脱力
――毎度のことながら、今度は何だ。
ヴァルファムは、はっきりと挙動不審な義母に嘆息した。
セラフィレスと飲み明かした翌日。朝一番で言いたくも無い父親の所領へ行く旨告げようとしたものの、義母ときたら目の下にクマなどつくり、どこかぼんやりとしている。
普段からうっかりものの義母だが、食器の音をさせたり、食べ物をぽろりと落とすような瑣末な真似はそうそうあるものでは無い。
この屋敷に来てしばらくの間はそのようなこともあったが、さすがに十六となった現在は淑女として見える程度にはなっている。
だというのに今日の彼女ときたら、心ここにあらずときたものだ。
はじめのうちこそ見てみぬふりをしていたが、やがてヴァルファムは吐息を落として口を開いた。
「セラが何か?」
セラフィレスは土産と称し持参した酒を容易く飲みきり、ヴァルファム秘蔵のウイスキーやスコッチをさんざ漁った挙句、明け方近くに「むらむらするから帰る」とふざけたことを言って帰っていった。
――どこかその辺りで酔いつぶれていたとしても絶対に同情しない。むしろ路上で野垂れて野良牛にでもひかれてしまえ。
野良牛がいればだが。
「え、あ……セラ兄様がどうかしまして?」
ファティナは慌ててそう言うから、原因はどうやらセラフィレスではないらしい。
「何か気に掛かることがおありのようですが」
「何にもありませんわっ!」
ファティナは突然顔色を悪くし慌てるようにそう叫ぶと、朝食もそこそこに膝の上のナプキンをテーブルへと置いた。
「ごめんなさい、ヴァルファム様。先に失礼致します」
クレオールが侍女にファティナについていくのを命じつけるのを眺め、ヴァルファムは眉を潜めた。
「何かあったのか?」
クレオールに問いかけると、クレオールは静かに「昨日リルティア様からのお手紙をお読みした後から少し思想に更けることが多くおなりです」と進言したが、ヴァルファムは冷たく睨み返した。
「なぜ早く言わない」
「申し訳ありません」
クレオールは丁寧に詫びをいれたが、ヴァルファムは嘆息して食事を中断すると、口元をナプキンで拭い席を立った。
――なんと役立たずだろうか。
昨日からあの状態だと? セラフィレスが阿呆のように騒いでいるから気付かなかった。
もしや、昨夜あの人は何かを思い悩みヴァルファムに相談したいと思ったかもしれないというのに、あの下らぬ酔っ払いの為にそれが適わなかったかもしれぬのだ。
ヴァルファムは内心でセラフィレスとクレオールをののしり、自分のことは棚に放り投げた。
自分に非はまったくない。勿論。
ファティナの部屋の前に立ち、大きく息を吸い込む。
艶のある二枚扉に軽く結んだ拳を押し当て、極力優しい声音でもって囁きかけた。
「義母うえ、よろしいですか?」
「――よろしくありません」
またか。
中から聞こえる声に嘆息し、無理に扉を開くと中にいたファティナが顔をゆがめ、ついで彼女についている侍女が体を硬直させ自分の女主を見て、勇気を振り絞るように一歩進み出た。
「申し訳ありませんが……」
「義母はへそを曲げているだけだ。話し合えば分かり合える――席をはずしていろ」
ぴしゃりと言い切り、軽く手を払う。
女主人を守る為にいる侍女と言えど、相手はこの屋敷の正真正銘の主である為、困惑しつつも丁寧に頭を下げ、そのまま引き下がった。
未婚の女性であれば男と二人になどできようはずはないが、あくまでもファティナは既婚者であり、またこの男は彼女の義息だった。
義母は寝椅子に座り、大きなクッションを抱きしめて眉を潜めた。
「ヴァルファム様、お仕事はどうなさいました」
「長期休暇にはいりました――その話をしようかと思っていたのですがね」
「……旦那さまのところに、行きますの?」
戸惑うような言葉に、ヴァルファムは息をつめた。
面前の義母は、明らかに動揺している。
だが理由がまったくつかめない。
今の話の流れで、彼女は理解したはずだ。愛する夫の許へと、今日明日にでも旅立つのだということを。
いかな愚かな彼女だとて、長期休暇に入ったという意味くらい理解していることだろう。
ヴァルファムは眉間に皺を刻みつけてファティナの前に膝をつき、その顔を覗き込んだ。
「父の許に行く気は失せましたか?」
「いえ、そんなことは」
「突然どうなさいました?」
普段であれば他人の心など完全無視して、阿呆のように「旦那さまにお会いしたいのです!」と騒ぐ小娘様らしくもない。
視線を合わせようとすると、視線がそれる。
もともと短気なヴァルファムはその手を伸ばしてファティナの顎先を捉えると、ぐっと無理やり視線を合わせ、まるで人攫いが甘い菓子で子供を釣るかのごとく優しく囁いた。
「何か困ったことがおありですか? 一人で気をもむなど貴女にはむきませんよ」
「――」
「それとも、この義息は貴女にとって信用ならぬ者でしょうか?」
「そんなことはありません」
そう言う言葉が弱々しい。
自らもどうして良いのか判らぬという様子に、ヴァルファムは苛立ちを覚えながらも、やんわりとした口調を変えずに相手の心を解きほぐすように囁いた。
「では、どうぞ何でも相談なさってください」
「でも、ヴァルファム様は……」
ファティナは眉をきゅっと寄せ、膝の上に乗せた手を握りこむ。
「男の方ですもの」
不満そうな言葉に、ヴァルファムは苦笑した。
「男だと駄目ですか?」
「判りません」
脈絡の無い様子にヴァルファムは深く息をつき「義息にはいえないのですね。判りました。義母うえがそんなに私を信用して下さらないとは思いませんでした。とても悲しいですね」と淡々と言葉を落とし、ぱっと固定していた顎先から手を離し、身を翻した。
途端、ファティナは声を張り上げていた。
「痛いのですか?」
「は……?」
何が?
ぴたりと足を止めて振り返ると、ファティナは半泣きの顔で悲痛にヴァルファムを見上げていた。
「子作りは痛いのですか?」
「――」
――その時ヴァルファムを襲ったのは激しい脱力だった。
聞かなければ良かったと思ったのだが、正解はもう少し違う。聞かなければ良かったのではなく、それ以上言わせなければ良かったが正解だ。
「リールがとても痛かったと言うのです。酷いって」
「はぁ、なんというか――そういうこともあるようです」
これは確かに男であるヴァルファムには応えがたい。自らの身で確認できることでもないのだから。
「では本当なのですね?」
蒼白になったファティナはぶるりと身震いし、更に悲壮な表情で言葉を続けた。
「リールがイヤだといったら、リールの旦那さまは無理やり縛って……そんなこともするのですか?」
さすがにヴァルファムは思考能力を失いそうになった。
「へ、部屋に三日の間閉じ込められて椅子に縛られたってっ。子作りってそんなにたいへんなのですか?」
見知らぬ恐怖に慄いているファティナはとうとう涙まで流し、ヴァルファムは「馬鹿をおっしゃい!」と声を荒げてしまった。
「どんな鬼畜ですか。そんな人間は早々いませんよ」
「では、嘘なのですか?」
「嘘です」
――いや、嘘ではないかもしれないが。特殊であることに変わりは無い。
少なくともヴァルファムはしない。いや、しない? しないと思う。少しだけしたいかもしれないがそれはまた別の話だ。
ファティナを閉じ込めて、縛る?
……くそっ、何故に突然こんな話題に。あの馬鹿娘っ。だから友達は選べと言っているではないか。
「じゃ、じゃあ。旦那さまはそんなことはなさらない?」
ヴァルファムが内心で罵り言葉を撒き散らしていると、ファティナは嬉しそうに声をあげた。
「しません。まったくあなたときたら、どうしてそう突飛なことを……リルティア嬢にからかわれただけではありませんか?」
いや、本当かもしれないが。
リルティアの夫の性癖など知るものか。
忌々しそうに吐き捨て、ヴァルファムはハっと息を飲み込んだ。
ファティナが目に見えてほっとした様子で眦に浮かんだ涙を拭う。
「ああ、良かったです。ヴァルファム様にお尋ねして本当によかった。だってわたくしときたら、旦那さまに会うのが少し怖くなってしまったのですもの。そうですわよね。旦那さまがそんな酷いことをするなんて、なんてわたくしは愚かなのでしょう」
「……」
「こんな話を旦那さまが耳に入れたら、きっと笑われてしまいますわね。ヴァルファム様にお尋ねしてよかったです」
ヴァルファムはにっこりと微笑む義母を見下ろしながら、
「ヴァルファム様は長期休暇に入られたのですよね? 早く旦那さまにお会いしたいですわっ」
――自分の失態を呪った。
くそっ、いっそ誤解させておけば良かった!