風よ、俺をここから連れ出してくれ!
木の幹に座るあの少女をぼんやりと見つめていた。彼女は満足そうに軽やかに素足を揺らしている。
「どうやら成功はしなかったみたいね」
「やれるだけやったんだ。あいつは貴族だの威厳だのと言って、自由をあっさり手放しちまったんだ。俺を連れてってくれ!俺のほうが、自由の尊さをよくわかってる!」
「……ちょっと待って」彼女は首を振った。白い髪が風に揺れる。「あの子を助けたのはね、第一に、あの家とは昔から関係があるから。それと、彼は私の弟子だから……」
「俺だって、妹弟子にしてくれ!」
それは──絶対にダメだ。自由のチャンスをただ見逃すわけにはいかない。
「弟子はね、私はかなり厳しいのよ。それに、ペアで行動するのは得意じゃないし。だからごめんね。でも、もし出所してまた私に会えたら、そのときは考えてあげる」
彼女は服の裾を軽く木の幹に擦りつけると、立ち上がった。そのしぐさは、俺の失望を少しでも和らげようというようだ。
これは慈悲?──と思いきや、歯をギリッと噛みしめた。くそったれ、あの女め……お前の口約束なんざいらねぇ!いつか俺が強くなれたら、今日のこの決断を後悔させてやる。
「名前を聞かせてくれ!」
彼女の魔法を放つ仕草がぴたりと止まった。俺を訝しそうに見つめる。
──まさか、出所したあとで本当に俺を探しに来る気か?
「私には名前がないの。正確に言えば、風の魔女は代々、同じ名を受け継いでいるの——シルフィア。愚か者のように呼びたければ、“災厄の風”と呼んでもいいわ」
そう言うと、木の枝にかかっていた魔女帽子を手に取って伸ばし、かぶる。
「そろそろ──お別れの時間ね……」
風が再び吹きすさぶ中、彼女は消えた。──名前の如く、神秘的で気品があり、冷たくて、掴みどころがなかった。
心がぽっかりと空いた。まるで屍のように牢屋へ戻った。
───
「悠人、戻ったか?あの女、何か言ってたか?──おい、てめぇ、殴ってきたのか!?」
戻って意識がはっきりすると、トムが床に転がり、脱臼した顎を押さえながら呻いていた。まったく、俺の無意識が暴走したようだ。本来なら謝らねばならない場面だ。なのに妙に嬉しい自分がいる。だが、表情は心配そうにしながらトムを起こす。
「大丈夫か?悪かった、最近ちょっとな……」
「……いや俺……保健室に……」
「我慢して、今連れてってやる」
痛みに顔をこわばらせても言葉を続けるトムには感心した。行動に移す──彼を支えながら保健室へ向かう。場所を知っているのは、トムが怪我回数の多い常連だからだ。
保健室へ向かう途中、錆と湿ったカビの匂いが漂う。整った監獄施設に驚く──これなら十年くらい平穏に過ごせそうだと考えていた──そのとき、背後で風が止んだ。
──パシッ!
「うぁ──っ」
後頭部に強烈な衝撃。大槌でも振られたかのように意識が飛んだ。支えを失い、トムまでよろめく。
朧げな意識の中で聞こえる罵声。
「こいつ、また余計なことしやがって……」
「尖った奴は潰さないとな……」
──どこかで拍手音。
目を開けると、髭面が間近に。驚き飛び起きる。気づくと椅子に縛りつけられていた。動けない。
顔を近づけていたのは、威厳ある制服を着た男──看守長らしい──だ。場所は牢屋ではなく、窓から光が差し込む豪奢な個室──どうやら彼の執務室だ。
頭痛と首の硬直が気になりながら、恐る恐る視線を上げる。
「起きたか」
声は重く、石板の亀裂から漏れ出るような響き。
「え…あなたは?」
「監獄長のレオン・バグだ」
思わず唾を飲み込む──大した地位だ。
「…いったい何の用ですか?」
「お前──買われたんだよ」
俺は固まる。
「何の意味だ…?」
彼は金糸の封蝋がしてある文書を手に取り、静かに掲げる。
「正当な手続きで、多額の金を払って“お前”を買った奴がいる」
──買われた…俺が?
思考が一瞬止まり、火山のように興奮が湧き上がる。
「最高だ!!やっと俺の価値に気づく奴が現れた!」
「……」監獄長の声が低く響く。
「口を閉じろ」
威圧的だ──廊下でも吸引力を感じる。
「外へ出る気など起こさないほうがいい」
彼は一歩前に出て、俯きながら口元に不気味な笑みを浮かべた。
「お前…どういうつもりだ?」
「選択肢は二つだ」指を二本立てる。「一つ──買い手を断ってここに残る。安寧と牢飯の日々を続ける。二つ──外へ出る。ただし、お前の可愛い同房者──トム・ダーシーが、トイレで『事故死』するぞ」
──俺は呆然とした。
「狂ってるのか?これは脅迫じゃないのか!」
「選択肢だ」レオンは身を乗り出し、目の前で囁く。
「俺は尖ったやつを嫌う。奢った奴も嫌いだ。お前の運命は既に決まっている。誰も変えられない」
深呼吸し、黙った。言葉からすべてが読み取れる。
「フィードが裏で糸を引いてるのか?」
「俺は頭の良いやつが嫌いだな、奴隷なんてなおさらだ」
──やっぱり。
「どんな脅迫でも俺は──第三の選択を選ぶ。それは自由だ」
その言葉とともに、全身に力を込めて縛を断ち、立ち上がる。目線で見下ろすように構える。
「商品扱いされるのは癪だけど、買い手だって相当の権力者に違いない。でなきゃ今ここで口説きに来る理由もない。そうですね、監獄長殿」
鋭い目つきが彼を射抜く。小心者なら失禁しかねない。俺でさえ凍りつく。最後に彼は目を閉じ、腰の大鎌に手をかけた──殺意ではない。俺が自分の意思を示したから、抑制可能だと確認しただけのようだ。
「才覚とは驚きだな……だが、トムはどうする?お前が本気なら奴を見殺しにできるか?」
「彼は貴族だ。伯爵家の子弟だ」
──それに対し彼は無言で長く視線を合わせた後、ようやく溜息交じりに言った。
「向こうの右の通路──三つ目の部屋へ行け。お前の“主”が待っている」
“主”──その響きに強い皮肉が込められていたが、今の俺にはもう気にならない。俺が望むのはただひとつ──この監獄を出ることだ。奴隷にされようと、喜んで飛び込む。
ドアを開け、全力で走った。
「さらばだ!」