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騎士

 メアリ女史の心配気な声とノックの音をどこか遠い場所で聞きながら、ファティナは自室の寝椅子に身を横たえ、空虚で寒々しい自分の内側に笑みを落とした。


――これはきっと罰なのだ。


 愛していると口にし続けた過ちに対して、下される罰。

愛など知らぬのに。

愛していると嘘をつき続けた自分に下される罰。

嘘では無い。嘘の筈は無い。自分は確かに旦那様を愛していた――ただ、愛とは何か結局判らなかっただけ。


「愛しているわ」


 最後のあの日。

母と父とが旅たつあの日。母はぎゅっと自分を抱きしめて囁いた。

――くすぐったくて、あたたかくて、でも不思議だった。


 愛しているのなら、どうして共に居てくれないのか。

だから夫になるというあの人に、一人になりたくないのだと願った。

願いは叶えられ、思いは砕かれた。

 夫はわたくしを一人にはしなかった――それが愛なのだと、ずっと、ずっと、そう信じ込もうとしていた。

 信じたかった。

信じて、いたかった。


 こみ上げてくるものを、ファティナは押し殺すのを止めた。

喉の奥で何かがつかえ、肩が振るえ、涙が落ちる。

泣く資格すら、自分には無いというのに。


「義母うえ」


 突然、閉ざした扉の向こうから掛けられた言葉にファティナは翡翠の瞳を見開き、胸を押さえて呼吸を止めた。

 聞きたかったのか、聞きたくなかったのか判らない。

幻聴かと一瞬思ったその声は、けれど確かに良く知るもの。


「義母うえ。よろしいですか?」


 それまではずっと家庭教師であるメアリ女史と、そして犬のパールの声が聞こえていた。だが、今、重厚な二枚扉の向こうでドアを叩くのは慣れ親しんだ唯一の声。

 ファティナは自分の胸元をぎゅっとつかみ、泣き笑いの顔でゆっくりと首を振った。

 ぼろぼろと無様に涙が零れ落ち、声はかすれて音にすらならない。


――ヴァルファム様……


 胸に去来したのは、痛み。

もう義母うえと優しく言われることもない。何故なら、自分はもう……義母ですらないのだから。


「ごめ……な、さい」

 搾り出した言葉は、扉の向こうの義息に届くような大きさにはならなかった。それでも、必死にファティナは笑って言うしかない。


「ごめんなさい……約束は、守れない、みたいです」


――ずっと共にいると言ったもう一人の大事な人。


 激しく扉を叩く音に苛立ちが含まれる。

それでも内側から施錠された扉がびくりともしないことに諦めたのか、激しいノックの音がやむとファティナは安堵するような、切ないような気持ちを抱いた。

 だが、それもつかの間。


「義母うえっ。扉の前にはいませんね? いるというならどきなさい」

 怒鳴るような言葉の後、続く五から始まるカウントダウンにファティナが濡れた睫を振るわせると、最後のゼロと同時――激しい銃声がその場を(つんざ)いた。


「……」


 鼓膜を震わせる痛むような耳鳴り。

扉を蹴倒す勢いで無遠慮に義母の部屋へと入り込んだ義息は瞳を怒らせ、づかづかと足音をさせて近づくと、未だ熱を持つ短銃をその場に放り出しファティナを睨みつけた。


「さぁ、あの腐れ親父に何をされたか素直に吐きなさい」


――冷ややかに怒りを見せ付けるヴァルファムを唖然と見上げ、ファティナは幾度も瞳を瞬いて、やがて心からの微笑を浮かべた。


「ヴァルファム様、扉が壊れてしまいました」

「壊しましたからね」

「修理が大変ですわ」

「……ほかに言うことは?」


 口の端を引きつらせ、涙でぼろぼろになったファティナを睨みつけながら低く言うヴァルファムに、ファティナはゆっくりと深呼吸してから口を開いた。


「離縁――されてしまいました」


 遠くの的を撃つのと違い、数十インチの距離を撃ち抜く時の反響音は今も耳の奥でキーンという音と共に不快感を放つ。

 だが、ファティナが微笑を浮かべて言う言葉をヴァルファムは取り落とすようなことはしなかった。


 泣きはらした赤い目で、頬をぬらして、彼女は笑う。


笑いながら、その瞳からどこまでも透明な涙をつっと流しながら。


「離縁――されてしまいました」


 それは喜びではなく、驚愕としてヴァルファムの胸を撃ち抜いた。

口元には笑みを、けれどファティナは潜めた眉根の下、翡翠の瞳をぬらす。

「義母、うえ……」

「わたくし、政略結婚でも良かったのです。財産なんて、そんなあるか無いのか判らないものや、爵位だとか……旦那様が、そういった諸々のものを目当てにわたくしと結婚したのだとしても、わたくしがお役にたてるのであれば、むしろ嬉しかったのです」


 ファティナはふっと遠くを見つめるようにして瞳を細め、吐息のように囁いた。

「わたくしの何かが旦那様のお役に立てるなら、それだけで構わなかった」

「義母うえ?」

 どこか痛々しい語り口に、ヴァルファムはそれまで抱えていた怒りの矛先を失い、戸惑うようにファティナへと呼びかけたが、ファティナはヴァルファムの言葉を耳にしては居なかった。


――何故なら、それは懺悔であったから。

 ファティナはヴァルファムを前に自らの罪を告白する一匹の羊であったのだから。

ファティナは泣き笑いの顔で、ただ淡々と告げた。


「でも……要らないのですって。

財産も爵位も。わたくしも――あの方は、何一つ、要らないのですって……」

感情の高まりのまま、ファティナは突然声を荒げていた。


「離婚にあたって旦那様の財産の一部をわたくしの名義にして下さるのですって。わたくしの領地の為に、港町を有する領地を下さるのですって」

 だんだんと引きつるような声が、やがて悲鳴に変わった。


「旦那様なんて大嫌い!」


 大嫌い、大嫌い、大嫌い!

それは癇癪を起こした子供そのままに、ファティナは寝椅子に置かれたクッションをばんばんと大きく振り回して叫んだ。


 わたくしはあの方にとって何の意味もない!


「でも、でもっ!

わたくしは、わたくしが一番大嫌いっ」

 

 クッションが破れ、辺りに純白の羽根が舞い上がる。

その中心で置き去りにされた子供のように泣き喚くファティナを、ヴァルファムはとっさに手を伸ばし、その腕の中に抱きしめた。


 胸が痛い。


大嫌いと叫ぶその言葉が、全て真逆に胸に響く。

彼女の言葉が、叫びが、まるで鋭い切っ先のように切り付ける。


「私は――」


 強く、強く。

骨すら折ってしまいそうな程に強く抱きしめれば――

「私は、あなたが大好きです」

 この気持ちを、この想いを、全て届けることができるだろうか。


「私はあなたが大好きだから。だから」

 腕の中で暴れる愛しい貴女が望むなら。

――あの男の妻でなくなることが辛いと泣くのであれば。


「父を説得してみせましょう」


大好きな、あなたのために……


***


 新たに作成される書類にサインをしながら、ヴァルツは執務机の前で直立不動で立つ男を見上げた。

「紹介状は必要か?」

「出して頂けるのであればいただきますが、無いとしても構いません」

「そうか。判った」

 揶揄するように言うヴァルツに、クレオールは視線を伏せた。そして、それを更にからかうようにカディル・ソルドが口を挟んだ。


「紹介状くらいは貰っておいたほうがいい。いくら私でも適性ではじくこともある」

 その言葉にクレオールは微動だにしなかったが、ヴァルツのほうが肩をすくめ、座っている椅子の肘掛を指先で弾いた。

「クレオール、おまえの仕事には敬意を払う。今まで良く仕えてくれた――退職金はもちろん、何か望むことがあれば言うがいい」

「では」

 クレオールはちらりと一瞬だけカディルへと視線を走らせたが、すぐにヴァルツへと視線を戻し、軽く一礼した。

「グレイフィードの家令になれるようお口添え頂けるとよろしいのですが」

 さらりと出た言葉に、カディルは笑みを深めたが、ヴァルツは喉の奥を鳴らし、その視線をカディルへと向けた。


「カディル、どう思うか?」

「ヴァルツ様に異存がなければ、よろしいのではないでしょうか。グレイフィードの家令の席が丁度あくところですし」

「ということだ。ファティナも気心の知れたおまえのほうが喜ぶだろう。グレイフィードの領地についての書類は全て揃っている。早々に目を通し、カディルに成り代わりファティナの補佐に入れ」

 ヴァルツの言葉にクレオールはただ静かに頭を下げ、部屋を辞した。

「素晴らしい決断だ。姫君もきっとお喜びになられる。私も有能な家令を手にできて嬉しい限りだね」

 同時に退出を願い出たカディルは、気安い様子でクレオールの肩をぽんぽんっと叩いたが、その手をクレオールは冷たく払いのけた。


「私の主はファティナ様であってあなたではありません」

「生意気な口は利かないほうがいいな。誰が主人か、はっきりと言わないと判らないという訳かい」

 

 カディルは手の中にある幾つかの書類を抱えなおし、相手を痛めつける呪文とでも言うように冷ややかな口調で言い放った。

「姫君は離縁された。もうヴァルツ様の妻ではないんだ――これからは御領地に戻られて新しい夫と共に領地を治めることになる。つまり、私とね?」

 自信たっぷりの言葉に、クレオールは数秒の間面前のカディルを眺めていたが、やがて口元に皮肉な笑みを浮かべてみせた。

「その日が来ることをお待ち致しましょう」


***


 一つ息をつき、ヴァルツはぎしりと椅子の背もたれに全体重を預けた。

何事も終わりとは呆気のないものだ。

始まりは唐突であったというのに、終わりは整えられたとおりに進む。

 思いのほか長くかかってしまったが。

もとよりこちこちに頭の固い議会の阿呆共を動かすことは並大抵のことではないと知れていた。余計にかかった月日があったとしても、終焉は変わることなく訪れる。


「――筈なのだがな」

 額を指先で揉むようにして、ヴァルツは不愉快そうにつぶやいた。

「おまえまで未だ何用か」

 入室の許諾も得ずに無遠慮に扉を開き、かつかつと執務机の前に立つ彼の息子は、やけに静かな空気をまとってその場に立ち、おもむろに自らの上着の隠しから、小さな小瓶を引き出した。


 ことりと置かれた瓶は、一見すれば女性が好む香水のようにも見える。

だが、それがどういうものであるのかヴァルツには言われずとも理解できた。


「お飲みになりますか?」


 ヴァルファムの問いかけに、ヴァルツは口元を緩めた。



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