三十五話
「僕は去年、ここに来ても、あの部屋から一歩も出なかったからね。まさか孫が双子だなんて思ってなかったんだろう。だから、この男は僕の存在を知った時、第三の狐になって、僕を殺すことを考えついた。きっと希の事は、希が僕の家に来たのをどこかで見て、君も祖父の死を知ったと思ったのかもしれない。君が僕の家を飛び出して行ったあとに電話があった。そこで奴はバイオリンを盾に僕の計画も聞きだした。奴は酷く面白がったさ。そして、悪趣味なこいつは君が兄さんと光……どちらを選ぶか見てみようって言いだしたんだ」
そんな……考えられない。
だって、大谷先生はいつだって優しくて、穏やかで、みんなに親切なお兄さんみたいな先生だったのに……。
「じゃ、俺に電話してきたのも?」
「この男さ。どのみち、僕には兄さんのバイオリンを見捨てることなんてできない。ここに来るしかない。こいつは言ったよ。希が北斗を選べば、僕は幸せのうちに死ねるだろう。でもここに来たら残酷な現実を知って、死ぬのが嬉しくなるってさ」
そんな……酷い。
命はそんな、試すものでも駆け引きに使うものでもない。どうしてそんな軽々しく決めつけられるの?
凪いだ風は地面に落ちた花びらを撫でる事もしない。それでも落ちた花びらは、重なり合う紅色に儚い命の美しさを思わせた。
「命は等価値なんかじゃないんだよ」
『狐』は厳かな口調でそっと囁く。
「だってさ」
そっと蝶の羽を指で挟んで掴まえた。
「人の命と、この蝶の命。同じじゃないだろ? ここで蝶を殺したとしても、誰も悲しまないし罰せられない。それと同じ。祖父も命も誰も悲しまない。そして……兄さんの命は失われるべきじゃなかった」
声の震えはもう涙で波打っているんじゃないのがわかった。声を震わすのは、狂気にも似た歪んだ愛情と憎しみだ。
「鏡を覗く度に、兄が寂しそうに凍えた顔でこっちを見て訴えるんだ。寂しい寂しいってね。だから、決めたんだ」
「希っ」
光が鋭い声を出して、私を隠すように手を広げた。その様子を『狐』は笑う。
「兄さんの傍にお前を送ってやろうって。でも、お前は怒りを覚えるくらい能天気に暮らしていた。それに……」
光に目を向ける。
「もしかしたら、お前のせいで命を投げ出した兄さんがいるのに、こいつに走ってるんじゃないかって思ったんだ。そんなの許さない。僕は本当に苦しかったんだ。兄さんを奪われ、失い、世界が崩壊した。永遠の暗闇に放り出されたんだよ。なのに兄の死の原因になったお前はこうだ。不公平だろう? ありえないだろう?」
熱を帯びた声は不気味に高まり、前のめりににゅうと突き出された面が私達の表情を舐めまわすように見つめる。
「……だから、兄さんの元に送る前に、お前にも味わってもらう事にしたんだよ」
『狐』は糸の絡まったマリオネットの様な不自然な動きで羽根をつまみあげると、私達に見せつけるように差し出した。
ぷつ
羽根が一枚もがれた。
私は息を飲む。『狐』は笑う。
「一つ……」
ぷつ
もがく蝶の羽をまた、一枚。
光が唇を噛んでいた。『狐』は肩を揺らす。
「一つ……」
そして飛べなくなった蝶を……
「壊して、その虚しさと恐怖をね」
躊躇いもなくその掌で握りつぶした。