胸の内
要らないと言ったにもかかわらず、テーブルの上に残された小瓶。
まるで気付け薬でもいれるかのように、表面に蔦をからませたデザインに薄い桃色の、いっそ愛らしい小瓶は淑女が好みそうなものだった。
それを眺めていると、ヴァルファムの眉間の皺はずいずいと深まった。
セラフィレスのほのめかしが判らないとは言わない。
――父の死を望んだことなら幾度も有る。
だが、自らの手で殺したいのかといわれれば、あまりその気はなかった。いや、だがしかし。そうすることが必然であればその場合はむしろ毒などではなく、拳銃で風穴を開けてやりたい。
安らかな眠り? 何故そんな生ぬるいことをしなければならないのか。いっそ死ぬならばせいぜい苦しんで果てろ。
そこまで考え、ヴァルファムは息をついた。
我ながら、性格が悪すぎやしまいか? そもそも、父に対しての気持ちなど、ただ「居なくてもいい」程度のものでしかないのだ。
――落ち着け。あまりにも支離滅裂だ。
まず、父が死んで何か利点があるのか?
あるだろう。父さえ居なければ義母を誰にも奪われることは無い。父が居なくなれば、義母は変わらずそこにいる。
たとえ自分が他に妻を得なければならないとしても、義母は……まて、その場合、妻を娶らなくてもいいのではなかろうか? 義母を自分の妻に――は教会法によって無理だ。血のつながりはなくとも、義母と自分は教会によって親子と定められているのだから、夫婦になることはできない。
跡取りである自分は必ず子を設けなければいけないのだから、妻は必然。
ぐるぐると巡る思考に、やがてヴァルファムは匙を投げた。
「酔っているな……」
思考がまとまらない。
阿呆なことが脳内を駆け巡るのは、セラフィレスがおかしなものを持ち込んだせいだ。
きしりと椅子の音をさせて足を組み替え、ヴァルファムはテーブルの上の小瓶をつまみあげて燭台の灯りに照らした。
傾けると中の液体がとろりと揺れる。粘度のあるらしいそれを瞳を細めて眺めながら、自嘲するように口元に笑みを落とした。
――いっそ、ファティナに口移しで飲ませれば、こんな下らぬ悩みなど解決するだろうに。
***
「わたくし決めました!」
朝一番でクレオールを相手にぐっと拳を握り締めて強く宣言したのはファティナだった。
夫の領地へと旅立つ朝、ファティナにも思うところがあったのだろう。
「わたくし、大人になります」
「――」
クレオールはとりあえず笑みを張り付かせた。
「旦那さまに会うのに恥ずかしくない立派な大人になります!」
大人になるという宣言一つで大人になれるなら世話はなく、またファティナにそれが適うとは到底クレオールには思えなかった。
きしりと胃が痛む気がするのは、この女主が自分のいないところできちんと生きていけるのかどうかが果てしなく心配である為だろう。勿論、彼女は決して一人ではないのだが、旅の同行者がヴァルファムである。
いっそ執事という職を辞して、従僕にでも転職してしまいたい。
少なくとも、屋敷に縛られる執事よりは主の世話係の従僕であれば旅に同行が適うというものだ。
引継ぎのことなどを考えれば当然無理な話ではあるが。
「立派な心がけです」
他にいいようがない。
しかし、クレオールの言葉に我が意を得たりと言う様子で、ファティナは勢いよくうなずいた。
「私が大人のきちんとした女性であれば、きっと旦那さまは……――」
勢いに乗っていたファティナだったが、ふっと顔を強張らせたかと思うと視線をそらした。
「奥様?」
「きっと旦那さまは旦那さまのお子を授けてくださると思うのです」
「そうですね」
クレオールはふっと口元をほころばせそうになるのを堪えつつ、女主の言葉に賛同した。 果たしてヴァルツがこの幼い妻にどう接するつもりなのかは使用人である自分には理解しがたい。だが、ファティナが望むのであればそうなって欲しいとクレオールも願っていた。
夫を愛し、子を求める――女主は極普通の女性なのだ。
ただほんの少し、突飛過ぎるところがあるだけの。
ただ少し……いや、深く考えてはいけない。
「馬車でいったい何日かかります?」
「若様がご予定しているのは六日程です。行程的にはゆっくりとしたものになりますから、これより遅くなることはまず無いと思います」
昨夜のうちに聞いた行程は、あくまでも野宿などしないようにと心の配られたものだった。各所の宿屋もきちんと視野に入れられているし、随所の休憩地点も考えられている。ファティナに無理をさせない為であろうと思えば微笑ましい程だ。
クレオールは女主を階下へと促し、朝食の為に食堂室へと歩き出した。
「旦那さまのお屋敷では朝食は食堂ではなく、寝室でとられることとなると思いますが、侍女がお手伝いしますので戸惑うことはありません」
「寝室で食事、ですか?」
「はい。この屋敷ではヴァルファム様が朝はお早いですし、ファティナ様もご一緒に朝食を召し上がる習慣でしたから食堂室でしたが、一般的には朝食は寝室でとることが多いのです。寝台の上でクッションに背を預けて膝の上に食台をセットしてお召し上がりになることになります」
説明を加えながら、やはり心配になってくる。
この屋敷での常識が外では通用しないこともある。心配しだしたらまったくもってキリのないことだ。
ファティナはしばらく考える風だったが、やがて真面目な口調で言った。
「寝台に虫がきてしまいそうですわね? もしかして、ヴァルファム様は時々わたくしが寝坊した時に寝台で朝食を召し上がっているのかしら? だからあの寝台には悪い虫がいるのではない?」
……何もしなくてもあの寝台には悪い虫がいるのです。
「いない間にも虫干しと燻蒸をお願いしますね」
「そのように致します」
思わず言葉が不必要に慇懃になってしまった。
「あ、それともやっぱり寝台を取り替えてさしあげたほうが良いかしら? 結局まだ取り替えてませんわよね?」
真剣に悩みだした女主を前に、クレオールは更に心配が増してしまい、我知らずそっと自らの胃の腑の辺りをなであげてしまった。
「クレオ? なんだか顔色が悪いみたい。大丈夫? 具合が悪い?」
あれこれと思い悩んでいる主がふと足を止めてクレオールを見返してくる。眉を潜めたその姿に、クレオールは苦笑をこぼしそうになる自分をとどめ、そっと首を振った。
「クレオは具合が悪いのではありません。ファティナ様が一日も早くご無事でお帰りになられるようにと願っているだけなのです」
真摯にゆっくりと言葉にすれば、ファティナは時折見せるやけに大人びた微笑を浮かべた。
「心配は要りません。わたくしは旦那さまの許に行くだけなのですもの。
そう――心配なんて、少しもありません」
瞼を伏せて、まるで自らに言い聞かせるように呟いたファティナは、途端に子供の顔に戻ってみせた。
「久しぶりに名を呼んでくれましたわね。いつもそうしてくれていいと言っていますのに。誰も名を呼んでくれないと、わたくしはわたくしが誰か忘れてしまいそう!」
たいへんありがたい申し入れだが、自分で自分の首を絞める趣味はクレオールには無い。
クレオールは食堂室の扉を開き、すでにテーブルについて新聞に視線を落としていた男主に一礼した。
「おはようございます。若様」
丁寧に告げたが、いつもどおりヴァルファムは軽く視線でうなずくだけだった。
「おはようございます、義母うえ。良い朝ですね」
ばさりと音をさせて新聞をおろし、ヴァルファムが席を立ってファティナへと手を差しだした。
「おはようございます。ヴァルファム様――とっても素晴らしい朝ですわね」
「食事が済んだらお腹が落ち着くまで体を休ませ、その後出立いたしましょう。荷物は朝のうちに馬車に積み込むように伝えてありますから、何の心配も要りません」
ヴァルファムは言いながらそっとファティナの瞼に、頬に口付けた。
「楽しみですね」
***
目覚めてしばらく、その忌々しい薬瓶を前にヴァルファムはまたしても下らぬ思考に落ちてしまった。
こんなものが存在しているのが悪い。
こんなものはさっさと処分してしまうに限る。そう決意し手をかけたところで、ノックの音と共に侍女が扉を開いた。
「おはようございます」
咄嗟に、ヴァルファムは小瓶を手の中で強く握りこみ、何食わぬ顔で上着のポケットの中に落とし込んだ。
激しく心臓が鼓動するのは――まるで自らの心の内を見透かされるようなどうしようもない罪悪感だったろう。
侍女は当然ヴァルファムが何を思い、何を手にしていたかなど知る良しも無いというのに。
――殺意など、無い筈だというのに。