市場にて
――人間というのは意外な場所で意外な相手と顔を合わせると息が止まるらしい。
ヴァルファムがその日道端で出会ってしまったのは、違うことなく、ファティナ。
十三歳の義母であった。
午前中の仕事を終えて、珍しく友人のフレイが昼食は外で取ろうと街へと誘いを掛けた。
それに応じてヴァルファムが街へとおりた時、バザールへと抜ける中央広場の噴水の前、ばったりと……
「ヴァルファム様!」
「……」
「奇遇でございますね」
ファティナは無邪気に元気に悪意無く、微笑んだ。
ヴァルファムはうっかり止まってしまった心臓を押さえるように始動させ、引きつりそうな顔の筋肉をなんとか押さえ込んだ。
一瞬闇さえ自分を包み込んだかのように感じたが、伏せた瞳をもう一度開いたところでそこにある阿呆面は変わらない。
――失礼。阿呆は言いすぎだ。
間抜けにしておく。
「何をしておいでです」
「バザールを見てまわっておりました。焼き林檎がとても美味しゅうございました」
そう言う口には確かに焼き林檎のカスがある。
眩暈がした。
「ヴァル、キミの知り合いかい?
随分と可愛らしい娘さんだね」
フレイがくすりと笑いながら言う。
可愛らしいと言われた小娘様は、満面の笑みを浮かべてフレイへと体をむけ、一礼した。
「はじめまして、わたくしファティナと申します」
まて――
「こんにちは、ぼくはフレイ。フレイ・ファルスだよ」
「いつもうちの――」
「言うな!」
慌てて遮り、がしりとその両肩を掴む。
今、いま、何を言おうとした!
ヴァルファムはばくばくと動き出した心臓を宥めつつ、ギッとその視線をフレイへと向けた。
「すまない、私は早退する。上官に言っておいてくれ」
「ヴァル? え、なに?」
フレイが何事か言っているようだが、ヴァルファムは無視した。ぐっとファティナの体の向きを無理矢理かえて歩き出す。
できることであれば肩にかつぎあげて移動してしまいたい衝動を抱いたが、それをすれば誘拐という身に覚えの無い罪で追われてしまいそうだった。
「ヴァルファムさまったら、わたくしきちんと挨拶できましたのに」
「どう挨拶するつもりだったのですか?」
その場からとりあえず逃亡を図ったが、やがて疲れて足が止まる。
するとファティナは不満そうに唇を尖らせた。
「それは勿論、うちの義息がいつも御世話になっておりますって」
「……」
「ヴァルファム様?」
小首をかしげて見上げてくるファティナを前に、ヴァルファムは正しい呼吸方法を思い出す努力を必要とした。
翡翠の瞳に悪意や悪気は見られない。
おそらく、イヤガラセをしている意識も無いだろう。
そう、この小娘様ときたら性質の悪いことにいつだって本気なのだ。
とりあえずこの世のありとあらゆる神を罵倒するより先に父を罵倒しておく。
死に絶えろ。
「それよりお尋ねしたいことがあるのですが」
「はい、何でしょうか?」
「義母うえは、何故このような場所にいらっしゃるのでしょう?」
「ですから先ほども申し上げました通り――」
「何故、お一人で外にいらっしゃるのですか?」
ゆっくりと再度言えば、ああっと無邪気に微笑んだ。
「野菜売りの方が屋敷にいらっしゃるでしょう? その方の荷馬車に乗せてもらったのです。馬車を引いているのがとっても可愛らしいロバで、なんだか幸せな気持ちになれますわよね、あれって」
「あなたの付き人はどうなさいました」
「かくれんぼも鬼ごっこも得意です」
――首だ。
野菜売りは出入り禁止。
ふつふつと腹の中で沸騰するなにかをやり過ごす。
「ヴァルファム様?」
そんな継子の怒りにやっと気づいたのか、ファティナは不思議そうにみあげてくる。
――怒鳴ろうと開いた口を、ヴァルファムはゆっくりと一度閉ざした。
「義母うえ」
「はい」
「私の実の母のことをご存知でしょうか?」
ゆっくりと、やさしく囁く。
「絵では見たことがございます。画廊に置かれている方ですわよね?」
「はい」
ヴァルファムはことさらゆっくりとうなずき、
「私の母は馬車の事故によって亡くなりました」
「――」
「母を亡くした時、私はとても辛く悲しい気持ちになりました」
「――」
ファティナの瞳に動揺が走る。
それを見逃さず、ヴァルファムは半眼を伏せた。
「あなたも私をおいて逝かれるおつもりですか?」
「そんな……」
「外は危険なのですよ。どうぞご自愛下さい――私を一人にするような危険なことはどうぞ謹んで下さい」
自分で言っていてうそ臭い。
それでもゆっくりと噛んで含めるように告げれば、ファティナは泣きそうな顔で慌てて口を開いた。
「ごめんなさい、ヴァルファム様。
あなたを悲しませるつもりは無かったのです。ただほんの好奇心で……」
「あなたが無事でよかった」
――むしろこちらの心臓が持たない。
ヴァルファムは義母からの「ごめんなさい」を引き出し、笑みを浮かべはしたもののその腹の内でどれだけの人間を処分すればこの憤りが静まるかを考えた。
「馬車がそんなに危険とは思いませんでした」
ファティナはふるりと身を震わせ、
「今度は馬に致します」
――随分と見当違いなことを言い、ヴァルファムしばらくファティナを見つめた後、胃が痙攣するような違和感をねじ伏せて微笑んだ。
「とりあえずそこに座りましょうか?」
いっそ石畳に直に座らせたい衝動にかられた。