僧正
パシリと乾いた音が理性を促した――
自分は今、いったい何をしてしまったのか。
面前にはクレオール。
その頬に赤みがあるのは、たった今、自分が咄嗟に手をあげてしまった現実だ。
ヴァルファムは息を飲み込み、面前の沈着冷静な男を見返した。
どうしてこんなことになってしまったのか。それを自分の中で考えるより先に、相手の口は淡々としたいつもの調子で開かれた。
「落ち着いて下さい」
一旦底冷えするように取り戻したものが、その一言でまたぐるぐると自分の中で回りだす。
使用人に手を挙げたことなど無かった。
そうするまでもなく使用人は自分の思うとおりに動いたものだし、そんなことをする意味も理由さえもなかった。
紳士たるもの使用人を相手に暴力などふるうべきではない。それは長年培われていてしかるべき事柄であるのだから。
咄嗟にどうすればいいのか判らずに狼狽した心など知らぬ気に、クレオールは叩かれた頬すら頓着せずに言葉を操る。
まるで、愚か者を相手にするように。
「奥様は大丈夫ですから」
その冷静さが憎らしくすら感じられた。
何故そんなに冷静でいられるのか判らなかった。
カっと体内の血が沸騰するように熱を持ち、ぎしりと奥歯が音をさせる。
「奥様はしっかりしておいでです」
クレオールが冷静にファティナのことを言えば言うだけ、自分が何も判っていない子供のような錯覚を覚え、苛立ちばかりが蓄積されていく。
ぎしりと更に強く奥歯を嚙めば、口の中にいやな味が広がった。
錆びたものを口にしたような、あの感覚だ。
「……おまえは、父の思惑を知っていたのか?」
低く抑えた声は、自分のものとは思えぬ程に暗い闇を孕んでいた。憎めるものは何ものをも憎んでしまいそうな闇。
父も、面前の執事、そして――自らを子供扱いする義母すらも。
護りたいという思いを踏みにじり、護らせてももらえない。
差し伸べた手を拒絶されることにこれほどの怒りと憎しみ、悲しみが湧きあがろうとは思いもしなかった。
「思惑というものが何を指し示しているのか判りかねますが、旦那様は決して奥様を傷つけたりはなさいません」
「どうしてそう言い切れる!」
肉体的に傷つけるなどとヴァルファム自身思っている訳では無い。
あの父は視線だけで相手を威圧し屈服させるだけの力を持っている。自らの手でもって肉体的な意味での痛みを他者に与えることなどもとより必要ではないのだ。
「ヴァルファム様が思う程、奥様は弱くはございません」
「知った口を利くなっ。貴様などっ」
おまえに何が判る。
義母を見続けた自分の自負が、たかが執事の言葉に揺らがされる。まさか他の誰かにおまえは何も理解していないと突きつけられることがあろうなどとは、思ってもいなかった。
「貴様など、クビだっ」
その言葉が本心から出たものであろうが、咄嗟に出てしまった言葉であろうが意味は無い。
クレオールはふっとその眼差しの色を変えた。
自分がやりすぎ、言い過ぎていることはひしひしと理解していたが、しかし高ぶるものが振り上げた矛を下ろすことができない。
ぎりぎりとかみ締める歯の音を耳障りに聞きながら、ヴァルファムはクレオールが小さく息をついて頭を下げるのを見ていた。
「失礼させていただきます」
むしろ丁度よかったなどといえば、ヴァルファムは激高しただろうか。
クレオールは苛立ちと動揺とに不安定さをみせるヴァルファムを一人残し、さっさと自らのすべき道を定めた。
やることは理解している。そしてまた、やれることもまた理解していた。
***
「ああ、痛そうだ」
揶揄するような言葉に視線を巡らせ、クレオールは足を止めた。
「主人が使用人を殴るとは」
「生憎ですが、実質上の私の主はヴァルツ様です――ご存知ではないようですが」
クレオールの言葉に、しかし相手は少しも動じた様子はみせずに眼鏡の奥の瞳を細めた。
「では、ご同輩という訳だ」
「いいえ。私と貴方は――違います」
はっきりと言い切ると、カディル・ソルドは一旦片眉をわざとらしく跳ね上げたが、口元に余裕の笑みを浮かべてみせる。
「確かに、私とおまえは違う」
その言い方にはっきりとした侮蔑を感じ、クレオールは微笑んだ。
おそらく相手は自分の出自について「違う」と発言したのだろう。だが、クレオールが告げた「違う」の意味は、それこそまったく――違う。
クレオールは慇懃に軽く頭を下げ「失礼します」と言葉にするとカディル・ソルドの脇を通り過ぎようとした。
「ああ、そうだ」
一旦体をずらしてクレオールを通そうとしつつも、カディルはわざとらしくそう口にしてクレオールの歩みをとめさせた。
「主を変える気はないかな」
「……どのような意味でしょう」
「暴力を振るう癇癪持ちの子供のような男の下で執事として過ごすより、私の元でその手腕をふるってみてはいかがかな。なんといっても、あなたは私の姫君の扱いを良く知っているようですからね」
どういう意味かとは問い返さなかった。
クレオールは一旦とめた体の向きを微妙にずらし、相手を静かに見つめ返して微笑んだ。
「主を変えることは考慮いたします」
微笑をすぐに慇懃なものにかえ、クレオールはその足を主へと向けた。
***
「では、そのように」
夕刻、カディル・ソルドが意気揚々と告げる言葉に、ヴァルツは瞳を眇めて鷹揚にうなずいた。
自らがしたことに対してヴァルツは後悔するような材料は持ち合わせてはいない。だが、ただあの眼差しだけがヴァルツの中で奇妙な、小さな棘を残したのは事実だった。
二粒の翡翠。
――そう、翡翠。
――女性に爵位を?
はじめその言葉を耳に入れた時、なんと愚かなことをと鼻を鳴らしたものだった。
年若い友人は気分を害した様子もなく、ただ口元に皮肉な笑みを浮かべてみせる。
「そう言いますけどね、ヴァルツ。あの人ときたらぼくなどよりずっと領主にふさわしい。あなただってあの人とぼくとを並べ合わせてみれば、ぼくから爵位を取り上げてあの人に譲りたくなってしまうでしょうよ」
友人。
否、友人ではないだろう。もとより友人などという親しげな存在をヴァルツは持っていない。そんなものは面倒を招くためにあるようなもので、事実――その男は面倒ごとしか招きはしなかった。
その男はヴァルツにとって信じがたい思想を披露した。
ありとあらゆる面でヴァルツとは違う生き物であったと言っていいだろう。
「貿易?」
れきとした爵位と領地を持つ貴族だというのに、商いをして金を稼ぐなどと愚の骨頂だ。貴族は金を稼いだりなどしない。そんなものは下賎の考えだと言えば、また肩をすくめてみせる。
「貴方も仕事はしているでしょうに」
「私がしているのは貴族として正しい活動に相違ない。貴族としての義務。だがおまえがしようとしているのは、下らぬ市井の考えだ」
だがあの男はヴァルツの忠告を無視して貿易の仕事に手を出した。
もちろん、途端に社交の場では悪意ある言葉が飛び交い、拒絶され冷笑を招いたものだ。だが、あの男は気に掛けることはなかった。
「うちは貧乏だから、領地の人間が苦労する。それを無視して賭け事に現を抜かすことのほうがばかげている」
あっさりと全てを切り捨て、そして小さく笑った。
「って、いうのがうちの奥さんの考えです」
妻の考えに振り回される愚か者め!
知る限りで一番の阿呆であったあの男の妻は――琥珀の眼差しと蜂蜜色の髪を持つ女だった。
どこにでも居る女だ。
盤面に配置するまでもなく、ただひたすら男の人生に添うだけの女である筈の。
しかし、あの男の妻だというその女はヴァルツの冷ややかな眼差しを、更に強い琥珀で見返し口元には強気の笑みさえ浮かべてみせた。
強烈な印象と、女王のような覇気。
「無礼は承知しております。ですがどうぞ、貴方の所領の港を使うことをお許し下さい」
ヴァルツの知るどの女とも違う。
たかが一介の小娘でしかない女は、忌々しいことにヴァルツの盤面を真っ向から叩き割る気概を示し、その人間味の溢れる柔らかな琥珀の眼差しをヴァルツの中へとねじこんだ。
女に爵位を与えるなど愚かな妄言だ。
――今となっては苦い記憶でしかないが。
「ではすぐに馬車の手配を――ファティナ様にはまだ学ばれることが多くおありです。ヴァルツ様にはご不満のことと思いますが、もうしばらく襲爵の儀は後になることでしょう」
面前にいる男は狡猾ではあるが、愚か過ぎるものでは無い。
今までもグレイフィードの領地を家令として纏め上げて来た。この先もファティナの良き補佐役として付き従うことだろう。
そう思い、口元にわずかな笑みが浮かんだ。
――この男にしても、おそらく番狂わせであったに違いない。
ファティナを手にし、そして自らが伯爵位を抱くものと考えていたのだろうから。
だがそんなことを許すつもりは無い。
あくまでもヴァルツはその全てをファティナに残すことのみを考え続けて来たのだから。
あの男が、そして――あの女が護り、愛したものを全て、余すことなく彼らが残したファティナへと与える。
彼らが望むそれ以上を。
ファティナを誰かに利用などさせはしない。
あの娘は父のように、そして母のように自らの意志で全てを担うのだ。
それが……自らが与えた船で二人を死なせたことの、償いなのだから。
――自らの野望にあの人を利用するおつもりか!
ふとヴァルファムの怒りの声を思い出し、ヴァルツはそのおかしさに口元に笑みを浮かべた。
なんと的外れなことよ。
利用も何もない。この自らがファティナの為の歩兵でしかないのだから。
「失礼致します」
ふと、ノックの音が響き、書類の不備が無いかと点検していたカディルの手が止まる。声の主はこの屋敷の執事であるクレオールであることはヴァルツにもすぐに判った。
「どうした」
「お暇をいただきに参りました」
この先、自らの息子の為にと配置した僧正が行動を示した――それは、しかし幾つか先読みした恣意の一つでしか無い。
ヴァルツの盤面を覆すものなど、もう二度と現れたりしないのだから。