十六話
光が言ってたヤブ医者って言うのは、この町のたった一人のお医者さんで、つい3年前に引退した先生の息子さんだ。まだ大学をでて少ししか経ってないその若いお医者さんは、誤診とかした事ないし……むしろ先代より腕はあるのに、その腰の低さから子どもたちの間では「ヤブ医者」って呼ばれてる。
私達にはお兄ちゃんみたいな大谷先生が光や他の大人達と来たのは、光が行ってからどれくらい経った後だろうか。
実際の時間はわからない。でも、私には永遠にも感じたし、きっとハヤテがいてくれなかったら耐えられなかった。
首なし地蔵が怖かったんじゃない。大切なものを失うかもしれないその事が怖かったのだ。
それからの事は、あんまりよくわからない。
梓のお父さんが飛びついて、梓の名前を何度も呼んで、大谷先生が診察して車に乗せてあっという間に連れて行ってしまった。
大人達のせわしない会話から、たぶんここから1時間ほどの町の大きな病院に連れて行くのだろうって事はわかった。
嵐のような出来事に、私はまだ梓を抱きしめていた場所にペタンと座って、呆然としていた。
「……帰ろう」
光の声に顔を上げる。
頭からぐっしょり濡れた光は、何かを睨みつけるように車の走り去った方を見つめていた。
「大丈夫かな?」
「わからない。でも、これ以上は俺達にはどうしようもない」
きっぱり言い切るその口調は、いつもの光とはまるで違った。
私は心細さにこらえきれず、涙が空から降ってくる雨のようにとめどなく流れはじめた。
本当に……大丈夫かな。息はしてるっていってたけど……。
目を瞑ると、梓の笑顔しか思い出せない。それが、もし永遠にもう見られないのだとしたら、どうしたらいいのだろう。
「きっと大丈夫だよ」
「?!」
今まで耳にしなかった声に、私も光も顔を上げた。
ハヤテはその前から気がついていたのか、身じろぎせずにその方向を見ている。
「今夜は帰った方がいい」
首なし地蔵の向こうの暗闇から、その輪郭がぼんやり浮かび上がる。
白い顔が覗いた。
「北斗……君?」
いつからいたのだろう?
全く気がつかなかった。
まっ黒いレインコートの北斗君は、まるで陶器で出来てるかのような秀麗な顔に、薄笑いにも見える表情で こちらを見ていた。
「お前……いつ」
「さっきだよ。大谷先生の車についてきたんだ。家にも電話あってね、僕なりに探してたんだよ」
まるで何かの台詞を読むような流暢な言葉と一緒に、ゆっくりと砂利を踏んでこちらに歩いてくる。
そして、私に手を伸ばした。
「平気?」
少し濡れた茶色の前髪が、白い額に這っていた。
「うん」
その手を取ろうと伸ばした私の手を、光が掴んだ。
「ハヤテと希は俺が送る」
私を自分の方に引き寄せた光の顔は、ものすごく警戒していた。
北斗君は困ったような顔をして腕を組む。
「良いけど、君は大丈夫なの? その帰り一人にならない?」
「お前こそ危ないんじゃないか? 怖いならお前も送ってやっても良いぜ?」
光はそう挑発的に返した。
明らかに好意的でない二人の空気に、私は戸惑った。
確かに、ここに北斗君がいたのは驚いたけど、こんな言い方ないんじゃない?
去年はこんなんじゃなかった。
光も北斗君とは本当に仲良くて、毎日一緒に遊んでた。
なのに……どうして?
変な沈黙が降りる。
雨音だけが白々しく響いていた。
しばらくして北斗君は小さくため息をつくと、今は光とは話ができないと判断したのか私の方を見た。
「希。心配はわかるけど、今は梓ちゃんの無事を祈ろう。きっと大丈夫」
優しい声とは裏腹に、光から私をひったくると元来た道を行き出した。
「おいっ!」
置いてけぼりの恰好になった光とハヤテが慌てて小走りで追い付いてくる。
「まずは女の子から送ろう。それからハヤテくん。僕たちは……」
北斗君は肩を並べる光の表情を試すように見つめていた。
「一人で帰れるよね? 梓ちゃんみたいに首なし地蔵に首を掴まれる前にさ」
「……」
光はだまって顔をしかめた。
冗談とも本気ともつかないその言葉に、私は去年とは何かが違う、まるで知らない人になったような北斗君の横顔を見つめた。