。
最後までお付き合いありがとうございました。
作中の北斗は『Apollo』という作品の『旅路』という章の中に少しだけ出てきます。もし、生前の北斗にご興味をお持ちになってくださった方は、そちらをお願いします。
また、そのうち、同じメンバーの少し昔のお話し『空蝉』も掲載予定ですので、よろしくお願いします。