武道家
そんな恐ろしい状況に直面して、エリーは角に縮こまり、小さな身体をぎゅっと抱え込んで震えていた。瞳孔は恐怖で揺れている。
「やだっ!つかまないで!!」
言葉は届かない。太い腕が鉄の鉗子のように彼女を捕らえた。
エリーは叫びながら必死に蹴り、引っかいたが、二人の大男には敵わない。必死の抵抗も虚しく、足を引きずられながら引きずり出された。
「やめろっ!子供に何をするつもりだ!!」
誰も答えない。他の奴隷たちは青ざめ、目を伏せ、祈る者もいたが、誰一人として動こうとはしなかった。
男二人と、少女一人。
エリーがこのまま連れていかれたら、どんな目に遭うのか……想像もしたくない。
彼女にした約束を思い出す。
――絶対に、こんなことは許さない!
奥歯を噛みしめ、手錠を絡ませて力いっぱい引きちぎった。
「このクソ野郎どもが!」
ゴンッという鈍い音。
俺の額が顎髭の大男の顔面にクリーンヒットし、地面に倒れ込んだ。次の瞬間、そいつの腰に差してあった短剣を抜き放つ。
シュッ――
温かくて粘つく血が噴き出し、顔を濡らす。鉄の臭いが鼻を突いたが、不思議と頭は冷静だった。
すべてが一瞬の出来事。もう一人の男がようやく剣を抜こうとしたが――
遅い。
返り血に濡れた短剣を投げつけ、喉元に突き刺す。叫ぶ間もなく、奴は崩れ落ちた。
騒ぎを聞きつけて、さらに多くの兵士たちが駆けつけてくる気配がする。
――もっとヤバいやつらが来るぞ。
「何してんだよ!早く逃げろ!!」
俺の叫びに、奴隷たちがようやく我に返る。
自由を求めるのは人間の本能。彼らは檻を飛び出し、四方に逃げていった。
怯えきったエリーの手を取って、カロの背中に乗せる。
「連れて行け、エリーを守れ!」
「お、お前は……!?」
「俺が時間を稼ぐ!!」
そう言い終える前に、遠くから兵士たちの怒声が響く。
「全員動くな!!」
俺は再び短剣を拾い、血まみれの手で構え直す。
「かかってこいよ、クズどもが!」
馬のいななきと怒鳴り声が、まるで戦場の合奏。
指の隙間から血が滴る。それが誰のものか、もうわからない。
頭がふらつく。殺しの感触と、ありえないほど鋭くなった感覚に、俺は混乱していた。
視覚も聴覚も、反応速度も、明らかに今までの何倍も鋭くなっている。
数人の兵士が、目を血走らせながら襲いかかってきた。
短剣を握り直し、ひとりを斬り倒す。
ドン!
脇腹に銃床がめり込み、数歩よろけたが、それでも踏みとどまる。
「どけぇっ!!」
怒鳴りながら、もう一人を叩き伏せる。
その時、林の方へ逃げていく影が見えた。エリーとカロだ。
――逃げ切ったか……よかった。
だが、運の悪い者もいた。
「うわあああっ!」
奴隷たちの一部が、林の手前で囲まれていた。
助けに行こうとしたその時、背後から体当たりされ、地面に叩きつけられた。
「この野郎、動くな!」
首元に剣を突きつけられ、抵抗をやめる。
視界には、連れ戻された逃亡者たちの姿。
だが、その中にエリーの姿はない。
――それだけでも、救いだ。
「こいつを縛っておけ!明日、街へ連れて行く。高く売れるぞ」
生き延びたことに安堵した瞬間、誰かに髪をつかまれ、頭皮が裂けるかと思った。
「親分、こいつ殺しましょう!仲間の仇です!」
横目で見ると、さっき俺を斬ろうとした男だ。
足でそいつを蹴飛ばして、地面に転がす。
「ぶっ殺してやる!」
鋭い金属音と共に、剣が振り上げられる。
――願わくば、痛みを感じる前に終わってくれ。
だが、その瞬間――
「ゴッ!」
剣が止まった。目を開けると、黒皮甲の男がそいつの手首を掴んでいた。
「こんな逸材を殺してどうする。代わりにお前が売られるか?」
「でも、仲間を殺したんですよ……!」
「わかってる。だが、これ以上の損失は出せない!」
……
こうして俺は再び牢に放り込まれた。
今度は番までつけられてる。そんなに俺が怖いのかよ?
白目を剥きながら呟く。
――タコなら細い隙間からでも逃げられるらしいけど、俺、食べたことないから触手は生えないんだよな。
……
馬車の揺れで目を覚ます。
「寝てんじゃねぇぞ、怠け者ども!」
乱暴な男が俺たちを引きずり出した。
もうここまで来ると、逃げ出そうとする者もいないと判断されたのか。
都市はにぎやかで、人混みにさらされた途端、顔がカッと熱くなった。
俺たちの手錠は一本の縄で繋がれ、例の斬ろうとした男が先頭を引いて歩いている。
――現代人としての尊厳はズタボロだが、俺にはまだ希望がある。
そう、買った相手さえ選べば、脱出なんて造作もない。
マーケットに着くと、買い手たちが次々と近寄ってきた。
じろじろ見られ、ヒソヒソ話され、値段をつけられる。
鞭で服をめくろうとするやつもいれば、俺の周りをぐるぐる回るやつもいた。
――目立ってるのは俺と、もう一人の背が高くて黒い肌の男。
「お、こいつ、顔もまあまあだし……」
「色白で野性味があって……へへっ」
下を向き、何も聞こえないふりをする。だが、手の指が白くなるほど力が入っていた。
その時。
黒革の甲冑を着た、でかくてごつい男が声を張った。
「うちの闘技場で勇士の世話役が足りなくてな。こいつ、ちょうど良さそうだ」
その声は大きくないのに、周囲を黙らせるほどの威圧感があった。
「ふざけるな、入札だろ!10銀レイル出す!」
太っちょの商人が声を上げた。ナイス、デブ!
俺としては、太った商人の家に売られてから逃げるほうがずっと楽だった。
だが次の瞬間、売り手の顔が歪む。
軽蔑ともとれる笑みを浮かべ、あっさり言った。
「売った、闘技場の方に」
黒革男に引き渡され、俺は連れて行かれた。太っちょ商人は怒りで震えている。
振り返ると、売り手の目にあったのは――復讐の快感。
「仲間の仇ってことか……いいさ。やってやるよ」
……
闘技場に到着。
湿った石壁、鉄の枷、汗と鉄錆と微かな血の匂いが混じる空気。
まるで、生き物の胃袋の中みたいだ。
「鎖を外せ」
黒革の男の命令で、手下が力技で手錠を引きちぎる。
力こそパワー……?
「まずは洗え。それから服を選べ」
まるで肉に塩振るみたいな言い方だな。
風呂は冷たい石の浴槽、水はお世辞にも綺麗とは言えない。
汚れを落としながら、施設の構造、警備の人数、脱出経路を思考。
――なんだよ、精霊とか能力とか、全部クソだ。
「おいこら、いつまで洗ってやがる!買ってきたのは見物用じゃねぇぞ!」
鼓膜が震えるほどの怒鳴り声。
俺はタオルを投げつけ、派手に水しぶきを上げた。
「うるせえよ!」
適当に服を着て、濡れた髪を垂らしたまま外へ出る。
そして、目の前の黒革男をにらみつけた。
「オッサン、金を無駄にしたくなきゃ、俺をちゃんと扱えよ?」
一瞬、彼はぽかんとしていた。
そして――
拳が飛んできた。
瞬間、体が熱くなる。
世界の時間がスローモーションに変わったようだった。
「遅い!」
俺はその拳を軽々と受け止め、腰をひねって全身の力を使った。
投げ技――肩越しに大男を地面に叩きつけた。
ドゴン!
土埃が舞い上がり、彼が呻き声を上げた。
どうだ、まいったか。
だが、すぐに爆笑が響いた。
え、頭打っておかしくなった?
彼は倒れたまま笑いながら言った。
「まさか、顔だけの男娼を買ったつもりが……戦士だったとはな!」
……男娼!?
お前、真面目そうに見えて最低だな!
「男娼になれって言うなら、客全員ぶっ殺してやる!」
「いや、そんなもったいないことはしないさ。俺が鍛えてやる。お前を立派な武道家にしてやる!」
――武道家!?
一瞬の沈黙の後、俺は思わず笑った。
胸の奥に、久々に軽い気持ちが広がっていった。
「いいね、それ!」