馬車の旅
白い大きな犬の首にぐっと手を回し、ファティナは「悪戯しては駄目ですよ」と囁いた。
「パールは大丈夫ですよ。お散歩は私が致しますし」
と、メアリは穏やかな微笑みでそんな女主に請け負った。
屋敷の主が馬車で旅立つという朝は、澄み渡る青空が広がる晴天だった。正面の車寄せに使用人達がざわざわとざわめきながら荷物を二台の馬車に詰め込み、護衛が三名、御者が二名、侍女二人に従僕が一人――いかにも大仰な道行だが、淑女がいるのだから当然ともいえる。馬車で五日あまりも走るというのだから、結構な遠出だ。
昨夜のうちに組まれたという旅程は無理の無いものになっているし、決して野宿などにならないようにと町の宿屋のことも定められている。ヴァルファムがどれだけ心を砕いたものか知れるものだが、ファティナには届いていまい。
「義母うえ、あまり時間をかけても予定が崩れます」
ヴァルファムが馬車につながれた替えの馬の鼻面を撫でながら苦笑をこぼせば、ファティナは名残惜しいという様子を見せながらも愛犬から手を離した。
「パール、皆を困らせてはいけませんよ?」
垂れた耳の裏をかいてやり、更にぎゅっと犬を抱きしめるファティナに、ヴァルファムはしびれを切らしたのか呆れた口調で言った。
「よろしいのですよ? 行きたくないのであれば」
「まぁっ、またそういう意地悪をおっしゃる。わたくしがどれだけこの日を楽しみにしていたのか、ヴァルファム様はご存知でいらっしゃるでしょうに」
ファティナは唇を尖らせ、ついでメアリへと視線を向けた。
「わたくしがいない間はゆっくりとなさっていてくださいね」
「最近は休みっぱなしです。どうぞご無事でお戻り下さいませ。それと、私がいないからと言って、勉強をおろそかにしてはいけませんよ?」
教師らしく威厳を込めて言われ、ファティナは眉を潜めつつもうなずき、手を伸ばしてメアリを軽く抱きしめた。
「戻ったら近代の歴史ですわよね?」
「きちんと覚えていらっしゃいますね。忘れずに予習なさって下さい」
いかめしく言えばファティナが笑う。
ファティナはすっと身を引き、ついで控えているクレオールへと体を向けると、クレオールの手をぎゅっと握った。
「クレオもたまにはゆっくりして下さいね」
「ご心配には及びません。奥様はどうぞご病気や怪我などなさらないように――困ったことがありましたら、何でも侍女に申し付けてください」
しんみりとした別れの空気をかもす二人だが、それをじりじりと冷たい眼差しで見ているヴァルファムの存在にメアリはあきれ返っていた。
もしこれでファティナがクレオールに抱きついたりしたら面倒臭い事態になりかねないとメアリなどはひやりとしたが、クレオールはやんわりとファティナの手を引き離して一歩退いた。
「どうぞ、お気をつけて――ご無事をお祈り申し上げます」
***
予定より幾分遅い出発となったが、馬車は昼前に出立することができた。
予定より遅くなった最終的な理由は単純にして明快、突然ファティナが「ヴァルファム様!やっぱりパールも連れて行ってあげたらどうでしょう?」などと言い始めた為だ。
いつまでもぐずぐずと犬に張り付き、往生際も悪く。
「パールはわたくしがいないと寂しいですわよね?」
確かに、パールは寂しげな眼差しで主をみあげ、でかい図体にかかわらずくんくんと鼻を鳴らしてはいたが、だからと言って「はいそうですか」などと犬を連れていける訳がない。百歩譲って連れていくことが可能だとしても、こんなでかい犬――へたをすればファティナと体重が近いほどの犬など邪魔でしかない。何よりこの犬はヴァルファムがファティナに誕生日の祝いに与えた犬だというのに、ちっともヴァルファムにはなついていない。
ともすれば温和な顔をしているというのに鼻に皺を寄せて威嚇すらする始末だ。
ヴァルファムはにっこりと微笑んで、
「駄目です」
きっぱりと言い切り、さっさとファティナに馬車に乗るようにと言ったのだが、小娘様は途端にむっとした様子で「世話はわたくしがきちんとします」とまで言い出す。そもそもその犬の世話をするという意味をこの義母が理解しているとは到底思えなかった。
どう言い聞かせようかとヴァルファムが逡巡していると、それまで控えていた執事が穏やかな口調でファティナに言った。
「大人におなりになられるのですよね?」
「……」
「パールの世話はきちんと致します。どうぞ心置きなくお立ち下さい」
ファティナはそれでも名残惜しい様子をみせたが、仕方ないというようにもう一度愛犬の首をぎゅっと抱きしめて「寂しくても鳴いてはいけませんよ?」確実に寂しがっているのはファティナ自身だろうと思わせることを呟き、観念した様子で馬車に乗り込んだ。
「大人になるとは何ですか?」
馬車が走り出してしばらくは窓辺にべったりと張り付いて屋敷が見えなくなるまで手を振り続けていたファティナだが、やがて前方にいるヴァルファムを視界に入れた頃合を見計らい、ヴァルファムはゆっくりと切り出した。
「わたくしはもう立派な大人です」
「そうですね?」
何故か得意げに背筋を伸ばして言う義母が滑稽で、ヴァルファムは思わず疑問系で応えてしまった。
「なんだか言い方がいやな感じですわよ」
「そうですか? 勘違いではないでしょうか」
「わたくしは今朝自らに誓ったのです。旦那さまに恥じない立派な大人になって旦那様にお会いしに行こうと」
ファティナはぎゅっと自分の胸の前で両手を重ね合わせ、微笑んだ。
――そういうとこが子供だというのだ。
ヴァルファムは内心で呆れつつ、ついで「旦那さまの為」に努力しようとする義母に腹立たしさを覚えて面前の義母をすさんだような気持ちで眺めた。
今日の義母の服装は、この日の為にあつらえさせた淡い桃色の旅行用のモスリンドレスだ。身動きがしやすいようにとコルセットを使わないタイプで、外套をつけている。季節的にさほど寒くは無いが、もしや足元は冷えるかもしれないと足元には暖めたレンガを置いてある。
普段であれば耳の脇の髪を一掬いづつ後ろで束ねて髪留めで止め、残りの髪は腰の辺りまで自由に流してあるものが、本日はきちんと全て結い上げて頭の上には申し訳程度に可愛らしい帽子がちょこんと乗せてある。
ふと、以前このように馬車で義母と迎え合わせに座っていたのはいつのことだろうと記憶を手繰り寄せ、思い出した途端に後悔した。
義母がヴァルファムに無断で屋敷を抜け出し、セラフィレスが演奏する音楽会に出席した時ではなかったろうか。
――今日のような旅装ではなかったが、あの時のファティナも髪を結い上げて幾つかの髪飾りと真珠、そしてきらきらと髪を彩っていたのは輝石をすりつぶして散らしたものだったろう。
――結い上げられた髪に、白い首筋。
そして、怒りと、強い渇望。
きっちりと結い上げられた髪が乱れて、その唇に乱暴に触れた。
舌先を無遠慮に吸い上げ、掃かれた口紅がかすれて吐息がしっとりと濡れる感覚。
その時の感情も、感触までも生々しく思い出し、ヴァルファムは思わず呻いた。
「ヴァルファム様?」
ふいに膝頭に重みを感じ、ハッと息を吐き出すとヴァルファムの膝頭に軽く手を添えて不思議そうに覗き込んでくるファティナの翡翠が飛び込んだ。
「うわぁっ」
珍しく無様な声をあげてヴァルファムはのけぞり、その勢いのまま箱馬車の背にがんっと頭を打ち付ける羽目に陥った。
「な、何してるんですかっ」
「何って……何度もお呼びいたしましたのよ? 具合でも悪いのではありません? 大丈夫ですか?」
「いいですから座ってなさい!」
側頭部に鈍い痛みを覚えながら、ヴァルファムは思わず怒鳴ってしまった。
自らの思考を見られたかのような焦りが先に立ち、その気まずさを誤魔化すように怒鳴り上げたのだが、面前にいるファティナは何故怒鳴られたのか判らずに唇を尖らせた。
「わたくしはただ心配しただけですのに」
「……すみません」
ばつの悪さにヴァルファムが謝罪すると、ファティナは――図に乗った。
「そもそも、ヴァルファム様は怒りっぽいですわよ。勿論わたくしはヴァルファム様がお優しい方だと知っていますけれど、きっとヴァルファム様が偏屈で怒りっぽくて面白みの無い方だと勘違いしている方もいると思います」
偏屈……
「聴いておりますか? たまにはきちんとこの義母の話しをお聴き下さいませ」
なんだか判らないが、ファティナは調子にのった様子で自らもきちんと反対側にすわり、こほんっとわざとらしく咳をつくと、たんたんっと座席の天板を叩いた。
「お座りなさい!」
「座っています……」
ファティナは満足そうにうなずき、
「この旅の間に立派な大人の男性になって素敵な花嫁様をお迎えできるようにヴァルファム様も人間を磨くのです」
時折……そう、時折。
ヴァルファムは生あったかいような生ぬるいような気持ちでファティナを眺め、自分は激しく趣味が悪いのだろうと天を仰ぎたいような気持ちになる。
「女性には優しく、誠意を込めて対応なさらないと!」
「はいはい」
「まぁっ、誠意が少しも感じられません」
趣味が悪すぎる。
自分はまったくもって本当にどうにかしているのではあるまいか――ヴァルファムはぷりぷりと意味不明なことで楽しそうに怒っている義母を前に乾いた笑いを浮かべ、足を組みなおした。
淑女とはほど遠く、賢さとも縁が薄く、けれどどうしようもなく愛しいイキモノ。もう理屈とかそういったものを全て無視した存在としかいいようがない。
「では義母うえがおっしゃる大人の男はどんな男なのです?」
「それは勿論女性に優しくて、誠実で、素敵な男性です」
随分と象徴的で判らない言葉が並んでいる。
所詮、ファティナ自身理解していないのだ。
ヴァルファムは深く息をつき、顔をあげて微笑んだ。
「生憎とこの不肖の義息のことですから、貴方の望み通りの大人の男になれるか判りませんが」
「あら、ヴァルファム様はわたくしの自慢の義息ですわ」
不肖だなどととんでもないと言う義母に唇を引き上げるようにして笑って見せた。
「では、とりあえず大人の男になれるように努力してみせましょう」
――大人の男など、ちっともあなたは理解していないだろうに。