そっと近づく距離
なんだよ、そんな言い方……ひどくないか?
あんなクールなお嬢様が、ちょっと露出のある服なんて着たら、きっと恥ずかしがるに違いない。……いや、むしろ俺にとっては眼福だな。そう思った瞬間、心の奥からムクムクといたずら心が湧いてきて、もう抑えられなくなっていた。
「絵里子お嬢様、一着選ばせてくださいよ。お礼ってことで!」
「……しょうがないわね。そこまで期待されたら断れないじゃない。あなたの下心くらい、見え見えなんだから。やりすぎないでよ?」
期待なんかしてませんよ!? でももう承諾しちゃったなら、あとは俺のターンだ。ふふふ——。
「安心してください、全力で選びます!」
そう言って、女性用コーナーに直行する。どの服も展示品のように丁寧に掛けられていて、眩しいほど豪華だ。店内を何度も行き来して、どれにすればいいか分からなくなってしまった。でも……どれも似合いそうで、想像するだけでニヤけそうになる。
「女性を待たせるなんて、マナー違反よ?」
遠くから二人の声が、ちょうど僕たちに届くくらいの距離で聞こえた。
「……あの人誰だ?」
「王都の姫様じゃない?あんなに綺麗でいいの?」
「うわ……あのスタイル、あのオーラ、完全に貴族のお嬢様だろう?」
「あの男は誰だ?彼氏か?」
「くそっ!なんて運がいい奴だ!」
おい!聞こえてるぞ!それに、俺は彼氏じゃないからな!
立ち上がって説明したいけど、腰が痛い……いや、痛すぎる。
「……絵里子様、いつから人を掴むのが得意になったんですか?」
「あなたが立とうとした時からよ……なに、説明でもしたいの?」
俺の金で買い物しておいて、しかも責任逃れ?ありえない!
「手を繋いで。」
「え?」
「そ、その……太もも触るのはやめてよ!」彼女は顔を赤らめて、怒ったような口調で言った。
「ごめん。」
位置を合わせて、やっとその柔らかく骨のない手を掴んだ。奈緒の手がひんやり爽やかだとしたら、絵里子の手は極上の温かみを感じる。
もし俺を誘惑しているなら、30秒もたたずに“ぽっ”と終わっていただろう……。
「お客様!」
声が僕の妄想を引き戻した。気がつくとレジの前にいて、店員の変な目線を浴びている。
……俺の顔が変だったのか?男性が支払うと思われた?「お金がない」とは言いにくいな。
「私が払うわ!」
その声はまるで天の音のようだった。
「私が着ているこの服を、セットで注文したいの。お願いします。」
そして彼女は僕の方を見て言った。
「あなたも欲しい?」
「いいの?」
店員は僕を別の部屋に案内した。そこは柔らかな照明が灯り、壁には様々な裁断道具や布の見本が掛かっている。中央には黒のロングドレスを着て、髪をきっちりまとめた女性デザイナーが、軍人のように厳しい目で僕を見ていた。
「脱いで。」
「え?」
「上着を脱いで。誤差は嫌いだ。」
彼女は測定用の眼鏡をかけ、柔らかいメジャーを手に一歩ずつ近づいてくる。僕はその場に立ち尽くし、思考は昔学校での生活へと飛んだ。彼女の顔が、僕が最も恐れていたあの教師の顔と重なっていく。
「緊張してる?」
「そんなことないです。ただ……迷惑に思われたらと……」
「うるさい。」
メジャーが肩から首筋にすっと触れ、その冷たさはまるで罰のようだった。
動けなかった。
彼女は測りながら小声で言った。
「さすが鍛えてる……筋肉のバランスが良いわ。ラインも綺麗。」
誇るべきか、恥じるべきか分からない。
「でも、なんでこんなに髪が長いの?」
彼女は僕の後ろに回り、指で髪をかき分け、優しく一束にまとめた。
「髪にこだわりはないの?」
「ないです。」
確かにこだわりはない。僕は髪を命の一部のように考えるタイプじゃない。
友達も家族もいない。誰かのために身なりを整える必要もないから、気づけば髪がこんなに伸びていたのだ。
「切るわよ!」
「え?今?」
彼女は行動派らしく、まるで手品のようにハサミとコームを手にした。
「魔術師?」
「当たり。魔術師も私の肩書きの一つよ。」
カチッ!
一本目の髪が切られ、僕の目の前でひらりと舞い落ちる。空中にゆっくり優雅な弧を描いた。
チョキチョキと鋏の音が続き、髪が次々と床に落ちていく。
彼女に髪を切ってもらうのは至福の時間だ。視覚、聴覚、触覚すべてが心地いい。頭皮がひんやりし、言いようのない爽快感があった。
耳の後ろが軽くなり、首も楽になり、視界まで広くなった気がした。
「……いいわね。」
彼女は目を細めて顎に手をあて、一周回って言った。
「もう少し毛先を軽くすれば、もっと軽やかに見えるわよ。」
「おまかせします。」
僕はすっかり彼女に惚れ込んでいた。あの切れ味鋭い仕事ぶりも、卓越した技術も。
この人はいつも端正で優雅なのに、時々言葉のナイフが刺さるのがずるい。とりあえず手に取った一着を持って戻る。俺のセンスに期待はできないけど、絵里子お嬢様なら、どんな服でも着こなしてしまうだろう!
その服を渡した瞬間、彼女の表情が一瞬固まる。唇を噛みしめて、なにやら複雑な顔。
……やっぱダメだったか? 俺のオタクセンス、やっぱ災害レベルか?
「本当にこれを着てほしいの?」
「え? だ、だめ?」
「……いいわよ」
絵里子はため息をついて、カーテンの奥へと姿を消した。
まさか異世界の服屋が、地球とほとんど同じとは。
女の子と買い物するのって疲れるって聞いたけど、ぜんぜんそんなことない。むしろ楽しい。絵里子お嬢様って、他の女の子と違って、いつも目的がはっきりしてて、凛としてるし、スタイルも抜群だし。
カサカサと着替える音が聞こえるたびに、俺の妄想も勝手に加速していく。やばい、どんどん期待値上がってる……出てくるのはどんな絵里子だ? 恥ずかしがって顔を赤くしてる? それとも、大人の色気爆発で理性崩壊コース!? だめだ、やめろ俺! 鼻血出る前に止まれ!
そんな妄想渦巻く中、次の瞬間——世界がスローモーションに入った。
カーテンがゆっくり開き——
深紅と金糸が交差するドレスが現れた。ウエストがキュッと絞られ、まるで彫刻のような曲線を描いている。胸元のカットは絶妙で、過剰じゃないのに破壊力抜群。肩から垂れるシースルーの羽のような布、ふわりと広がるスカートの裾から覗く白く長い脚。ヒールが床に軽く音を立てるたび、まるで交響曲の序章みたいだ。
髪はアップにまとめられ、こぼれた前髪が頬にかかり、完璧な横顔と白い首筋を引き立てている。
誰かの「スーッ」という息を呑む音が聞こえた。もう一人の客のアメ玉がポロリと落ちたのも見た。
彼女が歩くたび、この世の彩度が全部彼女に集中していくみたいで、背景が一気にモノクロになった。
「……キ、キレイすぎる……」
気づいたら声に出てた。頭の中が真っ白になって、まるでこの瞬間を焼き付けるかのように、俺の視界は彼女でいっぱいになっていた。
遠くの風鈴がチリンと鳴って、ようやく現実に戻る。
……信じられない。こんなに見惚れる美しさって本当に存在するんだ。俺は数々の写真集(主に水着)を見てきた猛者だって自負してたのに……今この瞬間、美に屈してしまった。
彼女がゆっくり近づいてきて、ニヤッと笑う。
……バレた? これは……やばい、優位に立てない! 奈緒にどう顔向けすればいいんだ!?
「ねえ、もしかして見惚れた? 私ってそんなにキレイ?」
コクリと頷く俺。彼女は気にする様子もなく、あるいは当然という顔で続けた。
「この服……ちょっとウエストきついわね」
「じゃ、じゃあ別のに——」
この破壊力は高すぎる! 視覚兵器ってレベルじゃない! 今、渋谷の交差点に立たせたら確実に交通マヒだぞ!?
「いいえ、変えないわ」彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
「どうせ払うのはあなたでしょ? 文句は言わせないわ。でも、そろそろ出ましょうか」