二十三話
「待って! 北斗君!」
私はその背中向かって声をかけた。でも、一度向けられた背中は頑なで、簡単に振り向いてくれない。
「ごめんなさい! 疑ってるわけじゃ……」
その時だった。
不意に耳慣れない電子音。何かのクラシック音楽だと思うけど、メローな旋律が何の前触れもなしに振ってわいた。
私は急な事に足を止めて周りを見回す。見ると、北斗君が自転車を止めて……携帯電話? 何か小さな手のひらの収まるほどのものを手にとった。途端にそのこの町には珍しい音が消える。
よくテレビのCMでは見るけど、本物を見るのは実ははじめてだ。だって、アンテナの立ったばかりのこの町で、携帯の必要性を感じる人はまだいなくて、誰も持ってないんだもの。
やっぱり都会の人なんだな。
北斗君は馴れた手つきでそれを耳にあてた。
「もしも……」
誰からだろう? お母さん? それとも南くん?
「あ……」
私は硬い表情で電話の声に耳を傾ける北斗君の横顔を見ながら、はっとした。
そうだ。子供に限れば、私達三人の他に(赤ちゃんは除くとして)南くんもいるんだった! 会った事がないから思いもよらなかったけど、もしかして、南君に何か?
「……」
黙って電話を切った北斗君は真っ青な顔をして、その携帯を見つめていた。
「どうか、したの?」
鼓動がまた嫌な音を立て始める。
もう、嫌だ。誰かが危険な目に遭うのは。
私は祈るような気持ちで北斗君を見つめた。
北斗君はゆっくりと顔をあげると、うわ言のように唇をわななかせ呟いた。
「次は……僕みたいだ」
「え?」
ぬかるんだ粘り気のある道が私の足を掴もうとする。
犬の舌舐めずりの様な不快な音がして、ますます嫌な気持ちになった。
「どういう事?」
傍まで来ると、北斗君の顔色が本当に変わっているのがわかった。
携帯に目を移すと、じっとまるで初めて手にするもののように凝視している。
「狐、からだ。バイオリンを預かった。8時に耳切り坊主の十字路に取り返しに来い。大人に言うと、他の子供たちのようにとり殺すって……」
「嘘。で、も……」
「あぁ。どのみち……」
そうだ、梓もハヤテも大人に言ったわけじゃない。でも、あんな目にあった。
今度は北斗君?!
「どうしよう。やっぱり誰かに……」
北斗君は携帯を仕舞うと首を横に振った。
「バイオリンは大切なものなんだ。もし、大人に話してあれに何かあったら……」
「駄目よ!」
私は思わず声を上げた。
バイオリンは北斗君のとって大切なのもなのは知ってる。
去年はいつも持ち歩いて、本当に宝物のようにしてた。
だけど、今は状況が違う。どんなに大切なものより北斗君のが大切に決まってる。
でも、北斗君は頷こうとはしなかった。代わりに低い声を溜息のように吐きだす。
「……僕は、ここにただ遊びに来たわけじゃないんだ」
「?」
北斗君は苦しげにまたあの顔をすると、私の手を掴んだ。
「君に会いに来たって言うのもある。でも、兄弟の望みを叶える為でもあるんだ、だから、バイオリンがないと困る」
「どういう事?」
手を掴んだまま歩きだした北斗君の横顔を見上げた。
北斗君は何かを睨むような顔をして道の先を見据える。
「ごめん。僕は君たちに嘘をついていたんだ」
「え?」
北斗君は目を細める。
それはまるで、何かの痛みに耐えているようでいて、泣くのを堪えているようにも見えた。
「ここに来たのは僕一人、なんだ」
どういう事?
長い沈黙に、泥の跳ねる音だけが響く。
追い風が私たちを追い越して行った。
葉ずれの音が一斉にいて、流れの速い雲が雨雲を呼び寄せる匂いがした。
「死んだんだ。僕のたった一人の兄弟は1年前に、死んだんだ」
「え?」
遠くの方で雷鳴が聞こえた。
春の嵐が山の向こうに迫っているのが伝わってきて、私は思わず立ち止まる。
「僕は、彼の願いを叶える為にここに来たんだよ。希」
振り返った北斗君は、まるで幽霊のような白い顔で、でも、なぜか口元に浮かんでいるのは密やかな笑みだった。