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おもかげ

――眠れなかった。


 ヴァルファムはつきつきと痛む額に軽く触れながら、口元にいやな笑いが浮かぶのをとめられなかった。

 本日の天候は薄曇り。単騎の馬上は少しばかり空々しい。

前方を行く馬車ではファティナが侍女と三人で乗っている。

 昨夜ファティナに対して眠れない夜を過ごせと思ったものだが、すぐに自分がどれほど阿呆らしいことをしでかしたのかは自らの身にかかる事柄で承知した。


――何もファティナを開放してやらずとも良かった筈だ。

あのまま自らの腕に閉じ込めて愛を囁き、口付けはおろか、それ以上のこともどんなものであるのか一つ一つゆっくりと教えてしまえばよかった。


 ということに気付いたのは、ファティナの赤らんだ顔やらきつく苦しげに結んだ唇を想像して悦に入り酒を楽しんでいた頃合だ。

――そのまま引き寄せ、告げたとおりの口付けをしてしまえば良かった。指先に、首筋に、鎖骨の窪みに。

そして、滑らかなクリーム色の肌を辿り、彼女が決して受けたことの無い場所にまで。


……想像したら眠れなくなったのはヴァルファムのほうだった。

思春期の子供でももっと手っ取り早く眠る方法など熟知しているだろうに。

扉を開いて彼女の客室まで行くには、ヴァルファムは矜持が高すぎた。無駄すぎる矜持だとは理解しているが。

 

 それでも寝不足であったのはヴァルファムだけではなかったことは、ヴァルファムの心を軽くした。

翌朝、ファティナは目の下に隈をつくっていたし、半眼に伏せた瞳は義息を捉えようとはしなかったのだ。

 挙句、しどろもどろに「今日は馬車で参ります」と口にし、ヴァルファムが相変わらず微笑を湛えて「そうですね。今日は馬車で寓話など話して差し上げましょうか?」と提案すると、弾かれたように顔をあげ、泣きそうな顔でふるふると首を振った。


「ヴァルファム様は馬で先に行かれてはいかが?」

 当然、先に行くことなどできない。

自分は護衛もかねているのだし、今までもファティナを一人で外出させないようにと勤めていた義息だ。

 共に居ることを拒絶されたのだと思うと、ヴァルファムは笑いたくなった。


つまり、意識されているのだ。この、義息が。

今まで一人の男として意識もされなかった自分が。


「そうですね、私は騎馬でお供致しましょう。馬車には侍女を乗せればいい。話し相手になるでしょう」

 穏やかな囁きに、義母の表情があからさまにほっと安堵の色を浮かべるのを見逃さず、ヴァルファムはすばやくファティナの手首を捉えて引き寄せ、自らの腕に抱きこみ、耳の付け根に口付けた。

 

「ヴァル……っ」

「何か? 今日はやけに緊張しておいでなのではありませんか? 旅は随分と義母うえに負担を掛けたようですが、戻ったら医師の診察を受けたほうがいい。義母うえに何かあったらと思うと、私は心配で夜も眠れなくなってしまいそうだ」


――ヴァルファムは体を固くしておびえたように自分を見上げているファティナに満足し、抱き寄せる力を緩めた。

「どうしたんです? 今日の貴女はいつもの貴女らしくない」

「そんなこと……」

「まるで私に触れられたくないようにお見受けいたしますが?」


 意地悪く言葉を続け、切なそうに囁く。

「まるで汚らわしいもののように扱われているのは、どうしたことでしょうね?」

「汚らわしいなんて、そんなつもりはっ」

「そうですか? ではどうしてそんなに体に力を入れているのです? 今まさに逃げ出したいというように」

 小さく笑い、ヴァルファムはいつもと同じようにその額に、瞼にゆっくりと唇を落とした。


ただし、唇の離れるその時に舌先でその肌を愛撫してみたのはほんの意趣返し。

 腕の中で小さくファティナが震え、口付け以外の何かを感じ取ったことにヴァルファムは満足そうに喉を鳴らした。

 わざとそらすように伏せられた眼差しに、更に意地悪く身を伏せてのぞきこむようにした途端――ファティナはあろうことかそのままふっとのけぞるようにして崩おれた。

 まるで操り人形がその主を失ったかのような突然の動きに、ヴァルファムは驚愕し、慌ててその体を支えた。


「義母うえっ? 義母うえっ」


 確かに圧力を掛け続けたのは認めよう。

言葉で、態度で、眼差しで――自らのもてる矜持を総動員して義母を誘惑するように示してきたのは認める。

だからといってそれで気を失うというのはどういうことか。


かくして、彼女は馬車の中。

そして侍女達は震えながらも必死にファティナを守るように、その眼差しだけでヴァルファムを非難し、遠まわしな言い方でヴァルファムは馬で行ったほうがいいだろうとせつせつと訴えた。


普段であればそんなものは無視してしまうヴァルファムだが――つまり、一応反省はしていた。


「まったく子供だ」

 ヴァルファムは額に手をあて、溜息を落とした。


あんまり楽しくて、やりすぎた。


***


――旦那さま。

 組んだ指を胸に当て、ファティナはもう幾百、幾万もその言葉を呟いてきた。

それは絶対のお守りだった。

絶対のお守りの、筈、だった。


 瞳を閉じれば朧に浮かぶ。色素の薄い金髪。碧玉の瞳……

必死に夫の姿を求めて、やがてそれが像を結んだ時――はっきりとそれがヴァルファムである事実に気付いたファティナは、悲鳴をあげ、何かにすがるように手を伸ばし、宙をかいた。


「奥様っ」


 振り上げた手が誰かの手に触れる。途端にそれを掴み上げ、ファティナはがばりと身を起こして何かから逃れるように身を丸めた。


「旦那さま、旦那さまはっ」


喘ぐようにもれた言葉で、やっと視界に色彩が戻った。

ゆったりとした箱馬車の中。ビロードと詰め物とを丁寧に打ちつけた座席、更に多くのクッションを置いたそこに横になっていたファティナを、心配気に二人の侍女が覗き込んでいる。

 人間三人分の体温の為か、馬車はほどよい熱気をもっていたがなんとなく違和感のようなものがファティナの肌に触れていた。


――帰りは侍女と馬車で……


 ファティナはぎこちなく、微笑んだ。

「ごめんなさい」

 そっと自らの手を引き上げて、ふるりと小さく首をふる。

もし、ここに居たのがメアリ女史であったら自分はどうするだろう。

ファティナは半眼を伏せて考え、同じように相手から手を引き抜き何事も無かったかのように微笑むだろうと結論を出した。


 たとえばここにいたのがクレオールであれば……いや、誰であろうと答えは同じだ。

ファティナはすがろうとした手を戻し、微笑むことしかできない。


「果実水をお飲みになられますか? 御酒もございますが」

 変わらす心を砕いてくれる侍女に、ファティナは果実水を頼み、箱馬車の背もたれに身を預けて皮袋のまま口をつけた。


 伏せた瞳で夫を思い出そうと思うのに、浮かぶのは八つ年上の義息になった。

それがとても恐ろしいことのように思えて身がぶるりと振るえ、ファティナ未だ気だるさの残る体をより強く馬車の背もたれに預けた。


――愛しい。愛している……旦那様を、愛している。


 ファティナは自らの心と体にゆっくりとその呪文を巡らせた。

あの日からずっと、ずっと、もう幾百も幾千も唱えてきた言葉。


旦那様、旦那様……だん、な、さま?


 自らの心を落ち着ける為のいつもの所作。

握った拳を胸に当てて、そうしてファティナはふと息を止めた。明滅するようにある事柄が思想をよぎり、その事柄によってファティナはいっそこのまま果ててしまいたいと切に願った。


気付きたくなかった……


 頭を箱馬車の背もたれに当てると、がたがたとした激しい振動が直接脳を揺らす。

それを感じながら、ファティナは湧き上がる感情に笑いたいのか泣きたいのか判らなくなってしまった。


気付きたくなかった。


旦那様の顔も、名も……思い浮かばない現実など。

愛する方の名前を告げることができないなど誠意が無いと、義息を叱りつけたのはそんなに遠い昔のことではない。


――それでもわたくしはあの方の、妻でありたい。


 それは傲慢な、夢。

ファティナは自分がどれだけ傲慢で浅はかで愚かであるか知っている。

世の中には知らぬことが多くあるけれど、自分自身がどれだけ酷い人間かは熟知しているつもりだった。


 わたくしはあの方を愛している。

家族が欲しいのだと、一人では居たくないのだと告げた願いを叶えてくれた、あの方を……愛している。

 ファティナにとって、それが絶対の真理。

たとえ、伏せた瞼に浮かぶのが義息だとしても。

一刻も早く旦那様に会いたい。かすむ記憶を新たに塗り替え、落ち着かない今の自分を滅びさってしまいたい。

 

 旦那様にお会いして……お会いして、ああ、わたくしは何をしたいのだろう。






――馬のいななきと地面を蹴る音とが、旅の終焉を告げた。




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