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三十四話

 『狐』は歩みを止めない。


「1年前、ここに来たのは離婚して、荒れた生活をしていた母親がここに戻ろうとしたからなんだ。でも、親の反対を押し切って外国人の父と結婚した母も、その子どもである僕たちの事も、祖父は受け入れなかった。きっと……そこの馬鹿のせいもあるんだろう」


 そういうと、まだ身じろぎ一つしない先生を、乱暴に蹴り上げた。

 なんの抵抗もなくその体は嫌な音を立てて跳ね上がり、砂利の上を転がる。

 私は見ていられなくて、光の背中の後ろに隠れた。


「その男は祖母を亡くして以来孤独だった祖父にずいぶん取り入っていたらしい。……僕達はここにもいられなくて、東京に戻った。兄さんは帰ってからも、ここでの話ばかりしてた。それまでは、僕の代わりに外に出て、見聞きしてた事をみんな話してくれた。兄さんの思い出は僕の思い出、兄さんの時間は僕の時間だったのに……兄さんは隠し事をするようになった。それが、お前だよ。上地希」


 『狐』は憤懣をぶつけるように足元の先生の体を踏みにじった。そのやりように目も当てられない。 そこへ場違いなほど可憐な一片の蝶が舞いながら訪れた。それがピタリとその生気のない体に止まる。


「やめろよ!」


 見かねた光の言葉もまるで無視だった。怒りを通り越した憎しみの視線が私に仮面の向こうから、まるで煙草の火を押し付けるかのごとく向けられる。


「兄さんは、今までした事のない作曲を始めた。楽譜を見て、愕然としたね。そこにある旋律には僕の知らない兄さんの顔があった。兄さんはたぶん……」


 胸が軋んだ。

 あの旋律が北斗君の気持ちなら……私と同じだったと言う事だ。

 目をぎゅっと瞑ると、あの旋律とともに彼の優しい笑顔が瞼の裏に蘇る。

 もう二度と見る事は出来ない、あの笑顔が……。


「許せなかった。それでも、僕にはどうしようもなかった。そんな風に、お前のせいで隠し事をするような汚い大人になっていく兄さんを、見ているしかなかった。でも、あの日……君にこの曲の完成を知らせたいからって、母と手紙を出しに行った兄は……」


 『狐』はさっきまでは平気で口にしていたその先の言葉を、今は言葉という形にできないでいるようだった。

 記憶を辿った先に迎えた結末に怯えているかの様にも見える。

 蝶が舞いあがった。

 不安定にも見えるその羽ばたきは『狐』を慰めるかのように飛び交う。


「兄さんの最後に手にしていた手紙を読んで震えたね。ずっと僕と一緒だったのに、最期の最期に残したのは上地希、お前との約束を叶えたい、その一心だったんだ。だから……この1年待ったんだよ。お前の事ばかり考えて、気が狂いそうだった」


 夜の闇に浮かぶ蝶の白い羽は、はらはらと音もなく散る桜と同化していて、この世のものではないほど美しかった。


「ねぇ……命って本当にどの命も価値は同じだと思うかい?」


 でも、降りた沈黙を再び破ったのはやはり『狐』だった。


「当たり前だろ!」


 吠える光に『狐』は喉を鳴らして笑う。

 すっと闇夜を切るように差し出された細く長い指先に、白い蝶がピタリと止まった。


「この男はね……その交通事故を記事で読んだか、祖父から聞いたかして……祖父の遺産を横取りしようと考えたんだ。でも、遺書は書かせられなかったんだろう。もしくはそんな面倒は止めたんだ」


「え?」


 言いたい事が分からないで、私も光も『狐』を見つめる。『狐』は自身の目の前に手を寄せると、寄り添うように止まったままの蝶を見つめているようだった。


「祖父は、僕たちが東京に戻った後に死んだようだ。ここに来て初めて知った」


「なんっ」


 どういう事? 確かに近所付き合いはなかったって言うけど……死んでたって?

 あの人気のない家を思い出す。


「たぶん、兄さんと母親の死亡を何らかの方法で知って、祖父に血筋が絶えたと思ったこの男は……祖父の財産を自分のものにする好機と思ったんだ。祖父を殺したのか、勝手に死んだのかはわからない。でも、この男は祖父の死を隠して、祖父の面倒を見ているふりをしながら、祖父の財産に手を着けていた。誰にも知られるはずはなかった。でも、誤算だった。僕という存在がいるって言うのがね」


 そういうとさらに先生の体に置いた足に力を込めた。

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