渇望
詭弁だ――
勿論、ヴァルファムはそこを理解している。
「義母うえ、足元が悪いですよ」
馬車のステップに片足を掛け、義母の手を取りそのままひょいと抱き上げる。
あれだけ甘いものに執着している割に軽いのは、元々の身長のせいなのか――容易く抱き上げると、ファティナは吐息を落とした。
「ヴァルファム様、歩けます」
「勿論歩けるでしょうが、なんと言いましても私は大人の男になろうと努力しているところですから、あなたは寛容な心でもって受け入れてくださいますよね?」
そう、詭弁だ。
だが便利なこの言葉に、ファティナは言葉を詰まらせる。
なんといってもそれを求めたのは義母当人であるのだから、今更「止めなさい」などと言えないのだろう。
ヴァルファムはにっこりと微笑み、ファティナを抱き上げたまま小川の畔に用意された厚地のキルトへと誘った。
侍女と従僕とがお茶の準備と軽食とを整え、キルトの上には女主の為にクッションと掛け布が置かれている。ヴァルファムはファティナをクッションへとそっとおろすと、その膝に掛け布をかけ、自らもキルトの端に座った。
馬車の旅も二日目。
一日目はセラフィレス個人の私邸が郊外にある為、そこに泊まった。元々言ってあった為にセラフィレスは部屋も十分な食事も用意していたし、翌日の朝昼食用にとバスケット一杯の食料も用意してくれた。問題があるとすれば、深夜遅くまでまたしても酒に付き合わされることとなったが、旅の当初としては悪くない滑り出しであったろう。
二日目になれば、それまでまばらにもあった家屋敷の姿はすたれて農地が続き、やがて牧草地帯へと変化していく。牛や羊を見ては喜んでいたファティナだったが、昼頃には疲れも出たのか少しばかり無口となっていた。
「お茶、入れてさしあげますね」
従僕が少し離れた場所で火を炊き、沸かした湯をポットにいれて運んでくるとファティナがそれまでの変化の無い退屈を蹴飛ばした様子で嬉々として茶器に手を伸ばした。
「少しは上手になりましたのよ」
「それは楽しみですね」
言いながらもヴァルファムはそこはあまり信用していない。
先日作られた焼き菓子の時にもそれが「食べられるもの」であるという認識はあったが、果たして「嗜好品」であるかどうかには疑問を抱きつつ口にしたものだ。
幸い、それは問題なく喉を通ったが。
難点があるとすれば少しばかりヴァルファムには甘みがきつすぎたが、なんといってもあれは義母がヴァルファムの為に作ったものである。甘かろうが辛かろうが、どうということもない。
――さすがにファティナの用意するものであれば毒でも口にするなどという覚悟は無いが。
……いや、食べるか?
従僕と侍女とがきちんとバスケットの中身を皿に盛り分け用意を整えると、ヴァルファムは下がって護衛や御者にも食事を用意し、彼ら自身も食事をするようにと命じつけた。
「クレオが良く言っていますけれど、蒸らし時間とお湯の温度とに気をつければいいのですわよ」
と、ファティナは少しばかりあやうい手でもってお茶の準備をする。
ポットの中に茶葉を三掬い、湯をそっと落とし込んで可愛らしいティーコジーを乗せる。
「それでも時々苦味がですぎてしまうのですけれど」
くすくすと笑う義母は楽しそうで、ヴァルファムは自然と口元に微笑が浮かぶのを感じた。
――仕事に追われ、家の瑣末なことに追われてこうして穏やかな時間を得るのは実に久しぶりな気がする。
ああ本当に。
結婚だとかエイリクだとかまったくもって邪魔臭い問題でこのところずっと頭が痛かった。
さすがにしばらくの間はファティナも結婚のことなど持ち出したりしないだろう。なんといっても彼女の義息は完膚なきまでまでに振られたのだから。どんなに無神経な女といえどその傷を掘り返そうとはしないだろう。
――いや、ファティナであればするかもしれないが。
「でも一杯練習しましたのよ」
ファティナは熱心に言いながら、温めた紅茶のカップに茶を落とし、キルトの上に置かれた盆に載せ、示した。
「どうぞ」
まるきり子供のままごとのようだ。
そのおかしさを堪えてヴァルファムはカップを手にとり、その香りと色とを楽しみ一口喉へと流し込んだ。
口の中に広がる爽やかさと、喉にほんの少しからむ渋みに苦笑する。
「いかがです? 以前よりずっとうまくなったと思うのです。ミルク・ティは難しいのでまだちょっと無理ですけれど、普通にいれるぶんには大丈夫ですわよね?」
熱心に尋ねてくるのが愛らしく、ヴァルファムは「おいしいですよ」とやんわりと応えた。
途端、ファティナは両手を合わせて口元にあて、微笑んだ。
「きっと旦那さまも喜んでくださいますわよね?」
「そうですね」
一気に不愉快な気持ちになったが、ヴァルファムは落ちてしまった声のトーンを必死に盛り返そうと努力した。
自分は今大人の男になる為に努力しているのだ。
こんなことで大人気なく不愉快になっている場合ではない。
「そういえば、ヴァルファム様」
「はい、なんですか?」
「メアリ女史にはきちんと挨拶はされました?」
――義母の無神経さは予想通り、いや遥かに上回っていた。
「……私と彼女はもう無関係です」
なんといってもすでに慰謝料の為の屋敷を郊外に用意している。あれで文句があるのであれば正攻法で訴えてみろ。
弁護士など用意せずとも勝てる自信がある。
「本気でおっしゃっていらっしゃるのですか?」
「この話題はここで最後にして欲しいのですが、要約いたしますと私はメアリ女史に振られたのです。いいですか? 傷心の私にこれ以上塩を塗り込めるような真似はお止め下さい」
さすがにここまで言えばいいかと思えば、ファティナは吐息を落とした。
「可哀想なヴァルファム様……」
――ええ本当に。時折本当に自分は随分と可哀想なのではないかと思いますよ、義母うえ。
「でもここでめげてはいけません! ヴァルファム様はとっても素敵ですもの、ちゃんとヴァルファム様を好きになってくれる方が見つかります。ですから悲しまないで下さいね」
悲しんではいないが、そこまで同情されるとなんとなく腹立たしいのはいったい何故であろうか。
まるで物凄く女性に嫌われているかのように言うのは止めて欲しい。
ヴァルファムは苦笑し、紅茶のカップの淵を指先でなぞった。
「素敵ですか?」
「わたくしの自慢の義息ですもの」
ファティナは盆の上にあったサンドイッチを一口齧り、飲み込みながらうなずいた。
「ありがとうございます。私にとってもあなたは自慢の義母ですよ」
――たとえ愚かで考えなしで無神経で人を怒らせる天才であろうとも。
労わる言葉一つ、優しい眼差し一つ、無邪気な微笑み一つ。それを惜しみなく与えてくれるそれだけで誰よりもかけがえのない愛しい女。
ふっと鼻で笑えば、ファティナは小首をかしげた。
自然と上着のポケットをさすり、そこに硬い瓶の感触があることを確かめる。
愚かで考えなしで無神経なあなたのことを考えると、愚かなことばかりを考えている自分が更に愚かに思えてくる。
「でも、いつか義母うえは私を嫌いになってしまうかもしれませんね」
「どうしてそんなことをおっしゃるの? わたくしがヴァルファム様を嫌いになるなんて、そんなことは絶対にありませんわよ」
ファティナは食べかけのサンドイッチを手にしたたまま、少し怒るようにして唇を尖らせた。
翡翠の眼差しをひたりと向けて、見くびらないで欲しいと訴える様子に、ヴァルファムは微笑を浮かべ、身を寄せて囁いた。
「でも、この秘密を知ったらきっと嫌いになりますよ」
「まぁ、何か秘密がありますの?」
「ええ、ずっと――ずっとあなたに秘密にしていたことが。けれどきっとそれを知ったらあなたは私を嫌ってしまうと思うのです」
声を潜めてナイショ話しのように言う義息を前に、ファティナはむっとした様子でもう一度口にした。
「嫌いになったり致しません」
「約束できますか?」
「勿論――」
ファティナは言うと、手にしていたサンドイッチを一旦盆に戻し、にっこりと微笑んだ。
口の端にサンドイッチに挟み込まれたソースがついているのが、またなんとも滑稽だ。
「ヴァルファム様にどんな秘密があっても、たとえば、ヴァルファム様がどんなひどいことをしたとしても、わたくしは決してヴァルファム様を嫌ったり致しませんわ」
高らかに宣言し、そっとファティナはヴァルファムの唇に自分の唇を押し当て、すぐに離しはしたものの満足気に一つうなずいた。
「さぁ、その秘密を教えて下さいませ」
嬉しそうに言う義母を前に、ヴァルファムは身を起こして自らの唇についたソースをぺろりと舐めて微笑んだ。
酸味のあるソースが、口の中にじんわりと広がっていく。
それと同時に、自分の中に激しい飢えを感じた。
腹の奥でぐるぐると巡る、激しい飢え。口腔の奥に自然と溜まる唾液が息苦しさを与え、意識してゆっくりと嚥下した。
「では、今宵は久しぶりに一緒の寝台で休みましょうか。その時に私の秘密を教えて差し上げますよ」
義息の秘密をどう捉えたのか、楽しそうにしている義母にヴァルファムはもう一度確認するかのように言葉を続けた。
「言っておきますけど、知りたいと言ったのは義母うえですからね。聞いてから聞かなければ良かったというのはナシですよ。それに、嫌いという言葉もナシです」
ヴァルファムは意地悪い口調でいいながら、ファティナの食べかけのサンドイッチに手を伸ばし、それを自分の口の中へと納めた。
嫌われない保障など勿論存在しない。
――ポケットの中にある小さな冷たい瓶を意識しながら、ヴァルファムは何が自分にとって最悪なのかを考えた時、一つの答えを導き出していた。
――どのような結果になろうとも彼女はきっと泣くこととなる。
ならば、誰かに泣かされるくらいであれば自分が泣かして何が悪い。