相手は毒液を吐く巨大ナメクジでした
ここ数日、闘技場の全員が噂していた。
あの荒木鉄斎が十数年ぶりに弟子を取った――しかも、相手はやけに整った顔立ちの少年だった、と。
「まさか老いぼれたか?」「あんなヒョロガリに惚れるなんてな…」
そんな声も聞こえてくるが、当の本人である“ラッキーボーイ”は、自分がすでに周囲の注目と妬みの的になっていることすら知らず、今日も汗だくで拳を振るっていた。
額から頬へ、滴る汗が白い肌を濡らし、地面には水たまりを作っていた。周囲と違い、彼の足元だけやけに色が濃い――どう見ても、汗で床が染みていた。
拳を木柱に叩き込む。ひとつ、またひとつ。
痛み? そんなのもうとっくに麻痺した。
心の中ではこう叫んでいた。
(くそっ、なんで俺が武道なんかやってんだよ!? 本来なら魔法学院に入って、天賦の才で女に囲まれて、財も名誉もゲットする人生じゃなかったのか!?)
「いやぁ、いい素材だ。弟子にして正解だったな」
そんな俺の内心なんて露知らず、荒木鉄斎――師匠は嬉しそうに言った。
「黒牙流は確かに剛拳で知られてるが、型にはまる必要はない。一番大事なのは“ぶっ殺してやる”っていう意志、そして“一撃必殺”の覚悟だ」
「わかってるよ師匠! 俺の意志、今まさにあなたにぶっ壊されかけてますけど!」
こんな元気なく言いたくもなる。
何日も続くゴリゴリおっさんのスパルタ稽古に耐えられるか! 体力はギリギリ持っても、精神が限界なんだよ!
「ふんっ! 小僧、そういう口を聞くのが気に食わん!」
不意に怒った師匠が、回し蹴りをかましてきた!
ドゴォッ!!
俺は壁に叩きつけられる。曰く「打たれ強さを鍛えるため」らしいが、どう見てもこの前の俺の投げ技の報復だ!
「今のうちに鍛えとかねえと、お前すぐに闘技場に出ることになるからな。お前が死ぬのは構わんが、師匠の俺の顔に泥を塗るんじゃねえ!」
「えっ!? 闘技場!?!?」
床に崩れたまま、俺は師匠の脚に抱きついた。
「師匠、マジで勘弁してください! 俺まだ若いんです! 死にたくないっす!」
「ったく……お前、情けねぇな。男なら腹括れ!」
師匠は呆れた顔で言ったが、続けて静かに告げた。
「悠人、お前の実力はもう十分通用する。足りないのは――自信だけだ」
(自信、か……)
俺が闘技場に出たくないのは、自信がないからじゃない。
この数日で、俺はこの“闘技場”という場所の裏側を十分に知ってしまった。
ここは表向きこそ合法的な娯楽施設とされているが、実態は――金、血、そして権力が渦巻く屠殺場。
この場所を支えるのは、たった一つの原理だ。
《賭け》。
奴隷同士の殺し合い、魔物との死闘、人と獣の混戦――すべては金を賭けるための見世物。
死ぬほど苦しんだ方が盛り上がる。血が飛び散るほど金が動く。
強ければスターになる? 違う。目立つほど「調整された試合」で殺されるだけだ。
唯一の生存ルートは、師匠みたいに運営の一部になること――
それだけが、死の輪から逃れる方法。
だから、普通の神経をしてるなら、誰だって闘技場には出たくない。
でも、師匠はそんな俺の懇願など聞く耳持たず、月日は流れて――
秋が来た。
農民たちの収穫が終わり、貴族も課税を終え、皆の財布に少し余裕ができた頃、
人々は“娯楽”を求めて再び闘技場へと足を運ぶ。
暴力とギャンブルは、いつの時代も人の欲望をかき立てる。
そして、闘技場の開幕だ。
「レディーース&ジェントルメーンッ!!」
魔法拡声石で増幅された司会の声が、鼓動のように空に響き渡る。
「本日! 新たなファイターがデビューします!!」
通路の奥、俺は面で顔を隠しながら震えていた。
けど行かねば。もう、逃げられない。
一歩、また一歩と進み、目の前が開ける。観客席は満員。
「お、あれが鉄斎の弟子?」
「顔だけじゃねーか、あんなガリガリじゃすぐ死ぬわ」
「いやいや、もしかして客寄せパンダかもよ?」
笑い声、やじ、冷笑。全部聞こえる。
でも俺は、深呼吸して拳を握った。
(俺は精霊に選ばれた男。生命のギフト持ち。黒牙流の継承者。負けるわけにはいかない!)
だがその直後、鉄格子がゴゴゴッと上がる。
ブワッと襲ってくる鉄臭と悪臭。そして現れたのは――
「っ……おいおい、反則だろ!?」
出てきたのは、灰緑の外殻と腫瘤に覆われた、巨大なウネウネ野郎。
“毒黄蠕虫”――そう呼ばれる魔物だった。
司会の声がまた響く。
「南西の腐毒地帯からやって来た変異魔獣、毒黄蠕虫! その腐蝕性の唾液に触れれば、骨すら溶けるぞォッ!」
観客は沸き上がり、興奮は頂点に達する。
(マジかよ……こんなの、黒牙流じゃ対処できねぇだろ!?)
逃げられない。やるしかない。
「ふぅ……落ち着け、悠人。お前はチート持ちの転生者だ。絶対に勝てる……!」
そう自分に言い聞かせた、その刹那――
シュバッ!
飛んできた緑の液体が、目の前をかすめた!
「チッ、危ねぇ!」
俺は地面を転がり、ぎりぎりで腐食液を回避。
背後では「ジュウウッ」という音と共に白煙が立ち、石床が溶けていた。
「おっ!? 今の反応、悪くねぇぞ!」
「いやいや、あと三手だな、骨スープ行きだ!」
観客が盛り上がる中、俺は考えた。
(こいつ、目が見えてない? ……匂いで追ってきてるのか)
チャンスだ。
俺は舌を噛み、血を吐き出して背後の壁にぶつけた。
血の匂いを嗅ぎ取った蠕虫が、反応し口を開く――
来た!
「黒牙流――断頸撃ッ!!」
ドガァン!!
拳が柔らかい首元にめり込み、肉が破れ、黄緑の体液が弾けた。
俺の腕も衝撃で痺れるが、拳の衝撃は内部にまで届いたはず。
ギィイィ……と蠕虫が悲鳴のような音を発し、崩れ落ちる。
(……次は、俺の番だろうか)
死骸の横で、俺はぼんやりそう思った。
そして――
「勝った! あのガキ、本当に勝ちやがった!!」
「黒牙流、やっぱ殺拳だな!!」
歓声が沸き起こり、会場は歓喜に包まれる。が――
「……あれ? あいつ……何してる?」
静寂。
誰もが見た。
蠕虫の死骸の隣で、俺が――それを喰っていた。
『毒黄蠕虫を捕食した。スキル【毒嚢】を獲得しました。
――体内に毒嚢が形成され、毒液を分泌できるようになります。』