旅の前日
ああ、夢だ――夢を、見ている。
けぶる睫毛に眼差しを伏せて、蜂蜜のような金髪が緩いカーヴを描いて揺れる。口元にいつの間に紅を差すようになったのか、微笑をこぼす口唇が紅い。
頬につっと流れ落ちた涙の意味が、頭からずっと離れない。
そんなことは無いといいながら、いいや――と幾度も頭を振った。
口付けたのも……その身を抱いたことも、全て夢だ。
脳内で幾度も幾度も繰り広げられた饗宴は、いつしか現実であるのか虚構であるのかもしれないものと成り果てた。
夢、だ。
夢だと理解しているというのに、それでも心のどこかが渇望していた。
――愛では無い。
そんなものは戯言だ。
それでも、二人の間に【何か】は確かに存在していた。
存在していたのだ……
***
それだけでも煌びやかさを持つ細やかな細工の宝石箱は、もともとは母の持っていたものだ。
中には琥珀と翡翠で作られたブローチとネックレスが入っていたが、それらは失われた母と父のよすがに領地の屋敷の片隅にそっと埋めた。
遠く海上で果て、遺骸の無い墓が哀れで、せめてもと埋めてその印と成すために。
十六となった現在、母の残した宝石箱には、溜息がこぼれる程の輝きを放つ輝石をはめ込んだ指輪に耳飾、同じ意匠の髪飾りと、まるで子供の菓子箱のように数多の宝石が納められている。
それらは全て夫からの贈り物だった。
その宝石の輝石は琥珀と澄み渡るような湖畔の色彩を放ち、見つめていると夫の眼差しに触れているようななんだか落ち着かない気持ちを抱かせた。
それは、触れるとどこまでも冷たく、まるで社交界のデビュタントが緊張にかく汗の手を沈める為に握りこんだ水晶を思わせる。
そして、その宝石に混じってファティナは一通の封書を大事にそこに収めていた。
夫がはじめて自分に送ってくれた封書――夫がはじめて妻へと向けてくれた言葉。それがたとえどんなものであろうと、ファティナにとっては宝物だった。
その封書をそっと撫でて、ファティナは宝石箱を閉ざした。
「そちらはどうなさいますか?」
荷造りをしてくれている侍女を監督するクレオールが穏やかに問いかける。
それを受けてファティナはふるりと首を振った。
「置いて参ります」
「ではこちらにいらしていただいて宜しいですか? 残りの荷物の点検をしていただきたいのですが」
「クレオが見てくれたのでしょう? ならば間違いなどありませんわ」
ファティナは微笑み、けれどすぐに顔を曇らせた。
「どうかなさいましたか?」
「クレオは一緒に行ってくれませんのよね?」
この屋敷に暮らすようになって一番共に時間を過ごしたのは、義息でも家庭教師でもなく、間違いなくこのクレオールという執事だった。
出会った当初のクレオールは未だ執事見習いであったが、その翌年にはこの屋敷の正式な執事としてファティナの良き理解者として、話し相手としてその手を差し伸べてくれていた。
だが、そんな相手とも幾度か離れたことがある。
それはヴァルファムと共に山荘などで過ごした時のこと。
「私はこの屋敷の執事ですから」
「……寂しいですわね」
ふっと瞼を伏せる女主の切ない吐息に、クレオールは身を伏せその視線を合わせて微笑みを返した。
「私も寂しゅうございます。どうぞご無事でお帰り下さい」
「メアリ女史も居残りですものね。とっても……」
言葉を繰りながら、ふっとファティナは大事なことに気付いてしまったという様子で眉を潜め、その手を伸ばしてクレオールの手を掴んだ。
「どうしましょう、クレオ」
「何か?」
不安そうに揺れる眼差しに問いかけると、ファティナはぶるりと身震いした。
「ヴァルファム様と二人ということですわよね?」
「護衛や従者、御者に侍女も二人いますが……まぁ概ね」
ヴァルファムと二人ということに身の危険でも感じたのかと思えば、ファティナは真剣な口調で言葉を続けた。
「ヴァルファム様のお説教がはじまってしまったら誰が助けてくれるのです?」
「……あまり怒らせないようにがんばって下さい」
***
野良牛に轢かれたりしなかったらしいセラフィレスは、妹がファティナへと宛てた手紙の内容を一読し、耐え難いというように腹部を折って笑い出した。
「まったくあの子はどうしてこういう阿呆らしい話を引っ張り出せるな。その才能に嫉妬しちゃいそうだよ!」
「笑い事じゃないだろう。おまえの妹が心配じゃないのか」
というか、何故私が心配しなければいけないのだ。
ヴァルファムはぎろりとセラフィレスを睨みつけたが、セラフィレスはどこ吹く風でひくひくと肩を震わせている。
「この手紙によるとだね、軟禁だか監禁だかされて椅子に縛り上げられて三日過ごしたあげく、子作りを拒絶してさらに三日の間折檻を受けたことになっている」
淡々と言う言葉に、ヴァルファムは嫌悪するように眉根をひそめた。
「……胸糞悪い話しだ」
いくらリルティア相手といえども、それを想像すると胃をすっぱいものが通るようないやな気持ちになる。おそらく、ヴァルファムの内でその少女がリルティアではなくファティナに変換されるからこその嫌悪感であろうが。
「でも、この手紙をぼくが預かったのは、結婚式の翌日なんだよ」
ひらひらとセラフィレスは手紙を振った。
「花嫁と花婿が床を共にしたのはその一日だけ。一週間の拷問まがいの扱いをいったいいつ受けられるんだい? それに、三日も食事抜きなんてしたらあの子は自由になった途端に逃げ出してるね。極上のスコッチを賭けてもいい」
大仰に肩をすくめ、セラフィレスは口の端を歪めた。
「十五歳年の離れた花婿は、可愛い花嫁にデロデロで、爪先からねっちりと舐めあげることはあっても泣かせることは怖くてできないと思うよ? ああ、鳴かすことはあるかもね?」
「……」
「あ、うわっ、いやな想像しちゃったじゃないか。気持ち悪い」
セラフィレスは顔をしかめ、その手紙をくしゃりとまるめて放り投げた。
他人の私室を道端と勘違いしているのではあるまいな。
「ま、実際この手紙の中身は嘘だろうけど」
さらりと言われた言葉に、ヴァルファムは顔をあげた。
「嘘? そんな嘘を書いて何が楽しい」
「ファティが騙されて右往左往するのが! きっと今頃それを想像してあの子はニヤニヤしていると思うね」
なんという厄介な。
ヴァルファムが顔を顰めると、セラフィレスは笑いながら片眉をあげた。
「本当にぼくのリールにそんなことをする男なら、決闘なんて言わない。寝てるところでその心臓をぶち抜いてやるよ」
「決闘はしないのか」
ヴァルファムは忌々しいというようにぼそりと呟きつつ、放り出されたゴミ屑を暖炉の中に入れなおす。
なぜこの男の尻拭いをしなければならないのかまったくもって謎だ。
何より、あんな下らぬ手紙を書く淑女など滅びてしまえ。
「ああ、それよりもこんなモノもあるか」
ふと、セラフィレスは思い出したように胸元に手を差し入れ、小さな瓶を一つ取り出し、にやりと口元をゆがめた。
親指と中指で瓶を挟み込み、入り込む太陽光に反射させるようにとろりと中の液体を揺らして見せた。
「ヴァルにあげるよ」
「なんだそれは?」
「俗称、淑女の吐息」
ことりとテーブルの上にそれを置き、セラフィレスは謳うように続けた。
「甘く柔らかな眠りを約束してくれるらしいよ――永遠に」
――昨日泊めてくれた可愛い子ちゃんが持っていたんだけど、危ないからもらってきちゃった。
とへらへらと笑うセラフィレスに、ヴァルファムは眉間に皺を刻みこんだ。
「生憎とそんな眠りなど欲しくない」
「嘘つきだなぁ、ヴァル。判っててそう返すなんて。まぁま、決闘やら血生臭いものより随分といいもんだと思うよ。幸い、相手はもういつぽっくり逝くか知れぬ年齢だし?」
茶化す物言いにむっとしながら、ヴァルファムは軽く手を払った。
「何を言っているのか判らん」
「ぼくも何言ってるのか判らないや」
くくっと喉の奥を鳴らし、セラフィレスは足を組み替えてつんっと指先で小さな瓶を弾いた。
「こういうのはアレだ、知り合いのカディルのが似合うんだよね」
やれやれと何気なく落ちた言葉に、ヴァルファムはそれまでしていた作業――旅行の間の荷物と大まかな予定を組む作業を中断し、片眉を跳ね上げた。
「カディル? カディル・ソルド?」
「ああ、ヴァルも知って……てもおかしくないか。そりゃそうだ」
一人で勝手に納得しているセラフィレスに胡乱な視線を向けると、セラフィレスは首をかしげた。
「あれ、違う人?」
「誰の話しなんだ?」
「誰って……ファティナの郷里であるグレイフィードの領主館を取り仕切っている家令の話しじゃないのかい?」
セラフィレスは不思議そうに首をかしげた。
「元々はグレイフィードの隣の領主の長男外で、今はグレイフィードの屋敷と領地を管理している。たまに顔を合わせるんだけど、なんていうか爬虫類? トカゲとか蛇っぽいよね。何考えてるのか良く判らないから、ぼくはああいうのはちょっと苦手だな」
――ファティナの屋敷の家令。
その事実がすとんと腑に落ちた。屋敷のことをファティナに語っていたのもうなずける。うなずけると同時に、自分の父親がファティナに対して砕く心の意味に不愉快な気持ちが湧いた。
父と義母達の間のことなど今まで気にも掛けていなかったが、父は妻にそのような気の掛け方をしたことがあったであろうか?
「ああ!」
突然目の色を深くしたヴァルファムの様子に、ヴァルファムの夢想を言葉を跳ね退ける勢いで突然セラフィレスはにんまりと笑った。
「ぼくはヴァルみたいに感情が駄々漏れなタイプのほうが好きだよ。必死に平静を装っていても、苛立ちとか憤懣がもぉ完璧にだらだら漏れちゃってて素直で大好きだよ!」
「貴様に好かれても嬉しくない」
「もぉ素直じゃないんだからっ」
……なぜこの男はこの屋敷に入り浸るのだろう。
ヴァルファムはぐっと拳を握り締めたが、この男を叩きださない理由を考えないところですでに敗北していることに気付いていなかった。