二十七話
家につくまでの事はよく覚えていない。
玄関に飛び込んで鍵を閉めて、そのまま力が抜けて座り込んじゃったんだ。
お母さんが心配してなのか、怒ってなのかわからないけど、酷く驚いてお風呂を沸かしに行って、お婆ちゃんがタオルをくれた。
お風呂に入って冷え切った体を温めても、心の螺子が何本かなくなってしまったようにそれ以上の事は感じられなかった。
たぶん、夕飯もそれなりに口にした。
お母さんに何か訊かれた気もするけど、何を訊かれたのかわからないし…答えたのかどうかも自分の事なのに良くわからなかった。
夕食を終わってすぐに自分の部屋に戻って、ようやく世界が静かに輪郭を取り戻し始めた。
ベッドに足を投げ出した格好で座って、枕を抱きしめる。
こわごわ唇に触れてみた。
どうして……嫌だったのだろう?
私は、北斗君の事、好きじゃなかったの?
あんなにあの時の事を思い出しては、毎日ドキドキして、くすぐったい気持に頬を緩めていたのに……。
自分で自分が分からなくて心がグシャグシャになりそうだった。
北斗君を傷つけたかな? もう、私の事嫌いになっちゃったかな。それに……
枕に顔を押しあてた暗闇の向こうに白いレインコートが見えた。
光、気づいちゃったかな。
そんな事ないよね? 私、何にも言ってないよね?
知られたくないよ。こんな事……。
そんな時、電話の鳴る音が一階からした。
私は顔を上げる。
もしかしたら、光かもしれない。だったらお母さんやお父さんに何か言われると厄介だ。先にとらなきゃ!
部屋を飛び出すと同時に私は叫んだ。
「お母さん! とらないで! 私、出るから~!」
慌てて階段を駆け降りる。
お母さんは電話の前で不思議そうな顔をして立っていた。
「私が出るから! あっちいってて!」
「何? 誰からの電話?」
「いいからっ!」
私は急かすように鳴り響く電話の音を気にしながら、お母さんを追いやった。
もし光なら、どう話せばいいか何か考えてないけど、とにかく親には絶対聞かれたくない!
「何よ。変な子」
お母さんは訝しんで眉を寄せながら部屋に入って行った。
私はお母さんや他の家族の影がないのを確認してから、ゆっくりと受話器をとった。
ベルの音が止む。
私は受話器を掌で包んで、大きく深呼吸してからゆっくりとそれを耳にあてた。
どうか……光じゃありませんように。
その祈りは、聞き届けられた。
受話器の向こうから変な雑音が聞こえる。
「もしもし?」
「……今度はお前だ」
「っ!」
背筋に氷柱が突き刺さったような冷たさと衝撃が走った。
思わず取り落としそうになる受話器を両手で握りしめる。
喉が握られたように苦しくて、震える声がうまく出なかった。
「もしかして、あなた……き、狐?」
無意識に小声になった私に、変な声は不気味に笑っている。
そうだ、8時に北斗君が!
慌てて時計を見上げると、まだ7時45分だった。
良かった、まだ……
「光という少年を預かった。返してほしかったら8時に舞姫桜に来い。来なければこの少年にお前の代わりになってもらう」
え……光?
私は耳を疑った。
狐は光を誘拐したって言うの?
「ちょっと! それ、どういう……」
そこで電話は、無慈悲に切られた。