真実
よく磨かれた板張りの廊下は艶やかな光沢を放っている。
丁寧に最高の敬意をもって作られたその建物は、細かい装飾をちりばめられた芸術のようだ。
王宮監理区域に作られている議員会館は、手入れこそ行き届いているものの、しかし煙草の香りがこびりつくようでヴァルツにとって心地よい空間とはいえなかった。
元々煙草が嫌いという訳ではないが、四年ほど前に煙草を手放していらい、煙草の紫煙も香りも眉間に皺を刻みつけるものと成り果てた。
議員会館の廊下は広く取られ、そこかしこで議論の続きを繰り広げている紳士がヴァルツに軽く会釈を返す。
「まったく精力的な男だな。怪我の時くらいは領地に篭ったらどうだ」
「私は何事も中途半端で済ますことはできない性質だからな。自ら進めた法案の決議を見逃せるはずがあるまい」
冷やかすような言葉を軽く受け流しながら車寄せへと向かうヴァルツだったが、ふと足を止めた。
立派な建物ではあるが、その年代を抑えることはできないのか床板に軽く反り返るような箇所が幾つか存在し、その違和感に右手で握る杖の先端が触れたのだ。
杖に頼るヴァルツにはその違和感が更に不快を覚えさせた。
「手をお貸し致しましょうか」
少し後ろを歩くカディル・ソルドが声を掛けると、ヴァルツは冷ややかな眼差しを返した。
「一人で歩けぬとでも思うか?」
「いいえ。げんに卿はご自身で立たれ、歩いておいでです」
「ならば余計な口は利くな」
冷ややかな応えを、カディルは瞳を細めて笑んだ。
「では話題をかえましょう。
長く議題に上っておりました案件がようやく終結なさいましたと伺いました。おめでとうございますとお伝えしたほうが宜しいでしょうか」
淡々と言われる言葉に、ヴァルツはふっと鼻で笑った。
「めでたい? 貴様はそうは思っていないのだろうな」
「どうしてそう思われるのでしょうか。私は心からそのように思っておりますが」
冷ややかにヴァルツはカディルを見つめていたが、ふいに目元に皺を刻んだ。
「とにかく、私はすべきことをすべて成した。望みがあるとすれば――あとは……」
ふっと伏せた眼差しの下――蜂蜜色の緩やかな髪が浮かんだ。
豊かな金髪に意思の強い眼差し。薄い唇に紅をはいた姿は到底忘れることはできない程鮮やかにヴァルツの中にある。
――約束して下さい……
何事も中途半端で終わらせるつもりはない。
約束など不要。
そう怒鳴りつけてやりたいが、ヴァルツには判っている。
その約束は、彼女が向けたものではない。
それは――ヴァルツが自らに課し、決して……果たされることの無かった約束だ。
***
床板がキシリと小さな音をさせる。
クレオールはその宿屋のたてつけの悪さに軽く眉を潜めながら、女主へと宛てられた部屋へと足を向けた。
ヴァルファムこそ心を安定させる為にお茶が必要に思えた。
顔色を悪くし、歯を食いしばり顔を背けたその姿は、まるで苦しさに耐えきれなくなった子供のようだ。おそらくきっと、ヴァルファムこそファティナにすがりたい程の渇望を覚えているだろうに、その全てに背を向けてクレオールに「行け」と命じるのは苦しい決断であったろう。
そう思いながら、クレオールはその考えを払拭させるように一度強く首を振った。主の感情など考えるべきものではない。今クレオールが考えるべき事柄があるとすれば、女主のことだけでいいのだから。
意識を切り替えれば、薄暗い廊下が見えた。壁に付けられた照明は獣油を燃やすもので、クレオールにとっても馴染みのあるものだ。だが、ヴァルファムの屋敷でそれが使われるのは使用人達の私室と、階下のみ。
主が通る場の照明は全てもう少し香りの良い植物油や蜜蝋だ。いくら程度の良い宿屋がないのだとしても、女主にとうてい相応しいものではない。一泊だけだからこそ、男主もここで妥協しているのだろう。
一階の受付ですでにヴァルファムの部屋とファティナの部屋の場所は聞いてあるが、部屋番号を確認するまでもなく、ファティナの部屋を発見することはできた。
ファティナ付きの侍女が二人、困惑したような表情である部屋の前でぼそぼそと話し合っていたのだ。
キシリと音をさせて近づくクレオールを視界に入れ、彼女達はあからさまにほっとした様子で息を付き、軽く会釈した。
「クレオールさん。あの、奥様が……」
「お茶の用意を頼みます」
簡潔にいい、クレオールは扉の前に立ち一旦息を吸い込んだ。
意識を切り替えてそっとノックをし、まるでおびえるうさぎを招くように穏やかな口調で声を掛けた。
「奥様――クレオです」
しかし一回では返事が無く、二回同じことを繰り返しても対応は変わらなかった。
その間に、階下の厨房からお茶の為の湯を運んできた侍女が戻る。その眼差しは困惑に揺れていた。
クレオールは吐息を隠し、もう一度ノックを試みた。
「ファティナ様、ご就寝前にお茶をお持ち致しました。この数日の間にお茶の淹れ方をきちんと復習なさっておいでですか? どうかクレオに披露して頂けませんか?」
もう一度、そっと名を口にすると、かちゃりと扉の掛け金が外れる音が耳に届き、クレオールは安堵に息をついた。
「ヴァルファム様は、いらっしゃいません?」
「おられません。ですが、心配されておいでです」
「……」
ファティナはまるでネズミか何かのようにそっと扉を開き、外にヴァルファムがいないことを確認してやっとクレオールを部屋へと招きいれた。
狭い部屋は、それでも二間続きになっている。奥には小さな寝台が置かれているのが見えて、そしてこちらの部屋には寝椅子とテーブルがセットされ、侍女が休めるようにと配慮されてはいるが、到底高級な宿舎とは言えるような場ではない。
クレオールは侍女から受け取った銀の盆をテーブルに置き、あくまでも穏やかな口調で語りかけた。
「私がお茶を淹れましょうか? 奥様が淹れてくださいますか?」
「……クレオの淹れてくれる美味しいお茶を、頂きたいわ」
ファティナは淡い笑みを浮かべ、儚く寝椅子に腰を預けた。
泣いたあとは見られない。けれどその表情は白く、気を落としているのがいやでも判る。
――あの父にとっては私や貴女など気に掛ける価値もない。庭先の石のほうがまだあの人の気持ちを動かせるでしょうよ。
ヴァルファムが辟易と吐き出した言葉は、ファティナの胸に鋭いナイフのように突き立てられたのだろう。はたしてどのようにその心を慰めるべきか、とクレオールがティーコジーを手に思案していると、ふっとファティナは息をついた。
「ヴァルファム様は間違っておいでです」
「……」
「旦那さまが私のことをどう思っているかなんて……」
ファティナは途切れがちの言葉でそっと、そっと消え入りそうに囁いた。
「私が一番判っておりますのに」
クレオールはファティナの作ったレースが縫いつけられているティーコジーを見つめ、ただ静かに空気のように女主の言葉を耳にいれていた。
相手の言う意味がどのようなものであるのか汲み取るのは難しい。
「……ファティナ様?」
「私の、父と母は、とても優しかったのです」
ファティナは記憶を辿るように、か細い言葉で続けていた。
それはクレオールに聞かせるというよりも、むしろただの独り言のように。
「時折しか顔を合わせませんでしたけれど、お二人は私を愛してくださっておりました」
彼女の言いたいことがどこに落ち着くのか、クレオールは詮索すらせずに蒸らしあがったティポットのお茶を、温めたカップに落とした。
「愛して……下さっていましたのよ」
ゆっくりと確認するその言葉に、クレオールはどこか安堵するように息をつき、淹れたての紅茶を主の前に示した。
離れていても愛情は判るというファティナは微笑ましく、そしてどこか切ない。
それでも彼女が笑っていてくれればクレオールに不満はなかった。
だというのに、ファティナはどこか諦めた様な微笑を浮かべ、温かなカップをその手におさめて言葉を続けた。
「ですから、愛されていないことくらい……判っております」