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王手

 自分はきっと、愚かなのだろう。

ヴァルファムはただ静かな気持ちで面前の父親に対した。

そう、愚かで――どうしようもない。


心はきっと、いつも同じ場に還る。


 ファティナと共に生きるのであれば、他のどんなことでも受け入れることができる。結局、全てはそこに終着するのだ。

 毒の入る小瓶を前に、ヴァルツは楽しそうに唇に笑みを浮かべ、興味深い様子で自らの息子を見上げてくる。

 殺せるものであればいっそ殺してしまいたい。自分の手からファティナを奪う元凶。

名実ともにファティナの夫であった男。

この男と離縁したところで、ヴァルファムがファティナと生きる道は無い。ヴァルツとファティナが夫婦であった現実は変わらず、そして一時といえど親子であったものがそれ以上の関係を結ぶことは教会法によって許されることではない。

 離縁してその親子という薄氷のような縁が切れるくらいであれば――いっそ。


「お飲みになられますか?」

「老兵は去れとでも言うつもりか?」

「邪魔ですから」


 あっさりといえば、ヴァルツは耐えられなくなったというように喉の奥を鳴らした。

破顔したのだ。

父親が楽しそうにしている姿など見たくもない。

ヴァルファムは淡々と言葉を続けた。

「それができないのであれば、どうぞ離縁の撤回を」

「グレイフィードの姫のことでおまえに意見など求めておらん」

 ヴァルツはさも愉快そうに瞳を眇めて息子を見上げ、ついでテーブルの上に置かれた小瓶をつまみあげた。

 薄い紫色をした優美な小瓶の中、とろりとした液体が揺れる。いっそ酒にでも混ぜて知らぬふりをして飲ませてやりたい程だが、しかし――ヴァルファムの矜持がそれを許しはしなかった。

 正攻法など糞喰らえ。

だが、この男を殺すのであれば正面から殺す。


「あれではあまりにあの方がお可哀想だ」

「可哀想? 愚かなことを言うな。こんな場に留めておくことなど元より考えておらぬ。あれは未だ二十歳前だ――身辺を整え、領地を守り、誰にもそしられぬ女伯爵になることを定められた姫だ。

貴様のような愚かしい考えでその身に鎖をつけるな」


「本気でおっしゃっているのか?

義母うえの双肩にそのような重責、耐えられる訳がないっ」

「だからこそ、早々に次の婿をあてがい補佐に回す。それだけの下地を用意していないとでも?」

 婿、という言葉にヴァルファムはそれまで冷静さを保っていたものがぶち切れそうになるのを感じた。

 そんなものをファティナにあてがうつもりならば、まだこの面前の腹立たしい男が夫であるほうが千倍もマシだ。

 ファティナの夫!

義理とはいえ息子となった自分には決して許されないその地位。

乾いた笑いが肩を揺らし、ヴァルファムはぎしりと奥歯をかみ締めた。

「年寄りのヒヒ親父に捨てられた出戻りなど、誰が欲しがる」

「ご安心ください」

 突然割った声に揶揄を汲み取り、ヴァルファムは勢いをつけて振り返った。


 そこに立つのは、満面の笑みを浮かべた狡猾そうなカディル・ソルド――その手には一通の封書をこれ見よがしに振って見せる。

 何がおかしいのか、その口元に刻む笑みが腹立たしい。

「ソルド、貴様は呼んではいない」

 重苦しい口調での叱責を、ソルドは笑みと共に流した。

「失礼いたしました。ただ、ヴァルツ様に今ひとつお話があったのですが……不穏なご様子でしたので、僭越とは思いますが失礼させていただきました」

 ソルドはちらりとヴァルファムへと視線を送り、笑みを深めてヴァルツへと頭を下げた。

「安心しろとはどういう意味だ」

 二人の会話に不愉快を隠さずにヴァルファムが低く言葉をねじこめば、カディル・ソルドは実に楽しげに肩をすくめた。


「たとえ姫君が出戻りでございましても、私はまったく気に致しません。そう、たとえ、ヴァルファム様、貴方様のお手つきであったとしても私はまったく気に致しません」

 その言葉に更に体温があがるのを感じたヴァルファムがぐっと拳を握り締めると、冷水でも浴びせるようにカディル・ソルドは続けた。


「この婚姻は元より白き婚姻――神の御前にて婚姻の当初よりそのように(・・・・・)承認されたものです。司祭と、そして私自身とを証人として定められたもの。何の為にヴァルツ様が一定以上姫君と同じ場に居ないことを示してこられたか。そのような努力すらご承知では無いようだ。

 離縁の承認と共にこの婚姻自体が抹消されます。あの方には傷ひとつありはしない」

 カディルは得意げに口にし、呆気にとられて自分を見ているヴァルファムを見返した。


「父上――」

「なんだ」

「今の話は、真実でございますか?」


 ゆっくりと確認するように呟かれる言葉に、ヴァルツはどさりと自らの背を背もたれに預けて前髪をかきあげた。

 今、まさに自らのうちの盤面が狂ったことにヴァルツの内に不快さがにじみ、湧き上がる。全ての駒は定められた通りに進む筈であった。

 だというのに、まさか自らの僧正がこれほどに愚かであろうとは思ってもいなかった。


「その通りだ」

「教会に残された記録そのものが、抹消される?」

「私が姫と婚姻したのは、その財産、領地を守る為のものだ。彼女の何ひとつといえど損なうことは本意ではない」 

 忌々しい気持ちでヴァルツが告げれば、それまで怒りを内包していた筈の息子は睨んでいたカディルから視線を逸らし、口の端に笑みを浮かべた。


「前言は撤回いたします」

「そうくるか」

「――どうぞ離縁なり何なりご自由に」

 ヴァルファムはかつりと長靴の音をさせて身を翻し、かつかつと扉まで歩むとふと思い出したように言葉を残した。

「父上」

「なんだ」

「不肖の息子で申し訳ありませんが、あとのことはエイリクに御命じつけ下さい」

 軽快に出て行く息子の背を見送り、唖然としているカディル・ソルドの姿にヴァルツは怒鳴りつけた。


「この愚か者がっ! 言わずにおけばよいものを!」

「なっ……」

 すでに皮算用のみで有頂天にでもたっていたのか、カディル・ソルドは怒鳴られたことに息を詰めた。

――しかし、瞬時に自らが犯した失態が足底から這い登る。

得意げに言ってしまった言葉が、ヴァルファムに自由を与えたのだということに気づかされたのだろう。

――親子という教会法に縛られた関係を断ち切ってしまったのは、誰でないカディルである。

 ぞわりと身に振るえが走り、懇願するようにヴァルツを見返した。

「自らの首を絞めたことに気づいたとて、今更遅いっ――貴様のせいで跡取りを失ったではないか」

「そんな馬鹿なっ。ヴァルファムは、あの男は跡取りではありませんか。貴方様が許されない限り勝手が通る訳が……ヴァルツ様っ、貴方様が私に姫をお与えくださるというから、私はこの三年以上の年月を貴方様の命令通りに仕えて来たのですっ」

「黙れっ。

元より貴様に決定権など与えてなどおらん。いついかなる時も――決めるのはグレイフィードの姫だ」

「ヴァルツ様っ。そんなことを納得できる訳がない」

「貴様がしでかしたヘマなど知るか」


 力任せに執務机を叩き、ヴァルツはぎしりと奥歯をかみ締め――肺の底に溜まった息を一息に吐き出した。

 カディルが手の中の書類をぐしゃりと握りこむ。

それをどうにかしたところで、同じものはすでに教会だ。どうにもならないことなど承知しているだろう。

 憎しみを込めた眼差しを冷たく見返せば、カディルは憎しみに染まった青ざめた表情で、ぐっと身を翻した。


「まったく……小物が」

くだらん。

 吐き捨て、ヴァルツはくるりと身を反転させて窓の下――屋敷の左翼階下に視線を向けた。


――盤面は覆された。

 ふっと口元がゆるむのは……こうなることもどこかで見越していたからに違いない。

『うそつき』


「そなたなら――そう言うだろうな」


***


 ファティナは少しばかり落ち着いた様子で、両手でささげ持つ紅茶のカップに、ふーふーと息を吹きかけた。

「これは、独り言ですけれど」

 前置きとしてそう告げて、そっと囁くように続ける。

「旦那様がほんとうにお好きだったのは――琥珀の瞳の方だったのだと思うのです」

 幾度かあった妻の瞳の色など知らず、あの方は先入観で琥珀の宝石を送り続けた。当然、ファティナの瞳が琥珀であると信じて。


「正面から視線を合わせた時、あの方の瞳に動揺がありましたのよ。きっとわたくしの瞳が父様譲りの翡翠であることは、考えにも及ばなかったのだと思うのです」

 ふふっと笑うファティナは、すでに先ほどまでの激情など持ち合わせていなかった。

「わたくし、はじめから適わぬ恋をしておりましたのね」

 切なく呟いた言葉に、クレオールはただ半眼を伏せて言葉を聞いていた。

ファティナは独り言だと言った。ならばその独り言に優しい言葉など求めてもいないだろう。

 そして話を切り替えるように、ファティナは微笑した。


「クレオが、グレイフィードに一緒に行ってくれるのはとっても心強いですわ」

「私が奥様――ファティナ様の御前を離れるとお思いになられましたか?」

 戯言のように口にすれば、ファティナは少しばかり考えるようにして小首をかしげ、半眼を伏せた。

「……女伯爵なんて、どうすれば判りませんけれど、それでもお父様やお母様が残してくれた領地ですものね。わたくしきっと精一杯がんばりますわ。クレオは手伝ってくださいますわよね?」

 そしてふふっと笑った。

「失恋の傷をお仕事で癒すのです」

 クレオールは主の姿に気丈なフリをしなくても良いのですよ、と優しく声をかけながらその瞳を重ね合わせた。

 泣きはらした目も、未だその面影を残している。

それでも自分には面前の人を心いくまで泣かせてあげることが叶わないことは理解しているが、せめて強がらずに自然体でいてほしかった。


「ヴァルファム様はお優しいから、旦那様を説得して下さるなんておっしゃるけれど、到底もう無理であることは理解しているのです。だって、あの方ときたら――頑固なのですもの。そうでしょう? だって、ヴァルファム様のお父様でいらっしゃいますもの」

 くすくすと笑ってみせるファティナに、クレオールは少しだけ安堵して微笑んだ。軽い冗談が口に出せるのであれば、主はすぐに立ち直る。

 あとは――もう自分の仕事ではない。


「義母うえ」

普段の冷静さを忘れているこの屋敷の主は、入室の挨拶など必要としては居なかった。

 珍しく廊下を走ってファティナを探していたと思わせるヴァルファムは、乱れた前髪をかきあげ、両開きの二枚扉を開け放って入室すると、大またで窓辺にいるファティナへと近づいた。

「どうして部屋におられなかったのですか」

 乱暴な口調で言うヴァルファムに、ファティナは普段と同じように対した。

「部屋の扉は今壊れていますもの。寒いのですわよね?」

 同意を求めるようにクレオールへとうなずいてみせるファティナに、クレオールは口元にうっすらと笑みを貼り付けた。

「さようでございます」

 暗にヴァルファムが扉を破壊したことをほのめかす二人に、ヴァルファムは顔を顰めた。

「どれくらい探したと思いますか」

 ヴァルファムは決まり悪い様子で言いながらつかつかとファティナの座る席の前に立つと、そこに膝をついた。


「義母うえ、父の説得は叶いませんでした」

 さらりと言うが、実際は途中で放棄したのだ。

説得などもうどうでもいい。

むしろ、離縁を覆される訳にはいかない。

 ファティナはヴァルファムの言葉に淡い笑みを浮かべ「もう、よろしいのですよ。もとより判っておりましたから――それでも、ヴァルファム様のお優しい気持ちだけはちゃんとわたくしにも届いておりますよ」

 ファティナは優しく、柔らかく言いながら、手にあったカップを自分の横で控えているクレオールへと手渡した。


「今までとても言葉では言い尽くせない程にご迷惑をお掛けいたしました。近くわたくしはここを引き払うことになりますけれど、どうかご健勝で――素敵な花嫁様を見つけてくださいませね」

 しんみりとした口調で告げながら、ファティナは自らの心の痛手に目を伏せた。

離縁とは、とても多くのことを失うことなのだ。

この優しい日々を、巨大なる庇護者を。そして誰よりも優しい義息を。

 せつない気持ちに蓋をして、それでもなんとか笑ってみせようとするファティナは、しかし次の瞬間ぎゅっと両手を大きな手のひらに包まれた。


「義母うえ――いえ」


 彼女の義息はひざまずいたまま、ファティナの両手を自らの手で包み込み、その翡翠の眼差しをまっすぐに見つめた。

「ファティナ。約束をたがえるおつもりですか?」

 切り込む言葉に、ファティナの中に動揺が生まれた。

二人の間で交わした約束を、破ってしまう。

そのことについてはすでに謝罪をしたつもりだった。

泣きながら、確かにとても理性的な場であったとは決していえないけれど。


「でも、それは……」

「約束を破ったら、お仕置きがまっているのですよ?」

「だから、それは――仕方ないではありませんかっ」

 ファティナはお仕置きという言葉に動揺し、慌てて救いを求めるようにクレオールへと視線を向けようとしたが、ヴァルファムの手がつっと上がり――ファティナの頬に触れてその視線を固定した。

 決して他のものなど見ないように。


「駄目です」

「わたくしだって、イヤなのです。ヴァルファム様――わたくしだって、一緒にいたいと願っております。けれど、仕方ありませんでしょう? こればかりは、わたくしにはどうしようもっ」

「お仕置きしないと駄目そうですね」

 やれやれ、と溜息を落し、彼女の義息は淡い微笑をこぼしてファティナの唇に自らの唇をそっと押し当てた。


「私の花嫁におなりなさい」

 意表をつく言葉に、ファティナはますますその瞳を見開いた。


「なに、言っていらっしゃるの?」

――だって、わたくしと貴方は婚姻などできる筈が無い。

そう続ける唇にもう一度触れて、ヴァルファムはファティナを強くその腕の中に閉じ込めた。


「父との婚姻の事実は抹消されます――貴女と私が親子であるという記録は抹消される。はじめて父を尊敬してもいい気持ちになりましたよ。

教会法などもとより関係がない」


強く、強く抱きしめて。


「なら、愛しい人。何の障害もない。

愛しています。ずっと、ずっと誰よりもあなたを」


――私の妻に、そして私を女伯爵の夫にして下さい。



その声を掻き消したのは、二発の銃声と、そして……窓ガラスの割れる音だった。




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