ははおや
突然耳に入り込んだ怒声と、自分の手を強く握りこまれた感触に目覚めた時、ファティナは自分の手を握りこんでいるのがメアリである事実に息が止まるのではないかという程の衝撃を受けた。
気に入りの籐の揺り椅子で転寝をはじめた時、共にいたのは執事のクレオールであった筈だ。
体に蓄積された気だるさに瞼を閉じたり開いたりしながら、クレオールの優しい声音を子守唄代わりに耳にいれていたのをきちんと覚えている。
だが、突然の金切り声のようなものと、自らの手を掴む強い力とがファティナの優しい眠りを退け、そして彼女の視界に入ったのは、自分の手を掴んだまま面前に中腰で立つメアリの背中。
「無礼が過ぎましょう。出て行って下さいませ」
緊張を孕んだ言葉が、つながる手からもその振動を伝えるように。
「ただの女教師であるあなたこそ出て行けばいいっ」
悲鳴のように上ずり、高い声が誰のものであるのかは判らない。だが、ファティナは覚醒した頭にけぶるものを払拭するように二度ほどゆっくりと首を振り、あえぐように酸素を取り入れた。
―― 一瞬浮かんだものは、それまで自らが感じたことなど無い恐怖だった。
何故、彼女が自分の前にいるのか理解できない。
それまで良く知っていた筈の人だというのに、身のうちが震える程にざわりと何かが体を貫き、まるきり理解の出来ない他人のように感じた。
そう思う自分がやけに許せずに、ファティナは一旦ぎゅっと強く瞼を閉ざして、慣れた習慣で浮かんだ感情全てを飲み込んだ。
――彼女はわたくしの大事な教師。大事な友人。そして、義息が愛し、妻にと望んだ人。
「何事ですの?」
ファティナは静かに問いかけた。
現状は把握できないが、何かの揉め事は理解していた。メアリが誰かと口論している。なれば、女主として振舞うことが正しい。
「どうなさったの?」
ファティナの問いかけに、メアリは緊張した面持ちで振り返り、自らの体で隠していた相手を示すように少しばかり横にずれた。
開けた視界には、強張るような顔をした女が一人。ファティナそれが誰だか判らず、困ったように小首をかしげた。
「どなたでいらっしゃいますか? わたくしに、何か御用が?」
記憶のどこかで見かけたような気がするが、使用人の誰かであったろうか。
「用などありはしません」
しかし、女は強張った表情のままで冷たく言い切った。
「私のエイリク様を返してください」
低く訴える言葉は怨嗟にまみれる程冷ややかで、けれど言われたファティナは瞳をまたたかせて意味をつかみかねていた。
「エイリク様の……お母様?」
「そうですよ。そうっ、私がエイリク様の母親なのです」
女はそう口にし、途端に自分の言葉に勇気付けられるように勢いを増した。
「そう、私が母親なのよ!
エイリク様は私がこの手で育て上げたのですっ。私のエイリク様を返してくださいっ。私のお優しいエイリク様をっ」
女は自分の言葉に更に興奮を募らせるように声をあげた。
ずかずかと無遠慮に近づくことを遮る為にメアリは慌てて二人の間に割って入る。
「あの子は私の子なんだっ」
相手の様子は錯乱しているようで到底まっとうではなく、大きく見開いた瞳は血走っていた。
酒でも過ごしているのかという程の様子だが、実際どうかは見て取れなかった。
メアリの腹が急速に冷えるように恐怖を示すが、だからといってこの状態の女をファティナに近づけさせられる訳が無い。
「なんなんですっ、誰かっ! 誰かいないのっ」
咄嗟にテーブルの上にあるベルを引っつかんでかき鳴らす。その間も相手から視線をはずすことは逆に恐ろしくてできなかった。
「どきなさいっ」
よくないことが起こる。
いや、起こっているという思いに頭の中がキンっとした痛みを覚える。
メアリは力ずくでファティナに詰め寄ろうとする女の様子に、相手の肩を押さえ込み、開いたままの扉に意識をむけ、早く誰かが来ないものかと気をもむがあまり意識を散らしてもいられない。
興奮に口元に粟粒を飛ばした女は、憎むように怒鳴った。
「どきなさいよっ」
声と同時に、メアリは二の腕に風圧と熱を感じて一瞬息を止めた。
「女史っ」
ファティナの驚愕の悲鳴に自分の身におきたことを感じ取ったメアリは慌てて二の腕から視線をそらした。
見なければ現実として受け止めなくて良いというように。
突然走った熱は、やがてひりひりとした毛羽立つような痛みに変わる。
「なにしてるんですかっ」
自分の腕は極力見ないようにして、メアリは普段の「淑女らしく」という言葉遣いをかなぐり捨てて叫んだ。
「包丁とか、馬鹿ですかっ」
度が過ぎている。
諫めるつもりで言った言葉だったが、いつの間に小ぶりの包丁を手にした女は「あんたが邪魔をするからだっ」と怒鳴り散らした。
「その女さえいなければっ、その女は悪魔なんだよっ。私のエイリク様が、お優しいエイリク様がっ私に冷たくするなんてありはしないんだっ。ぜんぶ悪いのはその悪魔に違いないっ。誰も彼もそれに気付かないなんてどうかしてる!」
更に包丁を振りかざしてファティナへと向かいそうになる女をなんとか引きとめようとしたメアリだったが、その自分にファティナがぎゅっとすがってきたことに唖然とした。
恐怖で身がすくんだのかと思ったが、こんな場でそんな真似をされれば自分だって動けない。
「おく――っ」
小刻みに震えながらぎゅっと抱きしめてくるファティナは、メアリの動揺を上回る凛とした声を発した。
「ヴァルファム様の大切な方を傷つけてはいけませんっ」
この緊迫した状況だというのに、メアリは嫌悪感から意識を飛ばしてしまいそうになった――
***
その後すぐに駆けつけたクレオールと下男によって女は背後から羽交い絞めにされ引きたてられて行き、へたりとその場で座り込んでしまったメアリと、しっかりとメアリに張り付いたまま恐怖のあまり腰を抜かし、青ざめているファティナとが残された。
「奥様、お怪我はありませんか?」
「クレオ、クレオ、女史がっ」
「はい、傷の手当をしなければなりませんからはがれて下さい」
クレオールは優しく言いながらファティナの二の腕を掴み上げ、元々座っていた籐椅子へと座らせた。
その視線はすぐにメアリの切られた二の腕へと向けられ、胸のポケットからハンカチを引き抜いて、テーブルの上の水差しで湿らせる。
「今救急箱を取りにいってもらっています。傷は浅いようですから……平気ですか?」
クレオールの手が二の腕を掴み、濡れたハンカチを押し当てると、それまで熱であったものが、途端に小さな痛みに変わっていった。
それでも僅かな痛みに過ぎない。ほっと息をついてメアリが視線をあげると、未だ青ざめて心配そうにこちらを見つめているファティナの様子に、ちらりとクレオールを見た。
「私は大丈夫ですから、奥様を」
「侍女がきたらそうします。今はじっとしていて下さい」
慇懃な口調で言う男は、物慣れた様子でメアリの衣装の切り口を押し広げて、血の拭われた傷口を見て小さく息をついた。
「血が酷く出てますけれど、傷はたいしことは無い。多少……傷跡は残るかもしれませんが」
傷が残る。
その言葉に小さくうめきそうになったメアリだが、なんとかそれは押しとどめた。
「平気です」
「ごめんなさい……ああ、クレオ。女史はわたくしを庇って怪我をしてしまったのですっ。わたくしどうしたらっ。ああ、そんなことより、ヴァルファム様を呼び戻してっ。女史もヴァルファム様がいたほうが安心ですわよねっ」
半泣き状態のファティナの言葉は、生憎とメアリにとって安心できるものでもなければ心安らかになるものでもない。
メアリは疲れた気持ちで、黙々と自分の傷の手当をしてくれている男の横顔をちらりと眺め、ついで脱力しきった口調で言った。
「奥様、何か勘違いがあるようですけど……」
「ああ、女史。どうしましょう。何か必要でしょうか?
何でも言って下さいね。わたくしにできることなら――」
「とりあえず、その勘違いから修正させてください。このままその虫唾が走るような恐ろしいことを耳に入れ続けると、私、失神しそうです」
「失神? それは大変ですわっ」
更に慌て始めた女主を前に、メアリは自分の言い方が悪いと反省し、言葉を続けた。
「私はヴァルファム様と婚姻するつもりはありません。あの方と結婚など、世界が滅亡してもありえません」
きっぱりと言い切ると、ファティナは青ざめた顔のままメアリを見つめ、かすれるような口調で言葉を落とした。
「まぁっ、それは……ヴァルファム様の片思いなのですか?」
どうしましょう、という様子のファティナを見ながら、メアリはどう説明すれば理解してくれるだろうかという難問に眩暈がした。
この生徒ときたら、素直さばかりはおつりが来るほどあるのだが、文章問題への理解度は果てしなく低い。