仲直り
夕食後に話があるからとエイリクが面会を求めて来たという。
すでにクレオールからエイリクが明日帰宅するという報告を受けていた為にヴァルファムは不要とは思ったものの、明日になれば居なくなるのだからと許諾した。
本日のヴァルファムは機嫌の良さと悪さが平行線を辿ったままだった。
エイリクは帰宅する。だが、現状ファティナは「絶交です」と子供のように顔をそむけてしまうという有様だったのだ。
「寄宿学校に入学することに致しました」
直立不動でいうエイリクの姿にヴァルファムは多少いら立ちを覚えたものの、もとよりエイリクの先行きに何の興味もない。むしろ帰るということばかりが脳裏にあり、その問題を失念していたと言ってもいい。
「判った」
「……」
あっさりと言われたことにエイリクは戸惑うような表情を浮かべた。
無理もない。なんといっても聖騎士を勧めていたのは他ならぬヴァルファムである。ヴァルファムが年若い頃に憧れた――という事実は無い――聖騎士という職種を、弟であるエイリクに担って貰えまいかという話であった筈だ。
もっと強く勧められるか、若しくは考え直すようにと言われると思っていたエイリクはあまりのあっけなさに拍子抜けしてしまった。
まさか高潔と信じて慕う兄から向けられた「トンスラになって一生童貞を貫け」などという下らぬ嫌がらせだったとはさすがのエイリクにも判らなかった。もしそんなことを知ってしまえば、この数日の間悩み続けた自分の頭を殴りつけたくなったことだろう。
「クレオールから聞いている。明日帰るそうだな」
「はい。明日の午前中にヒースに向けて発とうと思っています」
「判った。無事を祈る」
話は終いだというようにヴァルファムが軽く手を払えば、エイリクは身じろぎして「あのっ」と言葉をつなげた。
「なんだ、まだ何かあるのか?」
「ジゼリと少し話しをしました」
意識を取り戻したジゼリをエイリクは激しく問い詰めるようなことはしなかった。
ジゼリがこのところ塞いでいたことも、ヒースに戻りたいと幾度も訴えていたことも知っている。
蓄積されたものが、エイリクに冷たくされたことでその引き絞った弓弦を解き放ってしまったのだろうというのはエイリクにだとて判る。
だが判らないものがあった。
――……ほんの下らぬ気まぐれで贈られる贈り物などでエイリク様の心を乱して欲しくなかった。もし毎月続くそれらがある日突然失われた時、エイリク様が傷つくと思えば腹立たしい思いが募ったのだと。
ジゼリが言った言葉全てが真実であるのかは判らない。
もっと別の感情があったのかもしれない。だが、エイリクはジゼリにそれ以上問い詰めることはしなかった。
「一緒に帰ろう」
そう肩を叩いて「来年は寄宿学校に入る。そうしたら、ジゼリはぼくの居ないヒースの家を一人で守ることになるけれど――大人になって、その腕にぼくの子供を抱かせると約束するから」と労う口調で言えば、ジゼリは泣き崩れて自分のしてしまったことを詫びた。
「本人も今は深く反省し、義母さまや兄さまに謝罪したいと申し出ています」
「それは不要だ。決して二度と義母の前にその女を会わせるな」
思ったより厳しい反応にエイリクは慌ててうなずき、それを打ち消すように言葉を急いだ。
「それと、怪我をさせてしまった家庭教師のメアリですが」
ぴくりとヴァルファムは目元を痙攣させた。
メアリのことではもうファティナからしつこい程の叱責を受けている。
「女心が判らない!」とまで言われた。更に、どこでひろってきたのか「そういうのはぼくねんというのです」と判らないことを言い出し、クレオールが咳払いをして「朴念仁です」と訂正したのがまた腹立たしい。
それを言うのであれば、義母ほど義息心が判らない女はいないだろうと糾弾したい程だ。
「メアリ女史がなんだ」
幾度もファティナに叩き込まれた為に今はその名前もきちんと言える。
威張る話ではないが。
「怪我は残らないとシアース医師が請け負ってくれましたが、彼女には慰謝料として何かの保障をしたいと思います。お力添え願えますでしょうか」
「彼女には郊外に屋敷を一つ用意する。それでいいな」
それは慰謝料としても法外なものだった。
兄がそこまで考えていることに驚いたエイリクだったが、実情は違う――別の意味での慰謝料、むしろ迷惑料だった。
ヴァルファムとメアリの婚約話は現在宙に浮いている。
浮いている――というか、事実上は破談と言っていいだろう。メアリが完全に拒絶していることもあるし、ファティナに言わせると「ヴァルファム様の誠意の無さが酷すぎる」ということになる。
「名前さえ覚えずに婚姻など間違っております。失礼です。酷いです。わたくしの義息はこんなにも情けない方だとは思っておりませんでした」
いかに婚姻とは素晴らしいものかということを滔々ときかされた。
さすがに我慢が利かずに「あなたの婚姻はさぞ素晴らしいものなのでしょうね」と返せば、あの小娘様ときたら「自分の旦那様は素晴らしいですが、ヴァルファム様は最悪です」と切りかえしてきた。
腹立たしい。
思い返すだけであの小生意気な口を塞いでやりたくなる。
「メアリ女史を本気でお望みでしたら、心を尽くして愛を勝ち取るのです」
と熱心に言うファティナに、ヴァルファムは冷笑を浮かべて言った。
「いやです」
「……」
「何度も言うように、私が望む妻は便宜上の妻でしかない。粛々と書類にサインをしてくれる女という性別であればいいのです。愛? 馬鹿げた妄想もいい加減になさい」
「そんな方にメアリ女史はあげませんからねっ」
「いりません」
そして小娘様は激怒し「ヴァルファム様なんて大嫌いですっ」と出て行った。思い返せばまるきり子供同士の喧嘩のようだが、おそらく自分も苛立ちが頂点に達していたのだ。
何故に義母ときたらああも熱心に義息の結婚話をすすめようとするのか。そう思えば意固地にもなるというものだろう。
「やはりぼくの兄さまは立派です」
「なんだ突然」
「いえ、なんでもありません」
エイリクは機嫌を良くした様子できらきらと瞳を煌かせ、ついで見えない尻尾をぶんぶんと振った。
「ぼくは明日帰りますが、メアリと義母さまのことをどうぞよろしくお願いします」
丁寧に頭をさげる腹違いの弟の言動に、ヴァルファムはぴくりと片眉を跳ね上げた。
「おまえに言われるべくもない」
「そうですね。兄さまは何でもそつなくこなせる素晴らしい兄さまですから!」
……なんだろうか、この居心地の悪さは。
全開で褒められるこの気持ちの悪さ。本心からなのだろうと思うが、ヴァルファムとしては相手の裏を考えてしまう。
まさか褒めているようにみえて真実は貶しているのではあるまいな。
そんなことまで思うヴァルファムだったが、それはただヴァルファムの心が穢れているからに過ぎない。
エイリクは本気だった。
―― 一瞬でも兄さまを疑った自分を恥じているぐらいだ。
そう、兄さまはもしかしたら自分の考えているような人ではないのではないかと、昼間ちらりとよぎったあれは間違いだとエイリクは尊敬と思慕の思いを更に募らせた。
「遅い時間にお時間を頂きましてありがとうございました」
エイリクは丁寧に頭をさげた。
「逗留の間に多大な迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。明日は兄さまが仕事に行かれている間に帰宅となりますので、これで出立の挨拶とさせて頂きます」
「気をつけて帰れ」
「はい」
一見すれば麗しい兄弟愛にすら見えただろう。
それが間違いだと完全に気付くのは、もう少し先である。
***
「絶対にヴァルファム様と女史の婚姻は認めません」
ファティナは力強く言った。
「でも、ヴァルファム様がちゃんとメアリ女史を愛して優しくしてくださるなら許してさしあげてもいいですけど」
濡れたファティナの髪の水気を丁寧にタオルで落とす執事は穏やかに口元に笑みを浮かべた。
「そうなると宜しいですね」
「クレオ、言い方に心が入ってませんわよ」
「そのように聞こえましたら失礼致しました。それから、頭を動かさないでいただけると、お髪を引くような無作法なことにはならないのですが」
ファティナがぐりんっと後ろを向こうとして髪が引っ張られたことを丁寧に詫びると、ファティナは肩をすくめた。
「クレオはこの婚姻は反対?」
「反対も何もありません。良いことだと思っておりますよ。僭越ながら言わせていただければ、貴族の婚姻とはえてしてそのようなものだと」
政略結婚とはそういうものだという執事に、ファティナは吐息を落として耳にかかるおくれ毛を指先にからめた。
「わたくしは旦那様を愛しておりますわ」
「はい」
「旦那様は……わたくしを愛してくださっているかしら」
消え入りそうな切ない言葉に、クレオールはファティナの旋毛を見つめながら優しく髪をタオルでなぞる。
「どのようにお考えなのですか」
言葉にしてから失言だとクレオールはふっと眉を潜めた。
だが、相手はそうは取らなかったようだ。
ファティナは鏡越しにクレオールを見つめ、微笑んだ。
「わたくし、婚姻のおりに旦那様に一つお願いを致しましたの」
視線でうながせば、ファティナは幸せそうに微笑んだ。
「旦那様はその約束をきちんと守ってくださいました。だから……何があろうと、旦那様の妻でありつづけられるのです」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせるようにゆっくりと一つづつ丁寧にファティナの唇から零れ落ちた。
そんな時の彼女はいつもの彼女と違い、やけに大人びて見える。
クレオールは半眼を伏せ、だいぶ乾いた髪にそっと指先を入れ鏡台のブラシに手を伸ばしたが、丁度その時扉がノックされ、控えていた侍女が扉を開いた。
「よろしいですか、義母うえ」
「よろしくありません」
つんっと途端にファティナは子供の顔に戻って顔を背けた。
その背は「絶交中です!」と頑なに示している。
ヴァルファムは苦笑を浮かべてファティナの私室に足を踏み入れると、鏡台に近づきクレオールの手からブラシを引き取った。
「大嫌いと言われたままでは安眠できそうにありません。非道な言葉の撤回を求めます」
「ヴァルファム様の酷い結婚観を改めていただけなければ撤回は致しません」
つんっと横をむいたまま言うファティナの髪にブラシを当てながら、ヴァルファムは湿った髪に丁寧にブラシを通していった。酷く優しく、ゆっくりと。
「私の結婚観がどうなればいいのですか」
「きちんと愛する方と結婚なさいませ。好きな方はいらっしゃいませんの? その方とずっと一緒にいたい。愛し、愛されて子供を育み、家庭を築きたい。そういう方と結婚なさるというならば、大嫌いは撤回してもよろしいですわ」
横を向けていた顔を正面に――鏡へと戻し、自分の背にいる義息を鏡越しに見上げる。
ヴァルファムは鏡の中のファティナではなく、自分の前にいる――ファティナの肩を見つめていた。
「――そんなことを言えば私は一生独身かもしれませんよ」
「今はいないかもしれませんけれど、いつかきっとそういう方にめぐり合えますわよ。早く結婚なさいませとお願いしましたけれど、でも無理やり結婚なさるなんて馬鹿げてます」
「私が愛する方を妻にするといえば、あなたはあの言葉を撤回するのですか?」
淡々と問いかけてくるヴァルファムに、ファティナはほっとした様子でうなずいた。
「勿論です」
「判りました」
ヴァルファムは吐息を落とし、ファティナの髪を一筋すくいとり湿った髪に唇を寄せた。
ハーブオイルの香りのする髪に口付け、ヴァルファムの口元に疲れたような微笑が浮いた。
「本当に判ったのですか?」
「ええ。結婚するならば心から求める方に致します――だから、どうぞ大嫌いだなどと冷たいことをおっしゃるのは止めて下さい」
あんまり非道い言葉で辛くて眠れないと低く言う義息に、ファティナはヴァルファムが辛いなどというのはまるきり信じることができずに肩を震わせた。
「では撤回致します。大嫌いなんて嘘です。わたくしはヴァルファム様が大好きですわよ?」
「愛していますよ、義母うえ」
囁いた言葉の真実など、少しも気に掛けてなどいないだろうけれど。
今はまだ、それでいい。