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女王

 宝石箱の中に収められた一通の封書。

何かのついでではなく、ただファティナへと――妻へと向けられた言葉。

宝石箱の中には夫から送られたアクセサリーや宝石が煌き、その下につつましく封書は収められている。


その表面に書かれている神経質そうな文字には「グレイフィードの姫君」と。

裏面を見れば署名が踊る。

ヴァルツ・ジグナイト――スターリング侯爵。

ゆっくりと指先でなぞり、確認する。その行為一つで安らぎが得られるかのように、ファティナはゆっくりと吐息を落とした。


「ヴァルツ……さま」


 小さく囁いて、その滑稽さにファティナは小さく笑った。

ヴァルファムとたいして違いのない名前。だというのに忘れていたなんて、なんと自分は愚かなのだろう。

 旦那様と口にし続けて、その本質など見つめようともしなかった。

だが本質など必要だろうか? 

必要なことは、自分とヴァルツとの婚姻が、ヴァルツにとって意味があるという事実だけ。

 自分という存在があの方にとって何かの利益に通じるならば、それは喜びだ。


あの方にとって自分が――


「クレオ」

 ファティナは宝石箱の中から琥珀をベースに作られた耳飾を引き出し、鏡の中で見つめる執事へと示した。

「付け方が判らないの。お願い」

「僭越とは存じますが、奥様には他の……」

 その宝石箱とは別の宝石箱にある石を示そうとするクレオールに、ファティナは首を振った。


「琥珀は、わたくしの好きな色なのです」

 穏やかな調子で微笑むファティナに、クレオールは「失礼致します」と口にして耳飾へと手を伸ばした。

 カチリと小さな音をさせて留め金を緩め、左右の耳朶に耳飾が飾られる。

普段より大人びた薄蒼の衣装を合わせたファティナは、じっと自分の姿を鏡で見つめ、ゆっくりと薄い唇から呼気を落として立ち上がった。


「行きます」


 たとえ、あの方にとって自分が……


***


政略結婚であることは知っている。

口さがない使用人の囁きなど耳にせずとも、この婚姻の意味がただの紙切れ一枚であることは知っている。

 婚姻のその場で、誰でない、ヴァルツ自身がそう言ったのだから。

幼い頃であれば普通の結婚と政略的な結婚の違いなど理解できなかった。自分にとって結婚は家族が増えるという喜ばしいことでしか無かったのだから。


「結婚?……わたしが?」


 説明してくれたのは、もの珍しくも眼鏡をかけた青年だった。呆れたように口の端に笑みを浮かべて息をついて見せる。

「姫君、わたしが、ではなくわたくしがとおっしゃって下さい。言葉が不調法ですね。それは早めに直さなければ――あなたは侯爵夫人になられるのだから」

 侯爵夫人。

舌の上で転がしても、それがどんなものかはあまり理解できなかった。

爵位の上下なども知らぬ小娘に、青年は苦笑して眼鏡の蔓を押し上げた。


――思い返せば、確かにその青年はカディル・ソルドだった。


両親の死の後に、あわただしく訪れた夫となるヴァルツが連れて来た、司祭と見届け人の一人。


 グレイフィードという名称を知るものは少ない。

グレイフィード領――

何故ならそれは王都であるクリアンゲイズからずっと東に存在する僻地とも言うべき場であり、これといって鉱山が出る訳でも無く、実りがある場でもない。

 山には崖があり、土地はなだらかでもなく領民が多くいる訳でもないただ広大な土地ばかりの寂しい場だ。

 雨が酷く降れば土地が流れ、病が流行れば医者も無い。

町の人間が生活の糧としているのは主に羊毛。それすら、時に山からおりる狼によって苦しめられる。

 それでもその彼らの生活がゆっくりと軌道に乗り始めたのは彼らの領主が羊毛を織り上げ、付加価値を与え、他人を介するのではなく自らが海すら渡り交易した為だ。

 現金収入を増やし、医者を求め――ほんの些細な病で子供を失う生活から脱却され、少しずつ資産というものを増やして町の人間に微笑みが広がる頃合いに、彼等を乗せた商船は海底に沈んだ。


「ここにサインを」

 示された書類に、ぎこちなく名前を記載した。

あまり上手に書けないのは文字を習い始めてそれほど間が無かった為だ。それでも精一杯がんばって書けば、殊更ファティナの言葉遣いを諫める眼鏡の青年は微笑んだ。


「これであなた様はスターリング侯爵の花嫁――侯爵夫人となられます」

 

花婿が連れて来た司祭、見届け人、花婿、そして花嫁。

ただ四人だけの式だった。

生憎とファティナは結婚式というものがどういったものか知らないから、これが正しいのか正しくないのかまでは判らなかった。

 教会でもなく、ファティナの暮らす屋敷の居間で、ただテーブルの上にある幾つかの書類に文字を連ねるだけの行為。

 司祭がこほんと咳を落とし、ちらりとその視線を咎めるようにヴァルツへと向ける。

「せめて誓いの言葉だけでも」

「――必要はあるまい」

 ぞんざいに返され、司祭が更に「私が認めないといえばこの婚姻は認められないのですがね」と冷たく言えば、ヴァルツは不機嫌そうに眉を潜めたが、司祭の言葉に従い、彼の促すとおりに言葉を唱和しファティナにも求めた。


「誓いの口付けを」

 その言葉には苦笑が落ちる。

ヴァルツは身を屈めてはじめてファティナを見た。

「グレイフィードの姫」

 幾度も呼ばれたことのある名称が、これほど恐ろしく耳に届いたことはなかった。まるで自分のことを呼ばれている気がせずに、視線もろくにあげられずにファティナは身を震わせた。

「はい……?」

 戸惑いながらも小さく言葉が落ちる。

面前の夫はファティナの手袋もしない手をすくいあげた。

 大きく、ごつごつとした手に怯み、思わず引き戻しそうになる。

けれどファティナは司祭の温かな眼差しに、夫の行為に耐えた。


「この婚姻はそなたの為ではない」

 突然の花婿の言葉に、司祭が更に顔を顰め、眼鏡の青年が小さく笑い、そっと首を振った。


「この婚姻は定められし偽りの婚姻。ただの政略結婚という意味も判るまい――だが、一つだけどんなことをしてもそなたの願いをかなえよう。何か望みはあるか?」


 突然夫というものを持つ意味も、実はあまり理解してはいなかった。

父と母の死も突然知らされたが、この婚姻についてもまた突然知らされた。

大人達は父と母の死よりあわただしく、遺体の無い葬儀も何もかもが飛ぶように過ぎて、そしてその人は訪れたのだ。


自分の夫になるのだと。

ただ、領地を、遺産を処理する為に必要なことなのだと。


「遠慮は要らぬ。欲しいものがあれば言えばいい」


結婚というものに憧れるよりも、ファティナが欲しいものはもっと別の――

がらんと誰もいない居間、誰もいない屋敷。父も母も、おそらくきっとファティナを愛していてくれたけれど、それ以上に領地を、領民を守る為に精一杯だった。

 ファティナは面前の夫を恐れながら、それでもそっと囁くように言葉にした。

「わたくしとあなた様は結婚したのですから、夫婦となるのですわよね?」

 このところ無理やりに修正させられた言葉は、きちんと相手の耳に不快を与えずに届いているだろうか。

 ファティナはちらりとカディルへと視線を向けたが、相手は微妙な笑みを湛えていて自分の言葉が「不調法」であるかどうかは判らなかった。


「そなたが望む夫婦にはまずなれないが。それがそなたの望みか?」


 自分の望む夫婦とは何だろう?

父と母は自分にとって望む夫婦の姿だっただろうか?

ファティナはどう伝えれば良いのか判らず、ただ自分が思うままに伝えることしかできなかった。


「もう、一人ぼっちはイヤ。ちゃんとした家族が欲しいの。一緒にいてくれる、家族が」

 おそらく不調法な言葉であったであろうが、深く考えることはできなかった。

自分の望み。自分が、欲するもの。

 ヴァルツは一旦は眉間に皺を刻み、口元に皮肉な笑みを浮かべ、掬い上げたままのファティナの手のひらに口付けを落とした。


「誓おう――そなたが一人にならぬようにと」


その誓いに、あなたは……


***


浮かんだ負の感情に蓋をして、ファティナは階段の上に立つ夫を見る為に身じろいだ。

やっと戻ってこれた家で、危うく義息に隠していた秘密を暴かれそうになっているその時に望んでいた声が降り注いだ。

まるで低く雷鳴のようにはっきりと。


子供が欲しいのだと。

新たな家族が欲しいのだと望んだ言葉に、返事をくれた夫。

心臓が張り裂けてしまいそうなほど高鳴るのは、安堵の為か、畏怖であるのかファティナにはいまいち理解しがたい。

 

心臓が痛いくらいに早く打ちつけて、眩暈すら誘発する。

夫と顔を合わせる時、決まって緊張で倒れてしまいそうになる。

会いたいと願う癖に、共にいて欲しいと望む癖に、意気地の無い自分はいつだって夫の顔をまっとうに見上げることもできないのだ。


 けれど今日こそは、きちんとその瞳を見つめたい。

その姿を認め、もう決して忘れないようにその全てを刻み付けてしまいたい。


愛する夫の姿を、二度と忘れてしまうことのないように。


ファティナは決意を込めてヴァルファムの腕から逃れ、そして階段の上に立つ夫をただひたすらに求める強い眼差しで見上げた。


「旦那さまっ――」


 必死に紡いだ言葉の先、ファティナの声はゆっくりと闇へと溶けた。

見上げた先、愛すべき夫の碧玉の眼差しは自分の手首を背後から掴む義息に良く似ていて、そして……


旦那様、その先の言葉をファティナは紡ぐことができなかった。

何をつげてよいのか判らない。

どうして良いのか判らない。


碧玉の瞳には、はっきりと失望が浮かんでいた。


早鐘を打ち続けた心臓が、途端にぎゅっと掴まれたように萎縮する。

泣きたいような気持ちを投げ捨てて、ファティナはその失望を打ち消すように、精一杯の気持ちを込めて微笑んだ。


「旦那様、お会いしとうございました」


自分には、微笑むことしかできないのだから。

愛されていないことなど、今更どうだというのだろう。


愛など、もとより知らないのだから。

愛など――


 ヴァルツは冷ややかな眼差しでファティナを見つめ、ちらりとその視線がファティナの背後で自分を睨みつけている息子に向かい、ふいに口の端を押し上げた。


「息災で何より。

我が姫――グレイフィード領女伯爵、レディ・ファティナ」





……たとえ、あなたにとってわたくしがチェスの駒だとしても。


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