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欲望

 嵐の過ぎ去った澄み渡る空気と明るい日差し。

木々の葉の間から落ちる陽光。

舗装されている訳ではないが、それでも馬車が往来する道をさかのぼればやがて小川へと行き着き、馬の上、自らの腕の中で眉を潜めているファティナを小川の片隅にしつらえたキルトの上におろした頃には、すでに口の傷は血を流してはいなかった。


「正直におっしゃっていただきたいのですが」


 さすがに馬で駆けるのと馬車で走るのとでは速度が違う。

初日に身を寄せたセラフィレスの屋敷を夕刻前には通過することができた。そして宿屋を発見するのが簡単であったのは、先に行かせていた馬車がすでに到着していた為だ。

 早い段階でクレオールの告げていた宿に部屋をとったのは、中途半端な時間に移動するのを避ける為だった。

 王都を訪れた婦人方に人気が高いというだけあり、その作りは一般的な貴族の諸室と劣ることも無い。使われている家具も統一をもたせた一流の物を使用しており、カーテン一つにしても厚地に丁寧に刺繍を施してある一品だ。 

 侍女達はぬかりなく主の為に居心地のよいようにと部屋を整えてまっていたし、夕餉をとるには多少早かったが、早々にチェックインをすませることにした。

 ゆったりとした気持ちで居室に続く個人用の居間で食後のお茶とケーキとを楽しんでいると、やがてあらたまったように咳払いを一つし、ファティナは意味ありげな眼差しで義息を見つめた。


この小娘様はいったい何を言う気かと身構えたのには理由がある――当然、色々と後ろ暗いのだ、彼女の義息は。

 正直におっしゃって下さいといわれたが、正直にいえないことならば山とある。いったいどれに対しての言葉であるか、果たして義息には即答などできよう筈がない。


 幸い、部屋にいるのはファティナと義息だけ。正確に言えば侍女と従僕も控えてはいるが、彼らがいたところでヴァルファムは頓着する男ではない。

 ファティナはオレンジのコンポートを平らげた口元をナプキンでぬぐい、もう一度いやらしい嫌味な言い方で問いかけた。


「人間誰しも過ちはありますわ。でも、それはきちんと謝罪なさるべきだと思います」

「……まったく話しが見えませんが」

「消毒の件です」

 

 きっぱりと言われ、ヴァルファムは引きつった。

正直に言えば、まだ言うか? という思いだ。

小川についた時にもこの小娘様は「消毒はしませんの?」と不思議そうに小首をかしげた。場合によっては誘っているのかとも思えるしぐさだ。


 別にしてもいい。いくらでもしよう。欲望のままに。

だが、護衛の前でそれをする気概までは生憎無かった。誰はばかることなくヴァルファムはファティナを大切に扱っている。しかし、それはあくまでも義母と義息という関係上のことだ。屋敷の人間がどう思っていようとそれは気にしないが、ヴァルファムだとて理性もあれば常識もある。

 まったく無実無根のことで義母の対面を汚すことなどしたくない。


彼女は――義母であろうとも汚されていない乙女なのだから。

自らが誹られるのは構わない。しかしファティナにそれを向けさせる訳にはいかない。無実の罪など与えてはいけない。


 だが、今は違う。

屋根のある一室。この場にいるのは家人だけでそれすら問題ではない。


 軽く咳払いをし、ヴァルファムは片手をあげて従僕と侍女に下がるようにと示した。

彼らが一歩足を下げて退出するのを視界の端で感じながら、ふとヴァルファムはファティナと二人であるという事実に口の端に笑みを刻んだ。


「何を笑っているのです?」

「いえ――それほど消毒をお望みでしたら、いくらでもしてさしあげますよ?」

 優しく微笑みかけると、しかし相手はむっとした様子で顔をしかめ、呆れたように首を振った。


「まぁ、まだシラを切るおつもりですね?」

「――義母うえのおっしゃる意味が生憎とこの義息には理解しかねるのですが?」

 ファティナはたいてい唐突で、その口から吐き出される言葉の六割は意味不明。そして二割は人を怒らせ、二割が幸せを与えてくれる。

 ヘタをすれば八割が人を怒らせる種だが……


 面前の義母は何故か得意げに顎をそらした。

「舌を消毒するのに舐めるのは嘘なのでしょう?」

「……」

 とくりと心音がはぜた。

 ファティナの翡翠が勝ち誇るようにきらきらと輝き、鬼の首をとったかの如くに義息を見ている。

 ヴァルファムは自らのうちに軽い興奮が広がるのを感じていた。

座る椅子にしつらえられた肘置きに肘を預け、その先にある手の甲、指の第二関に節右頬を預ける。

 足を組み替えてゆったりと座り、微苦笑をこぼした。


「嘘だとしたら、どうなさいます?」

 何故、あなたの義息はそんな嘘をついたのか、判りますか?

心内でやんわりと囁きかける。

あれが消毒でないのであれば、では、あれは……何なのでしょう?

あなたは答えが判りますか?

期待を込めて瞳を細めて見つめると、ファティナは胸元で指を組んで嬉しそうに言った。


「やっぱり! 私もおかしいと思ったのです。以前言いましたわよね? 舌は口の中にあるのですもの。唾液で消毒なんてきっと根拠の無いお話でしたのでしょう? 宜しいのですよ? 誤った知識を披露してしまったことで矜持の高いヴァルファム様はきっと羞じていらっしゃるのでしょうけれど、そういう時は素直にごめんなさいと謝ればよいのです」


 それはそれは嬉しそうに言葉をすらすらと並べ立てるファティナは極上の微笑みを浮かべてみせた。


「ヴァルファム様でも間違うことはありますのね」


――自分が間違ったのは、コレを愛していることに違いない。


 本当に愛しているのか? 

間違いではないのか? むしろ間違いだといって欲しい。

ふ、ふふふっと鼻をついて笑いが漏れた。

それに合わせて肩が僅かに揺れる。

苛立ち、腹立たしさ、そして――うずきを与えるものに、ヴァルファムは底意地の悪い感情を抱いた。


「間違いではありませんよ。間違ってない――消毒してさしあげましょうか?」


 空いている左手を伸ばして手のひらで示せば、けれどファティナは戸惑いに眉を潜ませ、不思議そうに見つめ返した。

「間違っているのではないのですか?」

「ええ。傷口が傷みますか? いらっしゃい」


軽く指を曲げて招いても、ファティナは身を縮めて――そして、彼女にしては珍しく顔を赤く染めて視線をそらした。


「結構です」

「なぜ?」

 意地悪く問えば、ファティナは自分の指先を不安そうにいじりながら小さな声で囁いた。


「……なんだか恥ずかしいのですもの」

 羞恥などという感情をいつ覚えた?

ヴァルファムは冷め切った気持ちでファティナを眺め回した。


 今は昼間の乗馬服ですら無い。ゆったりとした旅行用のワンピース――背にあるちいさな包み釦で止められたそれは首までしっかりと覆い隠している。

 けれど首から頬にかけ、そして耳までをも赤く染めて、ファティナはもぞもぞと居心地が悪いというように身じろぎした。


「何が恥ずかしいのです? ただの消毒――口付けと変わらない」

「口付けとは、違うではありませんか」

「どう違うのでしょう? 生憎私には判らないな」

 くっと喉の奥が音をさせた。

ファティナは怒ったようにこちらを睨みつけ、そして困ったように言う。


「口付けは、舌を舐めたりしませんわ」

 ファティナの動揺すら乗せたその言葉を耳にいれ、ヴァルファムは微笑んだ。

「しますよ?」

 飄々と応える義息の言葉に、ファティナは軽く瞳を見開いた。


 そんな彼女を楽しげにゆっくりと眺めまわしながら、彼女の義息はくつくつと笑って見せた。

「義母うえはご存知ないのですか? 触れ合うだけが口付けだと? 子供ですね」

 子供扱いされるのを嫌う義母をからかう口調でいいながら、ヴァルファムは先ほどファティナを招いた指を自分の唇へといざなうと、相手の想像をかきたてるように人差し指でそっと自分の唇の膨らみをなぞり、ファティナが見ているのを確認しながら舌先でゆっくりと舐め、軽く歯をたてた。

 ことさらある種の意味をもたせて。


 ファティナの身が震える。

どうしようもない程の愛しさが湧き上がる。


 まるで、か弱い羊をその思惟だけで追い詰めていくかのような高揚感に、ヴァルファムはうっとりと微笑んだ。

 牧羊犬の気持ちか、それとも狼か。

彼等はきっと深い愛情をもって愛しい羊に接しているに違いない。

その愛は恐ろしく利己的であろうとも。

「舌と舌とをからませて。その先端を舐めあげて」

 甘く、甘くとろけるような囁きで。


「相手の歯列をなぞり、ぴちゃりと跳ねる唾液すらすすりあげて――ほら、舌先の消毒に似ているでしょう?」

「……」

「恥ずかしい?」


 組んでいた足を下ろすと、ファティナはびくんっとその身を跳ね上げた。

驚いたうさぎが横に飛ぶかのように。

 羞恥で真っ赤になったファティナの首筋がこくりと上下に動いて唾液を飲み込む、湧き上がる楽しさに、ヴァルファムは体制を整えなおし、勢いをつけて椅子から立ち上がった。


 息を飲むようにして狼狽するファティナへと手を差し向けて、ヴァルファムはできるだけ優しさを込めて微笑んだ。


「部屋にお連れしましょう。どうぞ本日はゆっくりお休み下さい」


 脅えの混じるその指先が、義息の手を取るべきか取らざるべきかと僅かに振るえているのを無視して、ヴァルファムはファティナを慈愛のこもった眼差しで見つめ続けた。


――眠れるものなら、寝てみせろ。


 彼女の内に確かに芽吹いたであろう淡い欲望というざわめきに、ヴァルファムは満足していた。





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