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亀裂

 二日目に宿泊したのは小さな町の宿屋だった。

夕刻には従僕を走らせ宿の予約と整いをさせたものの、よくある駅馬車が通過する町ではあるが、いかにも宿屋は小さく貧相だ。

 食事を済ませている間に侍女と従僕が部屋の掃除をすませ、シーツなども持参したものに交換はしたものの部屋の調度品や趣が変わる訳でもない。

そうこうするうちに天候が崩れ、階下の食堂では人の声が大きくなっていた。

 

騒がしい……


ヴァルファムは室内に小さな浴槽を入れて入浴をすませたが、部屋の椅子に座り琥珀色の酒の入ったグラスを傾け、鼻を鳴らした。

 食事時もファティナは疲れを見せてはいたものの、出されたものに文句も言わずにきちんと食べていたし、来る途中に見かけた牛の柄が可愛かったと良く判らないことに喜んでいた。


 今頃は彼女も入浴後の身支度を侍女に任せていることだろう。

馬車の旅も二日目だったが、実は王都からそう離れているという訳ではない。

時間はかかるが、義母の体に負担が掛からぬことを第一に道も広くて通りやすい場所を選んでいる。少しばかり辺鄙といってもいい道で物騒な噂もあるが、その為に屈強な護衛を三人つけているし、二台の馬車にはそれぞれ銃も乗せてある。ヴァルファム自身、短銃を一丁手元においているのだから、安全には気を配っていた。

 だがそれはつまり、人があまり通らないのだから町にある宿もあまり期待のできるものでは無いということでもあった。


寝台も今は一見すれば真新しいシーツがきちんと掛けられて何の不足も無く見えてはいるが、決して清潔なものでは無いだろう。へたをすれば本当に悪い虫がいそうなくらいだ。


 こんな場で……――


ちらりと部屋の扉を、そして壁へと視線を転じる。

気になって一番近い壁を軽く叩けば、笑いたい程軽い音が耳についた。


壁も、薄い――


 あの人は泣くだろうか。

泣き叫んだとしても今日の決意は固い。だが、邪魔が入るのは頂けない。

今宵、今まで隠し通していた胸の内を伝え――そして、この腕の中でその身に想いの全てを刻みつける。そう覚悟を決めてしまえば、何故か余計なことばかりが気に掛かる。


酒を飲ましてしまえば……いや、駄目だ。酒は駄目だ。

あの時と同じように泣き上戸になられてはたまらない。ほんの意地悪で酒を飲ませたあの時、へぐへぐと泣きまくり、こちらの気力も怒気も、あまり大言できない何もかもをそぎ落としてくれた記憶は未だ鮮明に残っている。


 だからといって声をあげられては、近くにいる護衛はおろか侍女に踏み込まれてしまうかもしれない。

さすがにそんな訳にはいかない。

 泣いて抵抗されでしまう前に、いっそのこと縛り上げてしまおうか。

 いや、どうせならあの人が義息と関係を築いたと使用人達にばれてしまえば――というか、ちょっと待て。私は正気か?


これではまるきり十代の若造――いや、犯罪者だろう。

完全に駄目な感じの。


 泣いて抵抗するあの人を抱きたいなどと思っている訳ではない。

優しく口付け、それに応えて欲しい。

自らその唇を解き、甘い吐息と舌先で触れる愛撫に身を震わせて欲しい。

時折見せる大人の顔で見上げ、首に手を回して愛していると……――

 脳裏に甘く柔らかな吐息を描いたとき控えめなノックが響きわたり、ヴァルファムは危うく持っていたグラスを取り落としそうになり、その気恥ずかしさを誤魔化すように空咳を二度繰り返した。


だから、私は十代の青二才か!


「どうぞっ」


 言葉にし、いやこれでは駄目だと手元のグラスをテーブルに戻し、席を立った。

ファティナを優しく招きいれる程度の礼儀と誠意はきちんと示さなければ。そう、最初から最後まで大人としての誠意を示すのだ。

 たとえ抵抗されたとしても、優しさのうちに最後には求めてもらえるように。

自分の感情を一旦沈めて引きつる顔面筋を叱責して笑みを湛えると、ヴァルファムは数歩で届く扉に手をかけて開こうとしたが、その扉はヴァルファムの応えに対して反対側から開かれた。


「失礼致します」


 丁寧な口調で応え一礼した相手を前に、ヴァルファムは顔面筋を宥めて作成された笑顔のまま言った。


「どうして執事(おまえ)がここにいる?」


 自宅屋敷に残して来た筈の執事は、にこやかな表情と微妙な声音で応対した主を前に一瞬怯んだが、まるで屋敷でそうするかのように会釈して口を開いた。


***


「クレオっ」

 寝巻きにガウンという姿のファティナは、嬉しさを隠さぬ跳ね上がる声音でクレオールを呼ぶと、執事の手をぎゅっと握り込んだ。

「会いたかったです……けれど、あの、どうなさったのです?」

 当初の喜びをすぐに収め、ファティナは小首をかしげた。


「私もお会いしたかったです、奥様。ご健勝そうでなによりですが――説明は……」

 ちらりと、クレオールはその視線を自分の背後で引きつった表情で足を組んでいる主へと向けた。

「私が致します」

 ヴァルファムは不機嫌そうに低い声で言い、とんとんっとテーブルの表面を弾いた。

「義母うえ、明日の朝になりましたらそのまま自宅に戻ることになりました」

 端的な言葉にファティナは瞳を瞬き、その意味が判らないというようにゆっくりと眉を潜めた。

「ヴァルファム様、お仕事でいらっしゃいますの?」

「いいえ、父の領地に行っても無駄になりました」

 淡々と言葉を告げる義息に、ファティナはその言葉を吟味するようにしばらくじっとしていたが、やがてゆるゆると首を振った。

「まさか――旦那さまの身に何かっ」

「そうならまだマシでしたが」

 ヴァルファムは小声でぼそりと言ったが、勿論その言葉はファティナの耳には届いてはいなかっただろう。


 ファティナは右手を戸惑うようにぎゅっと握り込み、不安そうに真摯な眼差しでヴァルファムを見つめてくる。

 ヴァルファムは思わず視線を逸らし、前髪を軽くかきあげながら言葉を続けた。


「王都の別邸にいるそうです」

「……あの?」

「今朝方手紙が届いたそうです。五日後に訪問すると」

 ファティナは狐に抓まれたな顔をした。

それに追い討ちを掛けるように言葉を続ける。


「王都の別邸に来て居るそうですよ。議員会がありまして、そちらに出席していたそうです」

 足の怪我もなんのその、自らの仕事に向かうその熱意はむしろ天晴れと褒めてやりたいが、その知らせが届くのが遅すぎる――いや早すぎたのか?


 どちらにしろタイミングの悪さは類を見ない。

あの男は判っていて嫌がらせをしているのでは無いかとすら被害妄想が爆発してしまう。

 まったくなんたるザマだ!

せっかく決意を固めたというのに、一瞬のうちに全てが台無しとなってしまった。少なくとも、侍女や侍従を誤魔化せたとしてもクレオールを誤魔化すことは不可能だろう。

何より、この知らせでファティナを懐柔することは容易いことではなくなってしまった。

 今の彼女は今まで以上に夫のことを考えているだろうから。

ぎしりと奥歯を噛み締め、ヴァルファムははたりと気付いた。

まさか呪われているのは自分ではあるまいか?


――生憎と他人に呪われそうな覚えなら山ほどある。

 

 ヴァルファムは客観的に見ても他人に対して友好的な男ではない。少なくとも五人や十人くらいは軽く蹴倒して生きてきたと自負している。そのうちの二人や三人くらいに呪われていても不思議ではないだろう。

 たかが呪い如きでどうにかなるほど軟では無いが、ここまで邪魔が入ると本気で何かあるのではないかと疑いたくなる。


「旦那さまは……どうして王都にいらしたことを知らせて下さらなかったのでしょう」

ヴァルファムの内心など知らぬファティナはふっと瞳を伏せて肩を落とした。

「気になさる必要はありません。あの男は自らのしたいことをしたいようにするだけですからね」

 冷ややかに言う義息に、ファティナは唇を一旦引き結んだ。

「ヴァルファム様、旦那さまに失礼なことをおっしゃってはいけません」

「失礼? どこが失礼だというのです。私は事実を言っただけですよ。

そもそも、貴女を本邸によこすようにと言ったのはあの男だというのに、そのことすら忘れているのでしょうね。

 あの父にとっては私や貴女など気に掛ける価値もない。庭先の石のほうがまだあの人の気持ちを動かせるでしょうよ」


 真実だ。

そう、それは確かに真実ではあったろうが、思いのままにファティナに言うのは過ちだ。

 ファティナは言葉を詰まらせた様子で義息を見返し、何かを堪えるようにして息をついた。

「明日の朝は早いのですよね。私はこのまま休ませて頂きます」

 応えを待たずに身を翻したその小さな背に、ヴァルファムは自分の失態を呪い、手のひらの中で爪が食い込むほど拳を握り締めた。

「クレオール」

「はい」

「――あの人にお茶を入れてやってくれ」

 失言を詫びて、その心を慰めたいという思いと同時、今自分が行けばただあの人の心を壊すだけだと理解していた。


 執事という立場でありながら単騎で駆けつけた男は、軽く頭を垂れてそのまま部屋を後にした。

おそらく、命じつけずともあの男はファティナの元に足を向け、その心を慰めたであろう。

 あの人の心を慰めるということは、あの人の願う言葉を囁くことと同義で――たとえクレオールに任せなければならないのだとしても、そればかりは今のヴァルファムにはできかねた。


 ヴァルファムはぎしりと音をさせる座り心地の悪い椅子に背を預け、テーブルの上に置かれたままのグラスに手を伸ばして残りの液体を一息に煽った。


父を擁護するようなことなど、今の自分には到底――無理だ。


 


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