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思い違い

 医師の処方した薬でようやく眠りに落ちた乳母を前に、エイリクは失意の中にあった。

何故彼女があのような行動に出たのか、理解しがたい。ただのアヘンチンキの過剰摂取だけが原因であるのか、それとも日々の憤懣が爆発したのか、あるいは――エイリクの態度がそうさせたのか。

 兄は、ジゼリをそうそうに連れ出せといっていたが、医師がとりなしてくれた為に数日の猶予があった。ほんの数日。ジゼリが自ら歩けるようになるまで。

――エイリクは寝台で眠るジゼリを下女に任せ、疲れた自らを鼓舞して母屋へと足を向けた。

 幾度も幾度も足が止まり、躊躇する。

怪我をさせてしまったという家庭教師の姿を認めると、強張った表情でエイリクは声を掛けた。

「ぼくの家人が、ご迷惑をおかけ致しました」

 丁寧に謝罪するエイリクの様子に、メアリは何故か狐につままれたような微妙な表情を浮かべ、更に苦笑するように口を開いた。

「乳母の方はお疲れでしたのでしょう。あまり心を痛めませんように」

 思いのほか労わりのある言葉にぐっと喉の奥が詰まった。そんな自分を誤魔化す為に、エイリクは言葉を重ねた。

「義母さまは――お怪我は無いと聞きました。大丈夫ですか?」

「今は二階の居間においでだと思いますよ? ご自身でお確かめになったらいかがですか? 奥様もエイリク様を心配なさっておいででした」

 穏やかに言われる言葉に胸が痛む。

「兄が……嫌がっておりますから」

 自然と視線が足元に落ちた。

兄は義母に心を砕いていて、義母にとって自分が害有る存在であると定めてしまっているようだった。

 もう義母に悪意など向けないと、怪我などさせないと誓ったところでおそらく認めてなどくれないだろう。

 最後にきちんと謝りたいと願ってはいるが、兄は決してそれを良しとしてはくれない。

「――お気になさる必要はありませんよ」

 しかし、メアリはふっとどこか呆れたような笑いを浮かべ、何故か声を潜めた。

「ファティナ様をどう思われます?」

 普段であれば無遠慮だと憤慨しただろう。

だが、負い目が先にたちエイリクは眉を潜めたもののゆっくりとその問いに答えた。


「それは、好きとか嫌いとかいう話ですか?」

「どのようにでも。率直な気持ちをお尋ねしているのですから」

「――ぼくは母という存在を知りませんから、彼女を示されて義母といわれてもピンとはきません。けれど、今は、嫌いではありません」

「それは、女性としてですか?」

 静かに問われた言葉に、エイリクは意味が理解できずに瞳をまたたき、次に「こいつは馬鹿か?」という思いに顔をしかめた。

「義母として認めようとしているところです。何故女性としてみなければいけないのですか」

「立派です!」


は?


「エイリク様は素晴らしいですね。できればそのままねじくれずに成長して下さい。決してあの兄君を見本にしてはいけませんよ」

 まぁっと本心かららしい言葉をつらつらと言う女の無礼さに、エイリクはカッとなった。

「無礼なっ」

 素晴らしい男の見本の筈の兄を示して、あれを見本してはいけないとはどういうことだ。腹立たしさに怒鳴ろうとするが、この面前の女教師ときたら全然ちっとも気にかけず、にっこりと微笑んだ。

「一緒に奥様のところに参りましょうか? 今頃はきっと宿題を前に眉間に皺を寄せていらっしゃいますよ」

 ぐいっと手首を掴んで歩き出した女教師の手を振り払おうとしたが、その手が怪我をしている手だと気付けばエイリクは苦々しい思いで相手の引くにまかせた。

――女性だというのに、怪我をさせてしまった。

 長袖の下にはきっとまだ包帯が巻かれているのだろう。少しだけ不恰好な腕を痛ましい思いで見つめ、何故か嬉しそうに少し前を行く女教師の横顔を仰ぎ、エイリクはどうにも複雑な気持ちになった。

「……ごめんなさい。この償いはかならず」

 ふっと自然と言葉が口をつく。

それに驚いたようにメアリは一旦足を止め、ついで微笑んだ。

「そうですね。エイリク様が大人になった折りに私が嫁いでおりませんでしたら、嫁にでも貰っていただこうかしら」

 そのあまりな内容に驚くエイリクに、メアリは柔らかな微笑を落とした。

「冗談ですよ」

「……判りました」

 エイリクはぽつりと応え、メアリは弾かれたように笑った。

「ですから、本気にとらなくて宜しいのですよ。私と貴方様、いったい幾つ違いだと思いますか。そんなことはいいのです。どうぞ健やかに成長なさって下さいね」

ええ決してひねくれ曲がった大人になどならないように。

暗に彼の兄を脳内でけちょんけちょんにしていたメアリだったが、エイリクには伝わらない。


――エイリクは楽しげな物言いを受けながら、メアリの手を見ていた。


***


 多量に詰まれた本とメアリ直筆の問題集を前に、ファティナは暗澹たる吐息を落としてそれでも真面目に取り組んでいた。

「少しお休みなさったらいかがですか?」

 クレオールが相手を勤めながら穏やかに問いかける。あれ以来、クレオールは女主を他の誰かに預けることを嫌がり、それでも職務上離れなければいけない場合はわざわざ侍女に下男を呼びに行かせ、ついで侍女も二人つけるという念の入れようだった。

 メアリは事実上現在休暇中になっていた。

「あの方……ジゼリさんの具合はどうなのかしら」

 クレオールから休むようにという言葉を受け、ファティナは持っていた羽ペンを嬉々としてペン立ての中に入れた。

「落ち着いてきておいでのようです」

「そう――判ってるわ。お見舞いなんていいませんから、そんな風に見ては駄目」

 ファティナはじっと自分を見てくるクレオールの先手を打って肩をすくめた。

「こっそり行こうなんて駄目ですからね」

「その為に最近クレオはわたくしに張り付いているのですね」

 もぉっと不満をみせる女主に微笑みかけ、紅茶の準備の為に室内のベルを鳴らそうとすれば、開きっぱなしになっている扉を控えめにノックしてメアリが現れた。

「よろしいですか?」

「ええ、勿論!」

 ぱっと微笑むファティナは、ふいに勢いをつけて立ち上がるとぱたぱたと扉へと近づき、そして――クレオールは顔を顰めそうになるのをかろうじて押しとどめた。

 ただし、一瞬じろりとメアリを睨みつけるのは忘れなかった。

何故、エイリクを連れてくるのか。

最近メアリのすることは度が過ぎているのではないかとよぎる。使用人としての分を逸脱している。

――確かに、女主を守り抜いたことは立派だがそれとこれとは違う。


「エイリク様っ」

「……義母さま」

「二日ぶりですね。お会いしたかったのですけれど……」

 いっそ無邪気な義母の様子にエイリクは戸惑いながら、だが本来ここに来た理由を忘れてなどいなかった。


「義母さま、お怪我は無かったと伺いましたけれど、今回のことは」

 真面目に詫びをいれようとするエイリクを、ファティナは両手で引き寄せてその耳元に囁いた。

「あの方はきっとエイリク様が大好きなのですね。誰かにとっても好かれることはとても素晴らしいことですわね」

 優しい口調で囁かれる言葉はエイリクの意表をついて。

そっと背中に回った手が優しく自分を撫でることにエイリクは突然、涙が溢れた。

「義母さま、義母さまっ」


――この人が怪我をしなくて良かった。

 その思いがぶわりと広がり、ぎゅっと相手にすがって恥じも臆面もなく、子供のままに泣き叫ぶ。

 そんなエイリクを優しく撫でながら、ファティナは相手の激しい感情に驚きはしたものの、ふわりと微笑んでエイリクの感情が収まるにまかせた。


まだ――幼い子供なのだ。

いや、今やっと幼い子供であることが許されたのだ。


そんな二人を見ながらメアリは慈愛のこもる眼差しをむけ、ついでちらりとこの部屋のもう一人であるクレオールを眺めた。

――微笑ましいですね。

 そう思いを共通できるかと思ったのだが、クレオールはただメアリを冷たく睨んでいる。


……最近ちょっと優しさを向けてくれるようになった気がしたのだが、鉄壁の執事は更に女主への庇護欲を高めてしまったようだ。

物凄く、怖い。


 涙が枯れ果てるまで泣きつくした少年は、照れくさい様子で義母を見て言った。

「明日、ヒースに帰ります」

「そうですか……寂しくなりますわ」

「来年……寄宿学校に入ることにしました。兄さまには聖騎士を勧められましたけれど、ぼくには到底無理だと判りました」

――聖騎士は婚姻が許されない。

メアリの傷を思いながら、エイリクは苦い気持ちを胸の奥に押し込めた。

「学校は全寮制ですけど、休暇には顔を見に来ていいですか?」

「勿論ですわ」

 嬉しそうにファティナはうなずき、ついで思い出すように言った。

「次の誕生日には何か欲しいものはありますか? 昨年はクレオールの勧めで本を贈らせてもらいましたけれど、でも本当はエイリク様が欲しいものを差し上げたいとずっと思ってましたのよ」

 無邪気に言う母の言葉に、エイリクは息をつめて瞳を瞬き、ゆっくりとした口調で問いかけた。

「――黒い装丁の、学術書でしたら……今回も持参しています」

 兄が送ってくれているのだと思っていた。

どくどくと耳元で脈が聞こえるように動揺が走っていたが、エイリクは平坦な言葉を落とした。

「喜んでいただけているようで良かったですわ。当初はエイリク様がもっとお小さい方だと思っていたものだから、人形など贈ってしまって……」

 思い出したのかくすくすと笑うファティナを見ながら、エイリクは枯れた涙がまた落ちるような気がした。


――人形なら知っている。

 くず入れの中に入っていた。

ジゼリが捨てたのだ。

「まったく、業者が間違えて荷物に入れたのでしょうね」

そう言いながら、ジゼリはくず入れを片付けていた。

 乾いた笑みが口元に広がり、エイリクは深く息をついた。


――義母さまは、ぼくを無視していた訳じゃなかった。

義母さまは……


「そうだわ」

 ファティナはよいことを思いついたというようにポンッと手を叩いた。

「エイリク様、今夜は一緒に寝ましょうか?」

 その発言に、エイリクはそれまでのしんみりとした思いを吹き飛ばし、思わず、


「ぼくは子供じゃありません!」

 真っ赤な顔で怒鳴る声に重なり、メアリとクレオールとが、

「奥様! 駄目ですっ」

と、声を張り上げた。

「良いではありませんか。ヴァルファム様とは添い寝致しますのに、エイリク様とは駄目なんておかしいですわよ」

 むぅっと唇を尖らせるファティナの言葉に、エイリクは思考を停止させた。

「ヴァルファム様と一緒に寝るのも駄目だと言っているではありませんか」

メアリが言葉を募らせる。

「それはそうですけれど……ヴァルファム様だって具合の悪い時は一緒にいて欲しいっておっしゃるのよ? 子供と眠るのは普通のことです」


兄さま……?

エイリクは思わず視線を執事へと向けたが、執事はすっとその視線を剃らした。

決して合わせてはいけないとでもいうように。


――兄さま? 





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